「未回収のイタリア」とは?なぜ三国同盟のイタリアはオーストリアと対立したのか
1870年、ローマを併合したことでイタリア統一は大きく前進しましたが、統一後もオーストリア=ハンガリー帝国の領内にはイタリア人が多く暮らし、イタリアへの編入を求める地域が残っていました。これらは「未回収のイタリア」と呼ばれます。
そうした領土問題を抱えながら、イタリアは1882年、オーストリア=ハンガリーと三国同盟を結びました。
なぜ対立する相手と同盟を結んだのでしょうか。そして、この矛盾は第一次世界大戦でどのような形で表面化したのでしょうか。ここでは、そうした疑問に迫っていこうと思います。
「未回収のイタリア」とは?
「未回収のイタリア」とは、イタリア王国成立後もオーストリア=ハンガリー帝国の領内に残され、イタリア民族主義者が自国への編入を求めた地域を指します。
代表的なのが、アルプス南部のトレンティーノや、アドリア海沿岸のトリエステ、イストリアなどです。

※概略図なので、おおよその位置と考えてください
19世紀後半のイタリアでは、「同じイタリア民族が暮らす地域を一つの国家にまとめる」という民族主義の考え方が広がっていました。そのため、こうした地域はイタリア統一後も「まだ回収されていない土地」と意識されるようになります。
一方、これらの地域では、イタリア系住民に加えて、ドイツ系やスロヴェニア系、クロアチア系なども暮らしていました。地域ごとに民族構成は異なり、複数の民族が入り交じる土地でもありました。
こうした複雑な民族構成のなかで、イタリアへの編入を求める動きが広がっていったのです。
なぜ統一後も領土問題が残ったのか
19世紀のイタリアでは、いくつもの国家に分かれていたイタリア半島を一つにまとめようとする統一運動が進みました。
その中心となったのがサルデーニャ王国です。フランスの支援を受けてオーストリアと戦い、北イタリアの統合を進める一方、南部ではガリバルディが両シチリア王国を征服しました。
こうした動きを経て、1861年にヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が成立します。
この時点で現在のイタリアにつながる領土がすべて統一されたわけではなく、イタリア王国成立後も統一は続きます。
1866年には普墺戦争に参戦してヴェネトを獲得し、1870年にはローマを併合。翌1871年にはローマが首都となり、現在のイタリアにつながる国家の形がほぼ整います。
その一方、アルプス南部やアドリア海沿岸には、イタリア民族主義者が自国への編入を求める地域が残っていました。
とくにトレンティーノやトリエステなどは、イタリア統一運動の延長線上で「まだ統一されていない地域」として意識されるようになります。
こうしてイタリア統一が進んだあとも、民族主義者の間では、オーストリア=ハンガリー領に残る地域の獲得を求める動きが続いていったのです。
なぜイタリアはオーストリアと三国同盟を結んだのか
「未回収のイタリア」をめぐってオーストリア=ハンガリーとの対立を抱えていたイタリアですが、1882年にはドイツ・オーストリア=ハンガリーと三国同盟を結びました。
その背景にあったのが、フランスとの関係悪化です。
当時のイタリアは、地中海沿岸…シチリア島のすぐ南に位置するチュニジアへの進出を目指していました。ところが1881年、フランスがチュニジアを保護国化すると、イタリア国内ではフランスに対する強い反発が起こります。
19世紀後半は、ヨーロッパ列強がアフリカやアジアへの進出を強めた帝国主義の時代でした。統一を終えたイタリアも、国際的な地位や発言力を高めるため、海外進出を模索していました。
さらに、統一して間もないイタリアにとって、ヨーロッパの国際関係のなかで孤立を避けることも重要でした。
フランスを警戒するイタリアとドイツ、バルカンをめぐってロシアを警戒するオーストリア=ハンガリー。三国の利害が重なった結果、1882年に三国同盟が結ばれました。

領土問題を抱えていたオーストリア=ハンガリーとの同盟は、一見すると矛盾しているようにも見えます。しかし当時のイタリアにとっては、フランスへの対抗や国際的な立場を強めることも重要な外交課題だったのです。
同盟国になってもオーストリアとの対立は続いた
1882年に三国同盟を結んだことで、イタリアとオーストリア=ハンガリーは同盟国となりました。
しかし、両国の間にあった領土問題が解決したわけではなく、イタリア国内では引き続きトレンティーノやトリエステなどの獲得を求める声が上がっていました。
さらに両国は、アドリア海やバルカン半島をめぐっても利害がぶつかります。オーストリア=ハンガリーがバルカン方面へ影響力を広げようとすれば、イタリアにとっては自国の進出にも関わる問題となりました。
つまり三国同盟は、イタリアとオーストリア=ハンガリーの対立を解消した同盟というより、互いに問題を抱えながらも、当時の国際情勢を優先して結ばれた同盟だったのです。
第一次世界大戦でイタリアはなぜ協商国側に参戦したのか
1914年7月、オーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦すると、第一次世界大戦が始まりました。
イタリアはドイツ・オーストリア=ハンガリーと三国同盟を結んでいましたが、すぐには参戦せず中立を宣言します。
三国同盟は、加盟国が攻撃を受けた場合の相互援助を中心とする、防御的な性格の強い同盟でした。1914年の戦争はオーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦して始まったため、イタリア政府は三国同盟による参戦義務は生じないと判断します。
さらに、イタリアとオーストリア=ハンガリーの間には、「未回収のイタリア」をめぐる領土問題も残っていました。イタリア国内でも参戦をめぐって意見が分かれ、開戦当初は中立が選ばれます。
その後、イタリア政府は参戦の条件をめぐって両陣営と交渉を進めました。そして1915年4月、イギリス・フランス・ロシアなど協商国側との間にロンドン秘密条約を結びます。
同盟国側も、イタリアをつなぎとめるため領土の譲歩を検討しましたが、協商国側はさらに広い地域の獲得を約束してイタリアを引き込みました。
この条約では、協商国側で参戦する見返りとして、
- トレンティーノ
- 南チロル
- トリエステ
- イストリア
- ダルマチアの一部(アドリア海東岸)
などの獲得をイタリアに約束しました。
同盟国側が譲歩するには、オーストリア=ハンガリー自身の領土を差し出す必要があるのに対して、協商国側は戦後に敵国領を与える形なので「より良い条件」を提示できたんですね。
こうしてイタリアは1915年5月、オーストリア=ハンガリーに宣戦し、協商国側で第一次世界大戦へ参戦します。
長年続いてきた「未回収のイタリア」の問題は、イタリアが参戦する陣営を選ぶうえで重要な要因の一つとなったのです。
第一次世界大戦後、「未回収のイタリア」はどうなったのか
1918年、第一次世界大戦は協商国側の勝利に終わり、イタリアも戦勝国となりました。
戦後の講和によって、イタリアはトレンティーノ、南チロル、トリエステ、イストリアなどを獲得します。長年「未回収のイタリア」と呼ばれてきた地域の多くが、ここでイタリア領となりました。
ただし、戦争中のロンドン秘密条約で約束された領土をめぐっては、戦後の講和会議で各国の主張がぶつかります。とくにダルマチアでは、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国との間で対立が起こり、イタリアが期待していた範囲すべてを獲得するには至りませんでした。
そのため国内では、戦勝国でありながら十分な成果を得られなかったという不満が広がります。
こうした不満は、のちにイタリアで「vittoria mutilata(骨抜きにされた勝利)」と表現されるようになり、戦後の民族主義の高まりとも結びついていきました。
「未回収のイタリア」をめぐる問題は第一次世界大戦を通じて大きく動きましたが、その決着は同時に、戦後イタリアの新たな政治問題へとつながっていったのです。





