二月革命とは?七月王政の崩壊と第二共和政の成立をわかりやすく解説
前回の記事では、1830年の七月革命によってブルボン復古王政が倒れ、ルイ=フィリップの七月王政が成立したことを見てきました。
ただし、七月王政は共和政ではありません。王を置く立憲君主政であり、政治に参加できた人々も限られていました。そのため、七月革命で新しい政治体制が生まれたあとも、フランス社会の不満が消えたわけではありませんでした。
その不満が積み重なり、1848年に再び革命として表面化したのが二月革命です。
今回は、二月革命がなぜ起こったのか、七月革命と何が違うのか、そして第二共和政の成立までの流れを整理していきます。
七月王政はどのような政治だったのか

1830年に起こった七月革命で王位に就いたのが市民層の支持の高かった、ブルボン家の支流にあたるオルレアン家出身のルイ=フィリップです。彼のもとで成立した政治体制を七月王政と呼んでいます。
この七月王政は憲法のもとで国王が政治を行う立憲君主政という政治体制をとっていました。
シャルル10世のもとで反動色を強めた復古王政よりも自由主義的ではありますが、当時の政治体制ならではの限界も見えてきます。
もともと王政に反対していた共和派による1832年のパリ蜂起(六月暴動とも)や1835年に起こった国王ルイ・フィリップ暗殺未遂事件など、七月王政に入った後も政権の基盤は必ずしも安定していませんでした。
七月王政の限界――富裕市民中心の政治
七月王政の大きな特徴は、富裕な市民層に支えられた政治だった点です。
この時代のフランスでは、選挙権が広く国民全体に認められていたわけではありません。選挙権を持つことができたのは、基本的に次のような人たちでした。
- 性別:男性
- 年齢:25歳以上
- 納税条件:年200フラン以上の直接税を納めること
- 主な対象:富裕な市民層
七月王政で有権者は10万人から16万6千人に増加していますが、それでも人口比でかなり少ない人数しか該当しませんでした。政治の中心にいたのは商工業者や銀行家などの富裕なブルジョワジーに限られていたのです。
▶ フランス国民議会公式サイト「1830年8月14日 改正憲章」参照
ブルジョワジーとは、もともと都市の市民層を指す言葉ですが、19世紀には商工業や金融業で力を持つ富裕市民層を指すことが多くなります。
一方で、労働者や下層市民は政治から取り残されました。
七月革命では民衆も大きな役割を果たしたにもかかわらず、結果として成立した七月王政では民衆の多くが政治に参加できなかったのです。
このため、選挙制度を改革し、より多くの人々に政治参加を認めるべきだという声が高まっていきます。
社会不安の高まり――産業化・失業・食糧危機
七月王政への不満は、政治参加の問題だけではありませんでした。
19世紀前半から進みつつあったフランスにおける産業革命に伴う失業や賃金の問題、食糧飢饉が襲います。少しだけ詳しくみていきましょう。
フランス産業革命の影響
19世紀のフランスでは産業化が進み、工業生産や市場競争が広がる一方で、職人や労働者の生活は不安定になっていきました。
仕事を失う人もいれば低賃金で働かざるを得ない人もいて、都市では貧富の差も目立つようになり、労働者や下層市民の生活不安は強まります。国内の産業化と市場競争が進む中で社会の歪みが表面化していたのです。

絹織物工の不満に、七月王政へ反発する共和派の運動が重なった騒乱だった
その具体例が絹織物工であるカニュたちが賃金問題をめぐって1831年と1834年にリヨンで蜂起した件です。こうした動きからも、七月王政のもとで労働者や下層市民の不満が高まっていたことが分かります。
食糧飢饉
さらに、1840年代後半にはヨーロッパ各地で食糧危機が襲いました。
1845年以降、ジャガイモの疫病が広がり、1846年には穀物の不作も重なります。食料価格が上がり、生活に余裕のない人々ほど大きな打撃を受けています。
食糧危機、不況、失業。
王政廃止を求めていた層や労働問題から不信感を持つようになった層だけでなく、食糧危機まで重なったことで七月王政への不満はさらに強まっていきました。
改革宴会と二月革命
七月王政に対する不満が高まる中で、人々は選挙制度の改革を求めるようになります。ところが、当時の首相のギゾーは認めません。
この時のギゾーの発言(意訳)が今の感覚だとかなり衝撃的です。

選挙権が欲しいなら金持ちになればいい
低賃金、長時間労働で疲弊している一般庶民にとっては、かなりむかつく一言だったのではないでしょうか。いつの時代であっても神経を逆撫でする言動だと思います。
そのうえ、当時のフランスでは政治集会が厳しく制限されていました。フランスではこれまでに複数回の革命が起こり、新たな政権が出来上がった後も足元の基盤が揺らいでいたわけですから、政府側の対応としては当然ですね。
これに対して、反政府派や改革派は宴会という形式で政治改革を求めるようになります(これを改革宴会といいます)。宴会という形をとれば、表向きは政治集会ではありません。・・・実際にはその場で政治改革や選挙制度改革が語られていたのですが。
参政権拡大や選挙制度改革を求める人々によって、改革運動が活発化していきます。
同じころ、イギリスでもチャーティスト運動が起こっていました。これは、労働者層を中心に男子普通選挙や議員財産資格の廃止などを求めた政治運動です。
19世紀のヨーロッパでは、産業化が進む中で政治参加を求める声が広がっていたことが分かります。
そんな状況を把握していた政府は改革宴会を禁止することになりますが、これに反発した人々がパリで抗議を始めると、1848年2月、ついに蜂起にまで発展しました。
これが二月革命です。
ルイ=フィリップはギゾーを罷免しますが時すでに遅し。国王は退位に追い込まれてイギリスに亡命し、七月王政は崩壊しました。
七月革命によって生まれた七月王政も、わずか18年ほどで終わりを迎えたのです。
臨時政府と第二共和政の成立
二月革命によってルイ=フィリップが退位すると、フランスでは臨時政府がつくられました。この臨時政府は共和政を宣言し、フランスでは第二共和政が成立します。フランス革命期にも一度目の共和政が成立していたため、それに続く二度目の共和政という意味です。
第二共和政では、男子普通選挙が導入されました。財産の多さによって選挙権を制限するのではなく、成人男性に広く選挙権を認める制度です(一方で女性には選挙権がまだ認められていませんでした)。
また、労働者問題への対応として国立作業場も設けられました。これは失業者に仕事を与えるために作られた制度です。さらに、労働条件について政府に諮問するための機関・リュクサンブール委員会も設置しています。

この制度は臨時政府の一員となっていた社会主義者のルイ=ブランの所説をヒントに設けられたもので、労働者の生活問題も大きな課題になっていたことが分かります。
やがて国立作業場は財政負担や政治対立を生み、やがて六月蜂起へとつながっていくのですが、これは別記事で紹介します。
二月革命はヨーロッパ各地へ広がった
二月革命は、フランス国内だけで終わった出来事ではありませんでした。オーストリア、ドイツ、イタリア、ハンガリーなどでも、自由主義やナショナリズムを求める動きが強まります。
フランス二月革命以降、ヨーロッパ各地で革命や民族運動が広がっていったのです。これを1848年革命、または諸国民の春といいます。
ただし、多くの運動は最終的に保守勢力によって抑え込まれました。すぐに自由主義や民族統一が実現したわけではありませんが、1848年革命はウィーン体制の限界を示す大きな出来事でした。
七月革命と二月革命の違い
七月革命と二月革命はどちらもフランスで起こった革命ですが、起こった年はもちろん結果が大きく異なります。
| 七月革命 | 二月革命 | |
|---|---|---|
| 年 | 1830年 | 1848年 |
| 倒したもの | ブルボン復古王政 | 七月王政 |
| 結果 | 七月王政の成立 | 第二共和政の成立 |
| 政体 | 立憲君主政 | 共和政 |
| 中心人物 | ルイ=フィリップ | 臨時政府 |
| 重要事項 | 復古王政の崩壊 | 男子普通選挙、国立作業場 |
| ポイント | 王政継続 | 王政が倒れた |
簡単にいえば、七月革命は「復古王政を倒して、新しい王政を作った革命」なのに対して、二月革命は「その新しい王政も倒して、共和政を成立させた革命」でした。
フランス革命で第一共和政が成立したあと、ナポレオン帝政、復古王政、七月王政と政体は何度も変化しました。
そして二月革命によって、フランスは再び共和政へと向かうことになったのです。
