普仏戦争の結果、ドイツとフランスはどう変わった?ドイツ帝国成立とフランクフルト条約
1871年1月28日、フランスとドイツ側との間で休戦協定が結ばれ、前年から続いていた普仏戦争の戦闘はほぼ終わりました。
ですが、この時点で正式な講和はまだ結ばれていません。
その一方で、休戦のわずか10日前にあたる1月18日には、フランスのヴェルサイユ宮殿でプロイセン国王ヴィルヘルム1世が「ドイツ皇帝」として宣言されていました。
普仏戦争のさなかに、プロイセンを中心とするドイツ統一が完成へと向かっていたのです。
そして、敗れたフランスはドイツとの講和交渉を進め、1871年5月にフランクフルト条約を結びます。フランスは領土の一部を失い、巨額の賠償金を支払うことになりました。
さらに国内では、すでにナポレオン3世の第二帝政が崩壊し、新しい政治体制をめぐる混乱が続いていました。
今回は、普仏戦争の結果としてドイツ統一がどのように完成し、敗れたフランスがどのような状況に置かれたのかを見ていきます。
普仏戦争のなかでドイツ統一が完成
普仏戦争が始まった1870年、ドイツ統一はまだ完成していませんでした。
では、この戦争のなかで統一はどのように完成したのでしょうか。
北ドイツ連邦に南ドイツ諸国が加わる
1866年の普墺戦争でプロイセンがオーストリアを破ると、ドイツ統一は大きく前進しました。
それまでドイツ諸国をまとめていたドイツ連邦は解体され、翌年にはプロイセンを中心とする北ドイツ連邦が成立します。
ここで気になるのが「北」ドイツ連邦という言葉です。
実際に「南」に位置するバイエルンやヴュルテンベルク、バーデンなどの諸国は、北ドイツ連邦の枠外にありました。
もっとも、北ドイツ連邦に加わっていなかったとはいえ、南ドイツ諸国はプロイセンとの間に軍事的には結びついていました。普墺戦争後に軍事協定を結び、フランスとの戦争が起きた場合には、ともに戦う関係が築かれていたのです。
1870年に普仏戦争が始まると、これらの国々もプロイセン側で参戦します。

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※北ドイツ連邦と南ドイツ諸国。赤が北ドイツ連邦、オレンジが1871年に加わる諸国、薄いオレンジは普仏戦争後にドイツ領となったアルザス=ロレーヌ(後述)
そして戦争が続くなか、プロイセンは南ドイツ諸国との統一交渉を進め、同年11月には、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦を基礎とする統一国家へ加わるための条約が相次いで結ばれました。
こうして普墺戦争後から進められてきたプロイセン中心のドイツ統一は、普仏戦争のさなかに最終段階を迎えたのです。
ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝が宣言される
南ドイツ諸国の参加が決まり、ドイツ統一の枠組みが整うと、1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として宣言されました。

これによってヴィルヘルム1世は、プロイセン国王であると同時に、新しく成立したドイツ帝国の皇帝となります。
なお、この時点で普仏戦争はまだ終わっていません。ドイツ軍はパリを包囲しており、そのフランス国内でドイツ帝国の成立を示す式典が行われたのです。
1871年1月18日は一般に「ドイツ帝国成立の日」として知られていますが、新しい憲法はすでに1月1日から効力を持っていました。
つまり、1月18日はドイツという国家が誕生した日というより、統一ドイツの成立を皇帝宣言によって内外に示した日と考えると分かりやすいでしょう。
なお、皇帝宣言がベルリンではなくヴェルサイユで行われたのは、当時ここにドイツ軍の本営が置かれていたためです。
一方で、フランス王権を象徴するヴェルサイユ宮殿で皇帝宣言が行われたことは、フランス側にとって強い屈辱を伴う出来事となりました。
こうして成立したドイツ帝国は、プロイセンをはじめ、バイエルン、ザクセン、ヴュルテンベルクなどから成る連邦国家で、帝国成立後も各邦にはそれぞれの政府が残されました。
一方で、戦争に敗れたフランスでは、ドイツとの正式な講和に向けた動きが始まっていました。
休戦したフランスは講和を受け入れる
休戦後、フランスは今後の方針を決めなければなりませんでした。戦争を続けるのか、それともドイツ側の条件を受け入れて講和するのか――その方針を決めるため、1871年2月8日に国民議会選挙が行われます。
選挙では王党派を中心とする保守派が多数を占める結果となりました。当時、地方では長引く戦争を終わらせたいという声が強く、講和を支持する候補が多くの支持を集めます。
一方で、長期間にわたってドイツ軍の包囲に耐えてきたパリでは、戦争継続を求める声も強く残っていました。
こうしたなか、2月17日にはアドルフ・ティエールが国民議会によって行政権の長に選ばれ、ドイツ側との講和交渉を進めていきます。
その9日後にはフランスとドイツ側との間で予備講和が結ばれ、領土の割譲や賠償金など、戦後処理の大枠が定められたのです。
フランクフルト条約で普仏戦争が終結
1871年5月10日、フランスとドイツ帝国の間でフランクフルト条約が結ばれ、普仏戦争は正式に終結しました。
敗れたフランスに課された主な条件が、領土の割譲と50億フランの賠償金です。
フランスはアルザスの大部分とロレーヌの一部を失う
フランスはフランクフルト条約によって、アルザス地方の大部分とロレーヌ地方の一部をドイツ帝国へ割譲しました。
ロレーヌの重要都市メスもドイツ領となります。
一般には「アルザス・ロレーヌを失った」と説明されますが、両地方のすべてが割譲されたわけではありません。アルザス南西部のベルフォール周辺などはフランス領として残されました。
※割譲された地域は、先ほどの地図でも確認できます → 地図を確認する
アルザスではミュルーズを中心に繊維工業が発達し、ロレーヌには豊富な鉄鉱石がありました。とくにロレーヌの鉄鉱石は、その後の製鉄技術の発達によって工業資源としての重要性を増していきます。
一方、1871年にドイツ側がこの地域を求めた大きな理由の一つが、軍事・戦略上の重要性でした。メスやストラスブールを含む国境地帯を確保し、フランスに対する防衛を有利にしようとしたのです。
この領土問題は、その後の独仏関係に長く影響を与えていくことになります。
50億フランの賠償金とドイツ軍の占領
さらにフランスには、50億フランという当時としても巨額の賠償金が課されました。賠償金の支払いが終わるまで、ドイツ軍はフランス領の一部を占領することになります。
フランスにとって大きな負担でしたが、政府は国内外から資金を集め、期限より早い1873年までに賠償金を支払い終えました。これにともない、占領していたドイツ軍も撤退します。
約半世紀後の第一次世界大戦では、今度は敗れたドイツに巨額の賠償が課されます。その賠償問題をめぐる議論では、1871年にフランスが課された50億フランの賠償も前例として意識されていました。
巨額の賠償金と領土の喪失はフランスに大きな打撃を与えましたが、短期間で賠償金を調達できるだけの経済力は残されていたのです。
普仏戦争の敗北でフランスはどう変わったのか
普仏戦争で敗れたフランスは、領土や賠償金だけでなく、政治のあり方そのものも大きく変わることになりました。
セダンの戦いでナポレオン3世が捕虜になると第二帝政は崩壊し、1870年9月には共和国が宣言されます。
とはいえ、これで第三共和政がすぐに安定したわけではありません。
1871年2月の国民議会選挙では王党派が多数を占めており、王政に戻る可能性もまだ残っていました。この時点では、フランスがこのまま共和政を続けていくのかも、まだ決まっていませんでした。
さらに、講和を進める政府とパリとの対立も深まっていました。
フランスでは普仏戦争の終結と並行して、「これからどんな国にしていくのか」をめぐる新たな対立が進んでいたのです。
普仏戦争はヨーロッパをどう変えたのか
普仏戦争によってドイツ統一が完成すると、ヨーロッパ中央部に新たな大国、ドイツ帝国が誕生しました。
これまで多くの国に分かれていたドイツ地域が一つの国家にまとまったことで、ヨーロッパの勢力関係も大きく変わります。
その後のヨーロッパ外交では、この強大なドイツと各国がどのような関係を築いていくのかが重要な問題となりました。ビスマルクはフランスを孤立させながら、ロシアやオーストリアなどとの関係を調整していくことになります。
※ビスマルク体制の解説や三国同盟・三国協商成立までの流れは下の記事に書いています。
さらに19世紀末以降になると、列強間の同盟関係や帝国主義、バルカン半島をめぐる対立なども重なり、ヨーロッパの国際関係は複雑になっていきました。
その意味で、普仏戦争とドイツ帝国の成立は、のちの第一次世界大戦へと続くヨーロッパの国際関係を考えるうえでも重要な転換点だったといえるでしょう。
一方、フランス国内では、正式な講和を待たずして政府とパリの対立が深まっていました。そして1871年3月、この対立はついに武力衝突へと発展します。
次回は、普仏戦争直後のパリで起きたパリ・コミューンについて見ていきます。






