世界史視点から見た分かりやすい第一次世界大戦の背景
三国同盟と三国協商の対立が発端となり、1914年から勃発した第一次世界大戦。広範囲にわたって4年続いた世界大戦です。日本も参加していますが、基本的にはヨーロッパの戦線がメインとなっています。
今回は、そんな第一次世界大戦が起こるまでの経緯や背景をまとめていきます。
ヨーロッパの当時の状況を見てみよう
19世紀後半から20世紀初頭にかけての時期は、多くの国で始まった産業革命により商品が大量に作られる『生産過剰な状態』が続いて世界的に不況が起こっていました。
そうした利害関係などから国同士で同盟を結んだり協定を結んだりし始めています。この結果できたのが三国同盟や三国協商です。
なお、三国同盟が出来上がる際にイタリアが「フランスとオーストリアどちらとも仲悪いけど両方相手にするのは分が悪い」ということで独墺との同盟関係を選んだだけで、オーストリアとイタリアの関係は悪いままとなっています。
そんな19世紀のヨーロッパで景気悪化している前後の時期に重工業での産業革命で力をつけた国がドイツです。
フランスとは領土問題(資源の多いアルザス=ロレーヌ地方)などでギクシャクしている中で覇権国のイギリスとの差を一気に縮め両国をヤキモキさせています。
産業革命を終えて植民地拡大政策を先に行っていた英仏に比較して、経済力の割に植民地を持っておらず『生産力が高まって国力は増大しつつあったけど市場があまりない』状況のドイツは、せっかく工業化によって不況を脱しようと思っても継続が見通せません。
当然、他国と同様に「植民地を獲得しよう!」という方向に向かいました。既に植民地を獲得していた英仏としてはドイツが拡大すると自分達に影響しかねない...ということでドイツに対して警戒するようになっていきます。
この時点でロシアにも警戒していたイギリスはロシアとの関係を深めることはなかったのですが、ロシアの国内事情の悪化で一気に状況が変わっていくことに。
そのロシアの国内事情の悪化が日露戦争の敗戦と革命勢力の台頭です。ロシア内部では敗戦によって、革命勢力がますます力をつけていたのでした。
ヨーロッパの火薬庫
この時のロシアの立場は「南へ行って貿易して経済を何とかしたいけど、国内が混乱している中でイギリスとぶつかるのは避けたい」というもの。結局、ロシアはイギリスの影響下にある中東方面への進出を断念。
極東での南下も既に失敗したことから
唯一狙える バルカン半島方面の不凍港 を目指す
状況になっています。
ちなみに、この頃のバルカン半島は(独立した国があったり他国に切り取られたりしながらも)昔から半島を支配していたオスマン帝国の影響力も残っているような時期でした。
ロシアの気になる部分が解消されたイギリスもドイツの躍進が気になっていたため、ついには英仏・英露間で結んだ協力体制【三国協商】を築き上げています。こうして既に独墺伊の間でフランスを意識して結ばれていた【三国同盟】と敵対しはじめたのです。
ここで問題となってきたのがロシアと独墺の進出方向。3国がバルカン半島へ進出しようとして一触即発状態となったため、バルカン半島は『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれるようになりました。
なお、独墺に関しては19世紀に強まっていた民族主義の影響も受けて「ゲルマン民族同士統合しよう」というパン=ゲルマン主義の価値観を共有していたため、協力し合っています。
ただし、パン=ゲルマン主義はロシアのバルカン半島への南下の根拠になっていたパン=スラブ主義と大きく対立。両国とロシアは、この考え方の違いで関係を大きく悪化させました。
3B政策と3C政策
イギリスがドイツと不仲になる決定的になったキッカケが3B政策と3C政策です。正確には当時「3B政策」という言葉は使われていませんが…
どちらも帝国主義政策を行う上での重要都市の頭文字から名付けられています。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世によって主導された3B政策は重要な都市を結ぶ鉄道建設・港湾整備や殖産興業を通じて近東に資本を投下し「自分達の経済圏に組み込んでいこう」というものでした。
- ベルリン
- ビザンティウム(イスタンブールの旧名)
- バグダード(イラクの首都)
一方の3C政策はイギリスの植民地政策です。アフリカ大陸を南北に縦貫する縦断政策に重要度の高いインドを加えて、それらを代表する都市を鉄道で結んじゃおうという壮大な計画になっています。
- カイロ(エジプトの首都)
- ケープタウン(南アフリカの都市)
- カルカッタ(インド・西ベンガルの州都)
※イギリスのこの政策があったからアフリカ横断政策を進めたフランスとの間に1898年にファショダ事件(←三国同盟と三国協商の記事に少し触れています)が起きたり、南下するロシアと中東で対立→日露戦争で日本支援の立場を取っていました。
イギリスにとってドイツによる3B政策は「陸路の大量輸送が現実になると大金を叩いて取得したスエズ運河の経営が滞り、貿易による利益をごっそりとられかねない」のっぴきならない政策だったのです。
このドイツとの対立が英露や英仏を結び付け、英仏協商・英露協商を築き三国協商を築くきっかけになっています。
軍備拡張競争
1871年に終わった普仏戦争以降、ドイツでは政治経済両面で大きく成長していました。
- 普仏戦争とは
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当時はオーストリアを盟主としたドイツ連邦が普墺戦争で解体され北ドイツ連邦が誕生したばかりでしたが、フランス皇帝ナポレオン3世の干渉と妨害もあってドイツはいまいち強固な統一国家とはなれませんでした。
神聖ローマ帝国時代からですが、ドイツは小さな国のような領邦国家がまとまって出来た国。フランスとしては、隣国が統一して強い国家となられるよりも領邦国家が複数存在して利害一致せずバラバラでいてくれた方が嬉しかったわけです。
そこで諸邦を完全に掌握しドイツの足元を固めようと、プロイセンがフランスを挑発。こうして1870年に戦争が始まっていきました。
- 普仏戦争による他国への影響
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実はこの普仏戦争でドイツの軍事力がかなり評価されることになりました。日本でも陸軍の装備や制度をフランス式からドイツ(プロイセン)式に変更したのは、ドイツの普仏戦争勝利が大きく影響しています。
第一次世界大戦のカギとなるバルカン半島に影響力を持っていたオスマン帝国も同様、軍事面を陸軍ではドイツに大きく依存していました(海軍はイギリス)。かつての大国であったオスマン帝国はヨーロッパとの力関係逆転を痛感して欧州で採用されていた新たな制度などを取り入れようと試行錯誤していたのです。
他国から軍事を依存した時にその依存先を急に変えられないのは、今も昔も変わりません。
後に戦争が始まった時に軍事的中立を守ろうとしても列強のどこかに依存しなければ軍事的な維持を図れない状態になり、だけど戦線が拡大すれば自国を守れないというジレンマに陥ります。
※この頃のオスマン帝国の政権は革命により奪った出来て間もない政権だったので内部も押さえつけないとダメだったと思われます
結局、オスマン帝国は悩みに悩んだ末に同盟国側として参戦していくこととなりました。50年近く前の戦争が第一次世界大戦参戦に影響を与えるとは少し驚きですね。
やがてドイツは優位な陸軍だけでなく、植民地獲得のため・海外進出のために絶対に必要となってくる海軍にも力を入れ始めドイツ帝国海軍を設立しました。
海軍国家と言えばイギリス。このイギリスと海軍の優越を巡って競争が始まります。
結果、英独間だけでなく全ヨーロッパが軍備拡張に勤しむように。近隣の国が追い付けない程とんでもない軍事力を供えられたら、攻め込まれかねないと警戒するのは当然です。列強全部が自国の工業基盤を軍備拡張につぎ込むことになりました。
サラエボ事件(1914年)が起こった背景
ドイツ・オーストリアがバルカン半島へ進出しようと機を狙う中、1908年にオスマン帝国で青年トルコ人革命(専制政治を放棄させた政変)が起こって軍事政権が樹立。オスマン帝国でもパン=テュルク主義によりバルカン半島でのトルコ化を進めようとしていきました。
当然バルカン半島の諸民族からの反発は強く、オスマン帝国が不安定になります。この混乱に乗じて先に独立を果たしていた国々がバルカン半島での影響力拡大を狙っていくことになります。
こうした混乱の中でバルカン半島への影響力拡大を目指した国々のうち、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを完全併合しました。
ところが、この併合を無視できなかったのがセルビア王国です。セルビアも両州の併合を考えていたのです。
元々セルビアはオーストリアと経済的関係が強く衛星国のような立場を取っていました。が、セルビアを統治していた王家が倒され新たな政権が起こると、オーストリアから離れフランスやロシアに近付いていきます。
※セルビアはスラブ系の民族で正教徒信徒。ボスニア・ヘルツェゴビナ併合の際にはパン=スラブ主義のロシアに救援を頼もうかと考えましたが、ロシア国内の事情で断念。併合を受け入れざるを得ませんでした。
オーストリアは、その対抗措置としてセルビアの主要輸出品(主に豚)を禁輸し貿易摩擦(豚戦争)に発展していました。その上での併合とあって両国関係は一気に悪化したのです。
以上のような経緯で第一次世界大戦の開戦前夜が出来上がる中、オーストリアの皇太子がボスニアの首都・サラエボで秘密結社のセルビア人に暗殺されるサラエボ事件が起こります。
オーストリアはセルビアに宣戦布告すると、セルビアはロシアに救援を頼みます。ロシアが出てきたオーストリアはドイツに救援を要請。最終的にイギリスやフランスまで参戦する第一次世界大戦へと発展したのでした。