分かりやすいロシア革命の流れと背景― まとめ ― 【ロシア史】
第一次世界大戦やその後の世界情勢にも大きな影響を与えたロシア革命。今回はロシア革命に至るまでの流れや背景についてまとめていきます。
反体制派が何故ここまでロシアで活動するに至ったかの解説も行うので、結構古い話から始めてます。ご了承ください。
ロシアで反政府運動が活発化した背景とは??
ピョートル1世(在位1682-1725年)が強いロシア帝国を作り上げヨーロッパ列強の一員になって以降、ロシアにとって苦難の時代が続いていました。
紆余曲折を経て娘がツァーリ(皇帝)となり、その血筋でロシア帝国は続いていくのですが...
ナポレオン戦争とウィーン体制
やがて19世紀になるとヨーロッパでは啓蒙思想が広まり、フランスで市民革命が起こりました。
啓蒙思想はそのうち対象が個人にも広がり「絶対君主による抑圧から解放されて自由になろう!」という自由主義思想へと発展。この厄介な動きを抑え込もうとヨーロッパ諸国が動く中でナポレオンが登場します。
ナポレオンの登場と自ら自由を掴みとったことで「フランスすごい!」となった民衆が出てくるなど民族主義の兆しも現れるように。
最終的にはヨーロッパ諸国が何とかナポレオンとフランスを抑え込みウィーン体制を敷いて啓蒙主義や民族主義も抑圧しようという方向に進みました。
ナポレオン後のロシアは??
こうして周辺諸国は自由主義を抑え込もうとしたわけですが...
ロシアでは若者たちがナポレオン戦争で明らかに自由な西ヨーロッパ諸国の人達を見て衝撃を受け、彼らによる自由主義運動や反体制運動が始まりました。
反体制派となった若者たちは前ツァーリが亡くなり皇位継承を巡って空位期間ができた隙にデカブリストの乱を起こすも、すぐに鎮圧されています。
不運だったのがツァーリとなるのが専制的な言動の人物だったこと。大多数がシベリア送りとなったのですが、この乱の後も反体制派の動きはロシアの水面下でくすぶり続けていきました。
また、似たような時期にオスマン帝国支配下にあるバルカン諸島で様々な問題が噴出すると、ロシアはバルカン半島に手を貸し南下政策を全面的に押し出すように。
独立を阻止したいオスマン帝国は既に産業革命が起こって技術的に進歩していた英仏から支援を受けると、両国は戦争に発展【クリミア戦争】。この戦争でウィーン体制は完全に崩壊しました。
敗戦と同時に自国の後進性が露呈したロシアは、当時のツァーリが国内の再建を目指します。
最初に農業の近代化を成功させようと考え【農奴解放令】を出しました。が、農村にある共同体(ミール)の存在などから失敗。結局、このツァーリは反体制派の過激派組織によって命を落としています。
※ロシアでは古くから農民が土地に拘束される【農奴制】が敷かれていました
農奴解放令の失敗とナロードニキ運動
農奴解放令以降、ロシアでは都会の貴族子弟たちの一部が一般の人民の中に混ざって悲惨な農民達の実態を知ろうとするナロードニキ運動が始まりました。
名目上は農奴解放されたもののミール(農村の共同体)に縛られ続けた者や、賃金奴隷として売られ結局は地主に変わって資産家による支配が続く者が多くいた事実を知った若者たちが起こしたこの運動は、やがて農民への啓蒙と革命運動を組織化して帝政を打倒しよういう方向に向かっていきます。
ヨーロッパ情勢の変化とロシアへの資金導入
バルカン半島で独立運動が活発になり戦争まで発展している中で、今度はプロイセンがドイツの盟主となってフランスと対立関係に陥り戦争まで発生しています。
この戦後処理を巡って両国関係はさらに悪化し、復讐を警戒したドイツはビスマルク体制を敷いたのですが、体制を築き上げたビスマルクが失脚してドイツがロシアの協力関係を切りました。
なお、この頃のドイツは非常に強くなりつつあり、列強諸国で包囲網を敷く方向に向かっており露仏間でも露仏同盟(1894年)を結んでいます。
この同盟を根拠にフランスの資本がロシアに流入。鉄道を敷くなどロシアは本格的な産業革命に突入したのですが、鉄道を敷く場所がかなり問題で日本と対立しました。
労働者たちの不満の噴出と度重なる大きな戦争の勃発
産業革命が起こった国の多くで工場を経営する資本家による労働者の酷使具合が社会問題となっていました。こうした社会問題の元で
「社会を富ませるモノを作るための機械などは社会で所有しよう」
「国家の運営は計画経済の元で行おう」
という社会主義思想が生まれています。
ロシアも例外ではなく、労働者の低賃金・長時間労働が大問題となりました。
農奴制が廃止されて自由になるか?と思いきや結局搾取。不満は募りに募っており、やがてナロードニキ運動など反体制運動が労働運動や社会主義運動と繋がるように。これはロシアにとって厄介な事態となっていきます。
やがて1890年代に入るとロシアでは様々な社会民主主義グループが形成されました。そうしたグループの一つがロシア社会民主労働党と呼ばれるもので、のちにメンシェビキ(少数派)とボリシェビキ(多数派)に分裂していきます。
そうした社会情勢の中で日露戦争や第一次世界大戦が起こると労働者階級はますます厳しい立場に追いやられ、労働運動や社会主義運動は活発になったのです。
日露戦争と第一次ロシア革命(1905年)
日露戦争でロシアが不利な情報が増えるにつれて運動が過激化。
その中でロシア社会を変えるため、普通選挙を行い議会を開くことや人間の基本的な権利を守って欲しいことなどをまとめた嘆願書を出し、ペテルブルクの宮殿に行って大勢の人々がツァーリに現状を訴えようとしました。
ところが、もともと約束した時間にツァーリは現れず、それどころか兵士達は集まった労働者達に向けて発砲。いわゆる【血の日曜日事件】が起こりました。
労働者達による運動は全国的に広がると、ソヴィエトの結成や戦艦ポチョムキンの反乱などといった【第一次ロシア革命】へ本格的に突入していったのです。
<第一次ロシア革命>
サンクトペテルブルクにて
ソビエトはロシア語で「評議会」「勤労者代表者会議」の意味を持ち、当初はストライキを指導する委員会として発足した。
日露戦争でバルチック艦隊敗走の知らせを聞き、水兵による反乱が起きた
国会開設・憲法制定の約束をし、割と民衆の立場よりのセルゲイ・ウィッテが首相となり自由主義改革を行う
モスクワの労働者達が労働条件の改善を訴えるが、軍に攻撃され死傷者や逮捕者が多数出る事件が起こった
ニコライ2世の反動
ロシアにとってかなり激動の時代となった1905年でしたが、ここからツァーリのニコライ2世による反撃が始まります。
十月宣言によって議会の開設を行い議員も選挙で行うとしながらも、実際には選挙が始まる前の段階で労働者が圧倒的に不利な条件となるように選挙法を改定していました。
また、憲法を公布した4月には国民寄りだった首相のウィッテも解任。次々代の首相・ストルイピンはミール(農村共同体)の解体を進めました。上述したように、以前出された農奴解放令以降もミールによって土地に縛られていた者が多数いたためです。
ところが、かなり強硬なやり方で反感を買っていたストルイピンはのちに暗殺されています。
<ニコライ2世の反動>
十月宣言の否定
・反政府運動の弾圧
・ミール解体→自作農育成→失敗→貧農が都市に流入
両国と清との条約を尊重することの他、秘密裏に日本の朝鮮と南満州の権益、ロシアの北モンゴルと外モンゴルの権益を互いに認めた
ドイツを警戒し、両国間で中東方面の勢力範囲を確認した
第一次ロシア革命〜ニコライ2世の反動までは『激動の1905年とロシア内部の事情【ロシア史】』の記事に詳しく載っています。
第一次世界大戦でのロシア大敗と第二次ロシア革命(1917年)
ロシア国内が混乱する中で世界を揺るがす第一次世界大戦が1914年に勃発すると、初期に発生したドイツとの『タンネンベルクの戦い』で大敗。
最初の頃は「反政府とか革命派とか関係なくドイツをやらねば!」と協力体制を敷いていたのですが、この大敗を機に支配者層が分裂し始めました。
更に当時のツァーリ・ニコライ2世の息子で皇太子の病気に悩む皇后に取り入って宮廷内で力を持ち始めたラスプーチン。彼の存在もまた支配者層の分裂に拍車をかけることになります。
また、ロシアに限った話ではありませんが...
ヨーロッパ戦線が激しさを増すにつれ、農村の労働者不足や日常生活が困窮。1917年には都市の食糧危機が起こり、女性による食料デモが起きるとそれをキッカケに第二次ロシア革命が勃発しました。
この第二次ロシア革命は大きく分けて二月革命(三月革命)と十月革命(十一月革命)に分けられ、最終的には皇帝一家は銃殺、ソビエト政権が国政を握ることとなっています。
※当時のロシアでは13日遅い暦を使っていたため、三月革命や十一月革命と呼ばれるケースもある
<二月革命>
3月以前からの都市部での食糧危機を受けて発生
前日のデモに男性労働者も参加
デモに銃撃を加えた軍隊に抗議した一部の兵士がデモ隊に加わる
独裁を支えた軍まで反乱に加わったことからニコライ2世は退位を決意。代わりに臨時政府が成立した
ロマノフ王朝の消滅
パンが食べられないということで始まったデモは拡大し、兵士まで参加。流石に「これ以上は厳しい」としたニコライ2世は退位して、臨時政府とソビエトの二重権力時代へ移行していきます。
<二重権力の時代>
第一次世界大戦で中立を貫いていたアメリカが参戦
社会民主労働党のボリシェヴィキ(多数派)指導者として目をつけられていたため亡命していたが、亡命先のスイスから帰国した
「臨時政府を打倒し、ソビエトが全権力を持つべきである」とするボルシェヴィキがとるべき基本方針を発表
戦争を継続したくないソビエトの兵士と労働者は無賠償・無併合の講和を望む一方、臨時政府とソビエトの間を取り持っていたケレンスキーという人物はドイツ反撃への準備を開始。
そのため、臨時政府・ケレンスキーとソビエトの仲が悪化。当初の要求通り「無賠償・無併合」の講和を目指して武装デモを行った。この時は臨時政府が鎮圧。
デモがレーニン主導の陰謀として捉えられ、ボリシェヴィキの中心人物が逮捕されたため、再度亡命した
内閣が成立すると、社会革命党のケレンスキーと保守派のコルニーロフが政府に反抗する兵士の処遇を巡って対立。コルニーロフ優勢になったため、ケレンスキーがソビエトに近づき、ソビエトは彼を支援した
戦争継続を訴える反革命運動の指導者コルニーロフによる反乱が起こり、ボリシェヴィキが鎮圧した
ケレンスキー内閣では農村を支持基盤にする立憲民主党(カデット)の閣僚が排除されていたこともあって農民からの支持がソビエトに移りつつありました。
また、単独で事態を収集できる能力もなく求心力を失うと、ボリシェヴィキがいよいよ本格的に武装蜂起。ここから十月革命は始まりました。
<十月革命>
・ケレンスキー内閣が崩壊
・ペテログラードのスモーリヌイ女学校にてソビエト大会が開催
他にも「土地に関する布告」のソビエト政権の基本的な考え方を採択。更に人民委員会議を設置。
新政権への反対勢力を取り締まる秘密警察(=チェカ)を設置した
中央同盟軍と講和条約を結び、第一次世界大戦を他の協商国よりも早く終結させた
武装蜂起による臨時政府(ケレンスキー内閣)崩壊後、全ロシア―ソヴィエト会議(ソビエト組織の最高機関)による第2回ソビエト大会で『平和に関する布告』などを採択。二月革命以降、国民たちが求めていた平和と土地の問題について解決の糸口を示し、ソヴィエト政権を樹立させています。
さらにボリシェヴィキは一党支配を見据えて動いていきました。
憲法制定のために選挙を実施し、選挙で選ばれた議員たちによる憲法制定を目指します。ところが、ここで第一党として選ばれたのは『社会革命党』と呼ばれる政党でした。
※社会革命党はナロードニキ系の流れを汲んだグループが連合してできた政党
この選挙結果をレーニンは利用し、ボリシェヴィキを受け入れていない地域を割りだして取り締まりを行うように。この取り締まりを行ったのがチェカと呼ばれる秘密警察でした。
では、元々やろうとしていた憲法制定はどうなったのか?と言うと...憲法制定会議は開催したものの武力で議会を封鎖してすぐに解散させています。
こうしてロシア革命は幕を閉じ、いよいよボリシェヴィキ独裁体制そして戦時共産主義の時代へと移っていったのでした。