分かりやすい第一次世界大戦の簡単な流れ【背景~終わり方まで】
これまで4回に分けて細かく書いてきた第一次世界大戦を簡単に分かりやすく、かつ、どんな終わり方だったのかをまとめていきます。
第一次世界大戦の背景
背景の簡単なイメージ図です。第一次世界大戦のそもそもの始まりは、18世紀半ばからイギリスで始まった産業革命により社会構造が大きく変化し、政治経済の権力のあり方が大きく変わったことに端を欲します。
自国だけで大量生産した商品を捌ききれずに恐慌が起こり始めると、やがて市場や必要資源を獲得するため植民地拡大に乗り出します。いわゆる帝国主義が多くの国で広がりました。
帝国主義が広がっていくと、各国が利害関係に応じて同盟関係や協力関係を築いていきます。これが三国同盟(独、墺、伊)や三国協商(英、仏、露)です。
次第に三国同盟や三国協商が対立関係に陥って世界中で火種が撒かれるようになる中「最も危ない」とされた地域がバルカン半島でした。【ヨーロッパの火薬庫】と呼ばれています。
そんな危険極まりないバルカン半島で起こったのがサラエボ事件です。バルカン半島進出の一環としてオーストリアがボスニア=ヘルツェゴビナを併合した時、同じく併合を狙ったセルビアと対立。
ボスニア系セルビア人の青年がボスニアのサラエボへ訪問していたオーストリアの皇位継承者夫妻を暗殺したのをきっかけにオーストリアがセルビアへ宣戦布告。同盟国のドイツやパン=スラブ主義を根拠にセルビアのバックにいたロシア、ロシアと露仏同盟を結んでいたフランスも参戦し、第一次世界大戦は始まりました。
第一次世界大戦の勃発
陸続きで西にフランス東をロシアに挟まれたドイツは最初に西側を攻め込んだうえで短期決戦を考えましたが、思った以上にロシアの動きが早くて思惑が外れ西側も東側も両面で戦わなければならなくなりました。
それぞれ西部戦線、東部戦線と呼ばれており、フランスやイギリスとドイツが戦った西部戦線では膠着状態が続きます。
一方の東部戦線ではロシアとドイツがタンネンベルクの戦いでぶつかってロシアが大敗しますが、露墺間ではロシアが勝利しており流動的な戦況が続きました。
このタンネンベルクでの大敗がロシアの命運を大きく変えることになりました。
その間、日英同盟を理由に日本は協商国側として、オスマン帝国やブルガリアが同盟国側として参戦します。なお、三国同盟の一角・イタリアはオーストリアと領土問題を放置したまま同盟を結んでいたため様子見。のちに協商国側として参戦しています。
こういった後から参戦した国々は秘密条約などで戦争に引き込まれ、最終的に
協商国20カ国以上 vs. 同盟国4カ国 で戦うこととなりました。
帝国主義が行き過ぎが原因の戦いのうえ参加国がかなり広範囲にわたることになり、アジアやアフリカなどでも戦火は広がっていきます。
なお、この時に協商国に参加する見返りを条件として結ばれた秘密条約の中には矛盾が含まれるものもあり、現在の中東情勢にまで繋がることとなっています。
戦争の概念を変えた?いざ総力戦へ
第一次世界大戦では、産業革命による武器の大量生産や科学技術の発展により、戦車・航空機・毒ガス・潜水艦と今まで以上の殺戮兵器が生み出されました。
国のすべてをかけて武器弾薬を作るため、その生産力の基盤となった一般市民までもが殺戮対象となり
死者数はおびただしい人数となりました。
ドイツも死者数は膨大で、そのうえに周りは敵だらけ。どうにか決着をつけたいドイツは潜水艦「Uボート」を使って無制限潜水艦作戦に移ったのです。
この作戦遂行中に英仏へ向かう中立国のアメリカの輸送船も沈めたことで、アメリカの参戦が決定的となりました。
第一次世界大戦がはじまって総力戦となり、国土が荒廃して国力が減っていたヨーロッパ諸国に代わって世界での工業生産で優位に立ち台頭し始めていたアメリカの参戦を機にドイツの勝機はほぼ無くなっています。
二度目のロシア革命
アメリカが第一次世界大戦への参戦を決める前。ロシアでは大戦直後のタンネンベルクでの敗戦により革命の火がつき始めていました。
社会主義思想と結びついた労働運動がますます盛んになっていた中での大敗ということで運動が更に勢いづいていきます。ロシアでは戦争が長引き物資が手に入らなくなるといった状況となり、不満が爆発したのです。
社会主義とは
社会の富の生産に必要な財産の社会による所有と、労働に基礎を置く公正な社会を実現するという思想として生まれた。
社会主義とはーコトバンクーより
「パンが手に入らない」と首都のペトログラードで食糧配給を求めるデモがきっかけで始まった二月革命でロマノフ王朝が消滅して立憲民主党を中心とした臨時政府が誕生しますが、このメインの臨時政府を社会革命党やメンシェヴィキといった政党が中心のソヴィエト政権が支持する構図が出来上がりました。
と言っても臨時政府とソヴィエト政権、両者の力関係の差はそこまで大きくなく二重権力の時代が約半年続きますが、臨時政府は「戦争をやめて欲しい」という国民の期待を裏切り戦争続行の方針を打ち出しました。
というのも臨時政府の構成員は工場を持つような資本家が多く、武器・弾薬・物資を大量消費する戦争は大きな利益となったためです。
臨時政府 | ソビエト政権 | ←属さない勢力 | ||
構成する政党 | 立憲民主党 | 社会革命党 | メンシェヴィキ | ボリシェヴィキ |
支持者 | ブルジョワ (富裕層) | 農民 | 社会主義者 メンシェヴィキ:少数派と呼ばれる穏健派 ボリシェヴィキ:多数派と呼ばれる過激派 (考え方の違いで分かれた) |
ソヴィエト政権は臨時政府に大きく反発。少し距離を置いていた「社会主義の実現には暴力革命が必要」という過激派のボリシェヴィキと呼ばれる政党の指導者レーニンが「臨時政府を打倒し、ソヴィエトが全権力を持つべき」と基本方針を発表しています。
※ボリシェヴィキも第一次世界大戦下でずっと侵略戦争反対の立場を貫いていた
反臨時政府の労働者や兵士達、あるいは反革命運動の指導者による反乱が度々起こる中、とうとうボリシェヴィキが実際に武装蜂起をして十月革命が開始されました。
軍を使って政権を掌握するやり方に反対していた本来のソヴィエト政権の中心だった両政党は、結局ボリシェヴィキに武力で押さえつけられて退場。ロシア内はボリシェヴィキの独裁へと移っていきました。
これらの二月革命と十月革命を合わせて第二次ロシア革命と呼んでいます。
ちなみに、ボリシェヴィキの独裁や革命に反対していた人たちも当然いたため、すんなりとはいかず反対組織が作られ内戦へと発展していくことになります。
第一次世界大戦の終結
協商国のうち最初に同盟国と講和条約を結び戦争から降りたのはロシアです。
元々の方針が「第一次世界大戦からの離脱」ということもあり、臨時政府を打倒したボリシェヴィキの指導者レーニンは
- 土地も賠償金もいらない代わりにすぐに戦争をやめよう
- すべての土地は国の所有地
- 国の所有地で作られた生産物は皆で平等に分配しよう
などが書かれた「平和に関する布告」「土地に関する布告」を出したうえで同盟国とブレスト=リトフスク条約を結ぶと、ロシアは第一次世界大戦から身を引いています。
この条約でポーランドやフィンランドなど北欧〜東欧にかけての権利をロシアが放棄。独立にまで至りました。
やがてボリシェヴィキはロシアを『社会主義ソヴィエト共和国』であることを宣言。ボリシェヴィキそのものも共産党と名を変え、政府機関として人民委員会議を設立しています。ちなみにソヴィエトは人民委員会議を権威づける存在へと変わっていくことになります。
その後、アメリカの参戦で完全に勝敗が決まると戦後処理のためパリ講和会議が開催。会議の基本原則となったのがアメリカ・ウィルソン大統領が提げてきた【十四か条の平和原則】です。
戦争から抜けたロシアの裏切りに加え、社会主義革命が広がることへの懸念もあって、この原則はボリシェビキのレーニンが出した「平和に関する布告」に対抗する意図もあったと言われています。
ウィルソンの十四か条には民族自決の原則が重視され、東欧諸国の独立には一定の影響を及ぼしました。パリ講和会議以降は東欧の独立に影響を及ぼしています(なお、アジア・アフリカの植民地での民族自決は適用されていません)。
最終的にパリ講和会議での話し合いの結果
- ドイツ:ヴェルサイユ条約
- オーストリア・ハンガリー帝国:サン=ジェルマン条約
- オスマン帝国:セーヴル条約
- ブルガリア:ヌイイ条約
が結ばれ、ドイツを抑え込む方向性とオスマン帝国の解体が主な内容です。勿論、同盟国として参戦したオーストリアやブルガリアも土地を割譲されています。
特に協商国に参戦した国々が苦戦を強いられる原因となったドイツは多額の賠償金を背負いました。
こうしたヴェルサイユ条約を中心とした各講和条約によりもたらされた国際秩序はヴェルサイユ体制と呼ばれ、中でも大きな変化と言えるのが国際連盟の設立でした。
以上のような形で幕を閉じた第一次世界大戦。
その後1920年代にはアメリカの大繁栄を迎えますが、経済復興でヨーロッパの製品も流通するようになって実体経済に翳りが見えるように。それでも投資家たちによるアメリカ株への投資は行われ続けバブル経済に突入しましたが終わりは来るもので世界恐慌に突入。
多額の賠償金を背負っていたドイツは耐えきれずナチスの台頭を許すことになり、再び世界大戦が勃発することとなっていったのでした。