ヴェルサイユ体制下の欧米諸国【ヨーロッパ史】
第一次世界大戦がアメリカの参戦で大きく状況が変わり、幕を閉じました。戦争の舞台となったヨーロッパ各国は大きく疲弊しアメリカが台頭。
さらに第一次世界大戦真っただ中に疲弊した人民たちによりロシア革命が起こされ、世界で初めて社会主義国家である社会主義ソビエト共和国が誕生しています。
ボリシェヴィキ(=政党名)がロシアでソビエト政権を樹立する過程で組織されたトロツキー率いる赤軍は、目標の一つに「ヨーロッパへの革命支援」を掲げていました。同時にソビエト国内では「革命を止めよう」とする反革命側の軍隊・白軍も生まれ、赤軍の間でロシア内戦が勃発していきます。
その頃のヨーロッパは長引く戦争で疲弊し苦しい生活を送っている人達が大勢いた訳で「平等で公正な社会を目指そう」とする社会主義に傾倒する者も出てきていました。
当然この動きを見過ごすことのできないヨーロッパ諸国や日本、アメリカなどは内戦に呼応して白軍に協力。対ソ干渉戦争を1918年5月に起こします。そのため、話し合いの場にソビエトは招かれずに新時代の体制は築くこととなったのです。
今回は、そんな新時代の体制・ヴェルサイユ体制についてまとめていきます。
ヴェルサイユ体制とは??
ヴェルサイユ体制とは、ウィルソンによる『十四ヶ条の平和原則』とヴェルサイユ条約以下の各講和条約で形成された国際体制のことを指しています。それを総括する場が【国際連盟】です。
このヴェルサイユ条約諸々を決めたのがパリ講和会議というわけです。
パリ講和会議(1919年1月)
1918年の夏ごろにドイツの敗北が明らかになると、ベルギーのスパ(都市名)においたドイツの大本営がアメリカ合衆国の大統領ウィルソンに講和交渉を要請することを決めています。
アメリカは最終的に連合国側に着きましたが、中途段階ではドイツに対して中立国として講和の場を設けようと働きかけていた国でもあったためです。
講和条約に向けた覚書の交換でウィルソンは十四ヶ条を講和条約の基礎としたうえで専制的なドイツの体制変革の要求をしています。
十四ヶ条の平和原則とは
1917年にロシアで起きた十月革命の翌日、ソビエト政府はレーニン(ボリシェヴィキの指導者)の提唱した平和への布告を発信。これに対抗した声明の一つとしてアメリカが発表したのが1918年1月のウィルソン大統領(民主党)による『十四ヶ条の平和条約』でした。
- 秘密外交の廃止
- 海洋の自由
- 経済障壁の撤廃と通商条件の対等化
- 軍備縮小
- 植民地問題の公平な解決(民族自決)
- 全ロシア領からの撤兵
- ベルギーからの撤兵と主権の回復
- 全フランスからの撤兵とアルザス・ロレーヌのフランスへの返還
- 民族居住線に沿ったイタリア国境の修正
- オーストリア=ハンガリーの民族自決
- バルカン諸国(ルーマニア・セルビア・モンテネグロ)の回復
- オスマン帝国支配下の諸民族の自決
- ポーランドの独立と海洋への出口保障
- 国際平和機構(国際連盟)の設立
民族自決の原則が重視されているのが分かりますが「こうあるべき」的な一般的な原理として掲げたものではなかったようです。
また、五項目めの内容は『植民地住民と支配権を持つ政府の要求が「平等の価値を持つ」という原則』を提言するだけで植民地主義を否定するものでもありませんでした。
下の記事は、レーニンによる平和への布告とウィルソンによる十四ヶ条の発布との関係やこれらが出されたことによる影響にも触れているので、気になる方はご覧下さい
パリ講和会議
1919年1月、パリでは連合(協商)国27国代表による講和会議が開かれました。軍人ではなく政治家が主役の会議で、会議関係者は総数1万人にも及んだと言います。
各国の議会の意向や世論、国民の動向が大きく影響を与えました。
この会議で決めていく内容の大枠は講和会議の仲介をしたアメリカの希望通り、ウィルソンの十四ヶ条を元に決めており、新たな指導的大国として、米・英・仏・イタリア、そして日本が全般的主導権を持つ国として認められています。
そうはいっても日本は地理的に遠いためヨーロッパの諸問題に関心はなく、イタリアの方も領土要求が受け入れられないとして会議を一時離脱。さらに、アメリカは1918年11月の下院議員選挙で民主党が敗北したこともあってウィルソン大統領の対外的な影響力が低下している状況でした。
※イタリアは海港フィウメを「未回収のイタリア」の一部として手に入れたいと考えたが、住民の半数がセルビアが併合した後のユーゴスラビアに居住する者達と同じクロアチア人のため、フィウメはセルビアに併合された
そんなわけで、会議中は特に英・仏が講和会議内で存在感を見せています(それでも第一次世界大戦中に債権国としてヨーロッパに意見を通しやすくなったアメリカの存在感は結構なものでした)。
パリ講和会議をまとめたウィルソンに加えて、
- イギリス:ロイド=ジョージ首相(自由党)
- フランス:クレマンソー首相(急進社会党)
といった会議中存在感の大きかった英仏の首相たちはそれぞれ
このようなことを考えました。
が、それぞれ目的や思惑が異なっていたため合意達成は容易ではなく、しまいにはウィルソン大統領も交渉を見限って帰国準備を始めようとする有様です。
当初はドイツにも交渉の場につかせるつもりでしたが実現されず、連合(協商)国の希望のみが詰まった要求をドイツに受諾させたのでした。
ヴェルサイユ条約の内容とドイツへの影響
実際のヴェルサイユ条約の内容はどのようなものだったのでしょうか?
- 国際連盟の設立
- ドイツは全植民地と海外の一切の権利を放棄
- フランスへアルザス・ロレーヌを返還
- ポーランドへポーランド回廊・シュレジェンの一部を割譲
- ザール地方を国際連盟の管理下に置く。帰属は15年後の住民投票で決定
- ダンツィヒを自由市(国際連盟の管理下)とする
- ドイツの軍備制限(陸軍10万人、海軍1万5000人、艦艇36隻、潜水艦・軍用航空機の保有禁止)
- ライン川右岸 50㎞ の地帯を非武装とし、左岸は連合軍が15年間保障占領
- 巨額の賠償金支払い
ドイツはこうした様々な制約などを課せられ、全ての植民地を失い軍備に制限が設けられ、天文学的な賠償金を支払うことになります。賠償金は国民総所得の2.5倍と言われ、今の日本で例えると1250兆円。なんと2010年10月3日まで賠償金を支払い続けたそうです。
協議を終えた結果、ドイツは戦前と比較して国土は13.5%、人口は約1割、石炭・錫の生産量の4分の3、ジャガイモ・ライ麦生産量の2割近くを失いました。
ところが、ドイツは第一次世界大戦で本土は占領されていないし無条件降伏をしたわけでもなかったため、条約にドイツ人は反発。後々ナチスの台頭を招いています。
なお、ドイツの旧植民地領は事実上、戦勝大国間で再配分されており、アジア・アフリカ地域の植民地の人たちからすれば「何が民族自決だ」と失望させる結果となっています。
他の敗戦した同盟国はどうなったの?
もちろん講和条約はドイツだけでなく、同盟国として参戦したオーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリアとも結んでいます。
- オーストリア・ハンガリー帝国:サン=ジェルマン条約
- オスマン帝国:セーヴル条約
- ブルガリア:ヌイイ条約
これらの国々も上記の条約を連合国と結び、それぞれが各々の制裁を科されることとなりました。
オーストリア=ハンガリー帝国
まずはオーストリア=ハンガリー帝国から。少数民族の独立運動で崩壊し、ハプスブルク家は滅亡。4つの国に分かれ、後に紛争となる争いの元も生まれています。
- オーストリア共和国
:ドイツ人地域のみがオーストリアとして存続。人口面積ともに4分の1に - ハンガリー王国:敗戦国扱いとなりトリアノン条約で国土が3分の1となる
- チェコスロヴァキア共和国:ベーメン+スロヴァキア+スデーテン地方で構成
- セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(後のユーゴスラビア)
:セルビアがボスニア、クロアチア、スロヴェニアなどを併合
東方植民以来スデーテン地方にはドイツ人が居住するも、鉱工業地帯のため住民の意に反して併合しました。
同じくクロアチアとスロヴェニアも中世以来カトリック文化を受容しつつハンガリー支配下にありましたが、鉱工業地帯のため住民の意に反して併合されてセルビアに併合。ユーゴスラビア紛争の始まりとなっています。
セルビアとしては念願のボスニアを手に入れて主導的立場を取るようになったのはいいのですが、民族も宗教も異なるため非常に難しいかじ取りを迫られることになります。
※民族主義が重要視され始めた中で新しく多民族国家を統治するのは難しかった。
また、第一次世界大戦のキッカケとなったサラエボ事件でオーストリア=ハンガリー帝国と対立した後に頼ったのは同じ正教徒でスラブ系のロシア。ハンガリーのカトリックとは宗教も異なることが統治の難易度を上げました。
オスマン帝国とブルガリア
オーストリア以上に国体に影響されたのがオスマン帝国です。もともと独立運動で弱ってたところに列強各地へ借金してジリ貧となっていたオスマン帝国は、セーブル条約で実質的にほぼ解体される結果となっています。
オスマン帝国の非トルコ人の居住地域は下の地図のような形で戦勝国に統治を委任する形となりました。
※なお、クルド人(イラン系山岳民族)自治区は現在でもイラクからの独立を巡る動きが健在中です。ちなみに、この境界になったのは英仏露による秘密条約サイクス・ピコ協定が関係しています。
ブルガリアの方も同様に領地は大きく削られました。
新興国家の成立
講和会議でも重要視されていた民族主義が単純化したスローガンとして伝わり、バルカン半島からバルト地域に至る広範囲な中・東欧地域では新興国家が誕生しています。
サン=ジェルマン条約で誕生した国家も含みますが、新興国家として生まれたのは
- フィンランド
- エストニア
- ラトヴィア
- リトアニア
- ポーランド
- チェコスロバキア
- ハンガリー
- セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(ユーゴスラビア)
これらの8カ国です。最終的に下のような勢力図となっています。
連合国として第一次世界大戦に参戦しながら、途中で国内に起こった革命が原因で対ソ干渉戦争が発生したという点で、ソビエト(ww1の時点ではロシア)は少々特殊な立ち位置となっています。
国際連盟とは??
1920年のヴェルサイユ条約の発効とともに正式に発足した組織です。加盟国は当初32カ国で構成され、旧同盟国とソヴィエト=ロシアは排除されていました。
国際連盟の本部と国際労働機関はスイスのジュネーヴに、常設国際司法裁判所はハーグに置かれています。
- 国際労働機関:労働者の労働条件と生活水準の改善を目的とした機関
- 常設国際司法裁判所:国家間の紛争解決のために作られた常設的な司法機関
なお、言い出しっぺのアメリカは共和党の反対が足を引っ張り、且つウィルソン大統領自身も非妥協的な姿勢を見せていたため、アメリカは国際連盟発足時には加入しませんでした。加入すれば常任理事国入りは確実だったのですが...
ヴェルサイユ体制の総括する場が国際連盟であり「世界の中でも多大な影響力を持ち始めたアメリカが参加しない」ということでヴェルサイユ体制は事実上ヨーロッパの国際体制とも言える体制となったのでした。