普仏戦争とは?フランス軍はなぜプロイセン軍に敗れたのかを詳しく解説【前編】
1870年7月19日、フランスがプロイセンに宣戦布告したことで普仏戦争が始まります。
開戦後、プロイセンを中心とするドイツ側は、国境方面に約40万人の兵力を集めました。これに対し、フランス側が展開できた兵力は20万人あまりにとどまっており、兵力ではドイツ側が大きく上回っていました。
一方で、フランス軍はクリミア戦争やイタリア統一戦争、メキシコ出兵など、様々な地域や条件で戦ったという豊富な実戦経験を持っていました。加えて、歩兵が装備していたシャスポー銃は、プロイセン軍のドライゼ銃より射程や命中精度という点で優れていました。
※プロイセンも1864年のデンマーク戦争や1866年の普墺戦争を経験していますが、長期勤務の兵士や実戦経験者の数ではフランスに及びませんでした
そのため、軍事大国としてのフランスの実績を重く見て、フランス軍が有利と考える人も少なくありませんでした。
ところが戦争が始まると、フランス軍は国境付近の戦いで相次いで敗れます。開戦から約1か月後には、バゼーヌの率いる大部隊がメスに包囲され、マクマオンの軍も救援に向かった末にセダンへ追い込まれていきました。
なぜ、豊富な実戦経験と優れた歩兵銃を持つフランス軍が、開戦直後から劣勢に立たされたのでしょうか。
今回は、フランス軍とドイツ軍の動員や指揮、鉄道輸送の違いに注目しながら、開戦からセダンの戦い直前までの経過を見ていきます。
- 普仏戦争の経過
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1870年7月19日フランスがプロイセンへ宣戦
南ドイツ諸国もプロイセンとの軍事協定に基づいて参戦した
1870年8月2日フランス軍がザールブリュッケンへ進出フランス軍による初期の攻勢だったが、大規模な侵攻には発展しなかった
1870年8月4日
ヴィサンブールの戦いドイツ軍が国境付近のフランス軍を破り、フランス領内への進攻を始めた
1870年8月6日ヴェルト、スピシュランの戦いでフランス軍が敗北フランス軍がアルザスとロレーヌ方面で敗れ、国境から後退した
1870年8月16~19日バゼーヌ軍がメスへ押し戻されるマルス=ラ=トゥール、グラヴロットの戦いを経て、フランス軍の主力の一つであるバゼーヌ軍がメスに包囲された。
1870年8月23日マクマオン軍がメス救援へ向かうマクマオン軍はパリ方面への後退をやめ、バゼーヌ軍を救援するため北東へ進んだ。
1870年8月30~31日フランス軍がセダンへ後退ボーモンで敗れたマクマオン軍は、ドイツ軍に追われてセダンへ入った。
普仏戦争の開戦
前回の記事で見たように、スペイン王位継承問題をきっかけとしてフランスとプロイセンの関係は悪化しました。さらにエムス電報事件によって両国の世論が刺激され、1870年7月19日、フランスはプロイセンへ宣戦布告します。
フランスが宣戦した相手はプロイセンでしたが、実際に戦ったのはプロイセン軍だけではありません。
プロイセンを中心とする北ドイツ連邦に加え、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなどの南ドイツ諸国も参戦しました。南ドイツ諸国は普墺戦争後にプロイセンと軍事協定を結んでおり、各国の軍隊は協定に基づいてフランス国境へ向かいます。
※普仏戦争が始まった1870年7月の時点では、まだドイツ帝国は成立していません。本記事では、プロイセンを中心として戦った北ドイツ連邦と南ドイツ諸国の軍隊を、まとめて「ドイツ軍」と表記します。
フランス政府内の一部では「早い段階で軍事的な成果を上げれば、南ドイツ諸国がプロイセンから離れたり、オーストリアやイタリアから協力を得られたりするのではないか」という期待もあったのですが…
結局、フランスは有力な同盟国を得られないまま、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国の軍隊を相手に戦うことになります。
そのうえ、宣戦したフランス側は兵士の動員や部隊編成、物資の輸送が十分に進んでいませんでした。一方、ドイツ側では事前に準備されていた計画に沿って、大規模な動員が始まります。
次に、フランス軍とドイツ軍の動員には、どのような違いがあったのか見ていきましょう。
フランスとドイツの動員にはどのような違いがあったのか?
フランスは宣戦した側でしたが、実際にはドイツ軍の方が早く大規模な兵力を国境付近へ集めました。
この違いは、単純な兵力差や鉄道網の規模だけで生じたものではありません。平時から動員や輸送の計画を準備していたドイツ側に対し、フランス側では兵士の招集から部隊編成、武器や食料の補給まで、各所で混乱が起きていたのです。
- フランスとドイツの鉄道網の比較
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比較点 ドイツ諸国 フランス 総延長 約1万9000km 約1万7000km 路線の特徴 各国・各都市を結ぶ路線が連絡し、複数方面から西部へ輸送できた パリを中心に各地方へ伸びる放射状の路線が多かった 互いの国境へ向かう主要幹線 ドイツ > フランス 複線化 比較的進んでいた 単線区間や幹線間の未接続部分が残った
参謀本部と鉄道を活用したドイツ軍
ドイツ軍は、1866年の普墺戦争でも参謀本部が作戦を立て、鉄道を利用して各地の部隊を国境方面へ集めていました。
このときプロイセン軍の作戦を指導していたのが、参謀総長のモルトケです。モルトケは1858年に参謀総長へ就任すると、フランスとの戦争を想定した動員や鉄道輸送、部隊配置の計画を検討し、軍の規模や鉄道網の変化に合わせて改訂を重ねていました。
- 就任当初は発言力のなかった参謀総長
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モルトケは参謀総長に就任しましたが、当初は軍事作戦を直接指導できる権限が限られていました。
1864年にデンマークとの戦争が始まったときもベルリンに残され、現地司令部には加わっていませんでした。しかし、戦争が長引くと現地へ派遣され、同年4月末にはプロイセン・オーストリア連合軍の参謀長に就任。
戦争後半の作戦に関わったことで評価を高め、1866年の普墺戦争では、プロイセン軍の作戦立案と指導の中心を担っていくことになります。
ドイツ側の迅速な動員は、モルトケを中心とする参謀本部が作成した作戦計画と、それを実行する軍制や組織が結びつくことで可能になりました。
徴兵制と予備役を基礎とする軍制、平時から作戦を研究する参謀本部、各地の部隊を運ぶ鉄道網などが整えられ、どの部隊をどの路線で運び、いつ国境付近へ到着させるかまで計画されていたのです。
動員と補給に混乱したフランス軍
当時はナポレオン3世を皇帝とする第二帝政下にありました。1866年の普墺戦争でプロイセンが勝利すると、フランスでも軍制改革が進められていきます。
ところが、兵役の負担や軍事費の増加への反発に加え、自由主義者や共和派の中には、1851年のクーデタを経て成立した第二帝政が軍隊を拡大することへの警戒もありました。
その結果、1868年に成立した軍制改革は議会で修正や制限を受け、正規軍を補う予備兵力も、十分な訓練や装備が整わないまま1870年の開戦を迎えます。
開戦後、動員命令を受けた予備役の兵士は、まず各地にある連隊の補充部隊へ向かい、そこから国境方面の所属部隊へ移動しなければなりませんでした。兵士が到着しても、必要な馬や武器、弾薬、食料が別の場所に置かれていることがあり、鉄道輸送や軍団の編成も十分に連動していませんでした。そのため、必要な人員や物資が部隊へそろうまでに時間がかかったのです。
フランスは早い段階でドイツ領内へ攻め込み、軍事的な成果を上げる方針を立てていましたが、動員や補給が遅れたため、予定していた大規模な進攻を始められませんでした。
そのうえ、自ら軍の指揮を執ったナポレオン3世も健康状態が悪く、激しい痛みに苦しんでおり、指揮を続けるうえで大きな負担を抱えていました。
劣勢に立たされ始めたフランス軍
こうしたなか、フランス軍は1870年8月2日、国境を越えてザールブリュッケンへ進出しました。
ザールブリュッケンはフランス領ロレーヌの国境に隣接するプロイセンの都市です。
なお、ロレーヌは、世界史を勉強したときに独仏の係争地としてよく見かけるアルザス=ロレーヌ地方の「ロレーヌ」です。

日本語訳・表記調整:歴ブロ
フランス軍は現地にいた少数のプロイセン軍を後退させましたが、投入された兵力は限られていました。この攻撃はドイツ領内への本格的な侵攻にはつながらず、フランス軍はまもなくザールブリュッケンから撤退します。
国境付近の戦いでフランス軍敗れる
その後、ドイツ軍が国境を越えてフランス領内への進攻を始めました。8月4日にアルザス地方のヴィサンブール、8月6日にはヴェルトとスピシュランでフランス軍が敗れます。
これらの戦いで、フランス軍が個々の兵士の戦闘力や歩兵銃の性能で一方的に劣っていたわけではありません。フランス兵は各地で激しく抵抗し、射程に優れたシャスポー銃によってドイツ軍に大きな損害を与えました。
ですが、ドイツ軍は複数の軍を前進させ、フランス軍を上回る兵力をそれぞれの戦場へ集めていきました。開戦前に生じていた動員や輸送の差が、国境付近の戦いでは実際の兵力差となって表れたのです。
相次ぐ敗戦によって、アルザス方面のマクマオン軍は西へ後退し、ロレーヌ方面のフランス軍はメス周辺へ退きました。こうしてフランス軍の主力は別々の方向へ後退することになったのです。
フランス軍主力がメスに封じ込められた
国境付近で敗戦が続くなか、ナポレオン3世は8月12日、軍の直接指揮をやめ、バゼーヌ元帥に総司令官の地位を譲りました。
バゼーヌが率いるフランス軍主力は、メスから西へ退き、ヴェルダンを経てマクマオン軍と合流する予定でしたが、バゼーヌが進軍命令を出すのが遅く、大軍の移動にも時間がかかります。
バゼーヌが進軍命令を出すのが遅れた理由は、はっきりしていません。
司令部内の連携や皇帝への対応など、複数の事情が指摘されています。さらに、悪天候によるモーゼル川の増水や仮設橋の損壊も重なり、大軍の移動には時間がかかりました。
8月14日には、メス東方でボルニー=コロンベの戦い(コロンベ=ヌイイの戦い)が起こりました。フランス軍はドイツ軍の攻撃を食い止めましたが、この戦闘によって西方への移動がさらに遅れます。
その間に、ドイツ軍の一部はメスの南側からモーゼル川を渡り、フランス軍の西方へ回り込みました。8月16日のマルス=ラ=トゥールの戦いでは、メスからヴェルダンへ通じる退路をめぐって激戦が繰り広げられます。
フランス軍は兵力で優勢な場面もありましたが、各部隊を十分に連携させられず、退路を確保できませんでした。さらに8月18日のグラヴロット=サン=プリヴァの戦いを経て、フランス軍はメス方面へ押し戻されます。
こうして約18万のバゼーヌ軍は、メス周辺から動けなくなりました。ドイツ軍は多数の兵力をメスの包囲に残す一方、別の部隊をマクマオン軍の追撃とパリ方面への進撃に向かわせます。
バゼーヌは後に、最初からメスに籠城するつもりだったのではないかと批判されましたが、当初から籠城を計画していたと断定するよりも、退却の判断が遅れるうちにドイツ軍が退路を塞ぎ、脱出できなくなったと見る方がよさそうです。
マクマオン軍がバゼーヌ軍の救援へ
一方、アルザス方面から退いたマクマオン軍は、シャロンで敗残兵や増援部隊を集め、「シャロン軍」として再編されました。
マクマオンはパリ方面への退却を考えていましたが、政府の求めを受け、メスに封じ込められたバゼーヌ軍の救援に向かいます。ナポレオン3世もこの軍に同行しました。
しかし、ドイツ軍はシャロン軍の動きを察知し、進路を北へ変更します。8月30日にボーモンで敗れたシャロン軍は、ベルギー国境に近いセダンへ退却しました。



