北アメリカ

世界史視点から見た第一次世界大戦【アメリカの参戦とロシア革命】

歴ブロ

西部戦線が膠着し、やがてヨーロッパの列強以外の国々が参戦するようになった第一次世界大戦。新兵器が投入され、どちらも大きな犠牲を伴いながら決定打に欠け戦いは終わる気配がありませんでした。その均衡を破ったのが1917年のアメリカの参戦です。

そして、もう一つの大きな転機がロシア革命。この件は第一次世界大戦そのものへの影響というより少し先の時代で世界中に大きな影響を与えることとなります。

今回は「アメリカの参戦」に加え「アメリカが第一次世界大戦で何故そこまで影響力を与えられたのか?」と戦争が続き内部に不満が貯まった結果起こった「ロシア革命」についてまとめていきます。

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アメリカの参戦(1917年4月)

1916年11月に行われた大統領選挙で中立を続けることを訴えてアメリカ大統領に再選したウッドロー=ウィルソン

アメリカ国内にはプロパガンダも伝わっていましたし、実際に1915年にドイツによるイギリス客船への潜水艦攻撃で自国民130人近く犠牲者を出されたこともあって協商国(連合国)に同情的な一方で、大衆には中立派が多かったのです。

その状況で、1917年2月にドイツが無制限潜水艦作戦の再開を宣言。

第一次世界大戦中のヨーロッパ赤線  同盟国軍の再進出宣(1917年)  赤点線 ⋯ 同盟国軍の再進出宣(1918年)

作戦開始前まではイギリスが広く海上封鎖していましたが、作戦開始以降はドイツ軍が海上封鎖するようになっています。

ドイツが無制限潜水艦作戦を行おうとした背景には自国が封鎖されてるのに協商国側は海から戦争の必要物資の輸入し続けていた点が挙げられます。

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イギリスの海上封鎖の影響は大きく、天候不良と開戦相手が小麦や大麦輸入元(露、ルーマニア)輸入が途絶えていたことが重なり、ドイツでは1916〜1917年の冬に飢饉が起こりました(=カブラの冬

また産業体系が重工業メインで農業や軽工業が軽視されていた点も飢饉を悪化させる要因となっています。

中でも協商国へ物資を供給していたのが日本アメリカでした。

日本は日英同盟から完全な協商国側の立場でしたから物資を供給するのは分かりますが、なぜアメリカは協商国メインで物資を供給し続けていたのでしょうか?

 

アメリカが中立を保った理由と協商国側についた理由とは?

アメリカは協商国・中央同盟国関係なく多くの国々の移民で成り立っており、表向きでは中立を選ぶほかない状況でしたが、現実的にはイギリスと親密な関係を築くことでヨーロッパとの関係を作っており協商国側に近い立場をとっていました。

ウィルソン大統領は「あまり厳しい態度をとってイギリスを困らせることは避けたい」としています。

商売上でもアメリカは協商国に近く、1916年の時点でアメリカの協商国への輸出額は約30億ドル、同盟国側への輸出は海上封鎖の影響もあって約100万ドル程度と大きな開きが出来ています。

 

アメリカの台頭

アメリカは中立の立場を固持しつつ、ヨーロッパで不足している軍事物資などの大量輸出で大戦景気に沸いていました(造船・製鉄などを筆頭に輸出を増大させた日本も大戦景気でした)

さらにヨーロッパ諸国が戦争を継続する現金を工面するためにアメリカへ投資していた資本の引き上げを行うと、逆にアメリカ側がお金を貸し出すようになっています。債権国としてヨーロッパに強く出られる立場に変化したのです。なお、ここでも協商国への融資がメインとなっていました。

以後、アメリカは現在に渡るまで世界的に影響力を行使し続けることになります。

 

アメリカの参戦

世界の中で工業生産での優位を手に入れていただけでなく、影響力まで持ち始めたアメリカは1917年1月「無併合・無賠償」の「勝利なき平和」を唱えて戦争終結の仲介を行おうと乗り出しました。

ところが、中立の大国である立場を利用しアメリカにとって望ましい形での終戦を望んでいたものの上手く行かず、ドイツが無制限潜水艦作戦を開始。

この潜水艦作戦でアメリカの被害が相次いで国内世論は更に反ドイツへ傾くと、アメリカはドイツと断交、1917年4月に「民主主義の擁護」を理由に宣戦布告したのです。

未だ無傷の状態の兵がついたことと物資を得たことで連合国は一気に息を吹き返します。

 

二つの参戦理由とは?

実を言うと「経済的に結びつきの深い連合国に勝ってもらう方が得」というもの以外にアメリカ参戦の深層には帝国主義的な目的が横たわっていました。

この頃のアメリカは太平洋と中国でドイツ領を占領しはじめていた日本に対する警戒心を強く持ち始めるようになっていたのです。アメリカの持つ中国利権や日本による中国への対華二十一ヶ条の要求が影響しているのは明らかでした。

終戦外交で主導権を握って日本を抑え込む方向に動きはじめていきます。

当時の中国の状況とは?

辛亥革命(1911-1912)によって清を倒して成立した中華民国。その初代大総統が袁世凱という人物です。

対華二十一ヶ条の要求袁世凱は一部情報を他の列強にリークして国際社会の反発を煽り不成立にさせようとしますが、日本側は13ヶ条に減らして受け入れざるを得ない状況を作り出し、実際に袁世凱政権は受け入れるしかなくなりました。

が、中国国内で受諾そのものに反発し、反対運動や暴動が発生。国内で反日・反袁運動が高まります。

そんな中、1916年6月に彼が亡くなると混乱状態は悪化し、中華民国が内戦状態に。複数の軍閥が並立する軍閥時代に突入しています。各軍閥にはそれぞれ別の列強が後ろにつく状態が始まります。

軍閥時代

wikipedia『軍閥時代』 を改変 

日本と米英は完全に異なる軍閥を支援し、やがて両者は対立の道へ進んでいったのです。こうして日米間の利害対立が明らかになりはじめました。

 

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ウィルソンは、ドイツと断交前日の閣議で「黄色人種に対抗するために白色人種を強くしておく必要があるかもしれない」という発言をしており、ドイツとの戦争よりも中国を巡る日本との対立が今後重要になってくるという認識をこの時点で持っていたようです。

 

ロシア革命の発生(1917年)

アメリカが参戦を決める少し前。ロシアでもボリシェビキメンシェビキを除いて議会ドゥーマと政府は協力体制を作り上げていました。

ボリシェビキメンシェビキについては下の記事で少し触れています。両者共に社会民主主義団体『社会民主労働党』の一派です。

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が、初戦のタンネンブルクの戦いで敗北を喫した後、1915年春から夏にかけてガリツィア(ウクライナ南西部)とポーランドでの大敗でロシアの挙国一致体制が揺らぎ、前線の善戦の兵士の間にも厭戦気分が広がります。

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二度の革命の発生(1917年2月/10月)

1916年の夏には前線の兵士達だけでなく国内の市民たちにも動揺が広がりはじめ、一旦は治まりつつあった労働運動が活発化。中央アジアの諸民族も動員に抗議するようになり、デモ活動や蜂起など国内は混乱に陥りました。

鉄道網の不備もあって燃料や食糧が不足すると、ヨーロッパ戦線の最前線に近いロシア北西にある首都ペトログラードでは特に深刻な状況となっています。

そんなペトログラードでは、1917年の女性労働者たちによるデモをきっかけに専制打倒と平和を求める運動が全市的なゼネストに発展。それどころか兵士達も合流し、各地に労働者・兵士のソビエト(評議会)が組織されました。

こうしたソビエトの動きを警戒した国会は自由主義諸党派を中心に臨時政府を成立させ、皇帝ニコライ2世は退位することに。これを【二月革命】と呼んでいます。

300年続いたロマノフ王朝は崩壊し、カデット(←自由主義政党であった『立憲民主党』の通称)などから構成されるロシア初の民主派政権が誕生しました。ロシアでは、この時に出来た臨時政府ソビエトが並立し、以降は国会の解体が進むことになります。

 

その後、同年10月になると今度はペトログラードの労働者・兵士らソビエトにより並立状態の臨時政府を打倒しようと武装蜂起が起こりました。これが【十月革命】もしくは【ソビエト革命】です。

この時点でロシア国内は臨時政府に代わりボリシェビキが権力を掌握することとなります。

 

ソビエト政府、ドイツなどと単独講和に踏み切る

十月革命の翌日、ソビエト政府がウラジーミル=レーニン提唱の「平和への布告」を発します。協商国の政府・国民に「無併合・無賠償の即時講和」の実現を求め、さらに帝政ロシア時代の秘密条約を公開することで戦争の無意味さを訴えて他の協商国にも対独講和への参加を勧告しました。

その上でロシアは単独でドイツ軍と講和交渉を始め休戦協定を結んで1918年3月ブレスト=リトフスク条約を締結して戦線離脱。東部戦線は同盟国側の勝利で終わっています。

戦局だけ見れば、ドイツが東部戦線の兵力を西部方面に投入して最後の大攻勢をかけても補給不足がたたって進撃は停止しており、西部戦線は結局膠着状態のままで変わっていません。

それでもロシアの離脱と平和への布告秘密条約の公表は戦争の行く末に大きな影響を与えました。

 

平和への布告が与えた影響とは?

戦争参加国は「平和への布告」が自国や植民地へのロシア革命による影響を懸念しました。労働運動の指導者や社会民主主義者なども戦争に協力してきたけれど、これを機に戦争に疑問を持ち、挙国一致体制が崩れることを恐れたのです。

こうして戦争目的や講和の原則を表明せざるを得ない事態となっています。

協商国は共同声明を出そうとしますが、上手くいかず断念。諸国間の利害調整に失敗し、各国がそれぞれ声明を出すこととなりました。

アメリカのウィルソン大統領の「十四ヶ条の平和原則」は、そんなレーニンへの対抗から出された提案で、後に講和条約を結ぶ際の骨組みとなっています。秘密外交の廃止や海洋の自由、民族自決などが盛り込まれました。

 

戦争の終結

ロシアが戦線離脱したのと似たような時期、ロシア以外でも戦争の継続が厳しくなり各国内部で政府を批判する声が大きくなり始めると、とうとう

  • 9月:ブルガリア
  • 10月:オスマン帝国
  • 11月:オーストリア

も単独休戦を行うに至りました。残されたドイツも流石に勝利の見込みがないことを悟って軍部は議会指導者に政権を委ね、元々間を取り持とうとしていたアメリカ大統領との休戦交渉に移っていきます。

※ドイツでも政府批判の声は高まって帝政の民主化を進めようとする運動が激化しますが、軍部の締め付けを強め独裁体制を強化して対抗。他の同盟国が陥落した頃は軍部が完全に政権を握っている状況にありました

 

そんな中でドイツ海軍指導部が最後に絶望的な出動命令を出すと、待遇に不満を持っていた水兵たちがキール軍港で蜂起。即時講和を求めた反乱は既に飢饉が起こるなど余裕をなくしていたドイツ国内にあっという間に広がります。

この叛乱でドイツの皇帝・ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命、国内の諸君主(ドイツは連邦国家)も退位してドイツで共和国が成立したため、新共和国政府と連合国との間で休戦協定が結ばれました。

 

多くの新兵器が使われ、歴史上はじめてとも言える程の総力戦となった第一次世界大戦。この長い戦争は多くの犠牲者を出して4年間という長い期間を経てようやく幕を閉じることとなったのです。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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