アイルランド大飢饉とは?ジャガイモ飢饉とイギリス支配をわかりやすく解説
19世紀、ヴィクトリア朝のイギリスは既に世界に先んじて産業革命が起きており「世界の工場」と呼ばれるほど工業が発展していました。さらに、自由貿易、海軍力、植民地支配を背景に世界的な大国として繁栄し、大英帝国として世界各地に影響力を広げています。
その一方で、イギリス繁栄の時代に支配下にあったアイルランドでは深刻な飢饉が起こっていました。アイルランドの大飢饉「ジャガイモ飢饉」です。
この飢饉は単なるジャガイモの不作だけで説明できるものではなく、アイルランドならではの事情が絡んで起こった飢饉でした。
そこで今回は、アイルランド大飢饉をヴィクトリア朝イギリスの繁栄と同時に存在していた問題やアイルランドの事情も絡めて迫っていこうと思います。
ジャガイモ飢饉とは?
ジャガイモ飢饉とは、1845年ごろから1850年代初めにかけてアイルランドで深刻化した飢饉のことです。アイルランド大飢饉とも呼ばれています。
直接のきっかけは、ヨーロッパの多くの地域や北米に広がったジャガイモ疫病による凶作でした。凶作でジャガイモの供給量が減って食糧価格が高騰し飢饉をもたらしたのですが、なかでも被害が大きかったのがアイルランドでした。
多くの人々はアイルランドを離れました。移民先は、アメリカ、カナダ、イギリス本土などです。その結果、アイルランドの人口は大きく減少しています。
当時のアイルランドの背景
ジャガイモ飢饉を理解するには、ジャガイモ疫病が起こる前のアイルランド社会を見ておく必要があります。
ジャガイモの不作そのものはアイルランドだけで起こったものではなかったにもかかわらず、同国で被害が特に大きくなった理由があるためです。
イギリス統治下のアイルランド
17世紀以降はイングランドの植民地となっていましたが、1800年に合同法が成立。翌1801年にグレートブリテンと連合王国を構成することになりました。
政治の中心はロンドンにあり、アイルランドの問題もイギリス政府の政策と深く関係していたことを意味します。そのため、アイルランド大飢饉は連合王国の統治のあり方とも関連していました。
土地制度と貧困の問題
アイルランド大飢饉を考えるうえで重要なのが、当時の土地制度です。
アイルランドでは、多くの農民が自分の土地を十分に持っていたわけではありません。地主から土地を借り、地代を支払いながら生活する小作農が多く存在していました。
人口が増加していたうえ、農村では親の代から使っていた土地や借地を子どもたちの間で分けて使うこともありました。その結果、一つひとつの農地は細分化されていきます。
地主にとって土地が地代収入を得るための財産であると同時に、小作農にとっては生活の基盤となっています。
- アイルランドの土地契約とコンエーカー制とは?
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アイルランドの農村では、地主から土地を借りて生活する小作農が多く存在していました。
その中でも、土地を十分に持たない農村労働者は、小さな土地を短期間(約1年)だけ借りて作物を育てることがありました。このような仕組みは、コンエーカー制と呼ばれます。
コンエーカー制では、地代を現金で支払う場合もあれば、労働や収穫の一部で支払う場合もありました。
また、土地を所有する地主層の中には、アイルランドに住まずにイギリス本土などで暮らす不在地主も含んでいました。不在地主たちは、実際にアイルランドの苦しみが直接伝わりにくく、現地に住んでいた小作農とは大きな距離があったようです。
なお、こうした土地所有には、イングランド・イギリスによる支配の歴史と宗教も関係しています。アイルランドではカトリック系住民が人口の多数を占めていましたが、土地所有の上層にはプロテスタント系の地主層が多く存在していました。宗教の違いが土地所有や社会階層の違いと重なっています。
貧困層がジャガイモに依存した理由
そうした中でアイルランドの貧困層を支えた食料がジャガイモでした。
かつてはオート麦がメインでしたが、ジャガイモが入ってくると、細分化された狭い土地でも育ち、なおかつアイルランドの気候にもマッチした作物として貧しい農村住民の生活を支えていきました。
アイルランドの気候は西岸海洋性気候に属しています。
夏は暑くなり過ぎず、冬も緯度の割には寒さがそこまで厳しくない雨の多い気候です。
小作農たちは他の食料を買う余裕もなく、特に貧しい小作農や農村住民の間ではジャガイモへの依存が強まっていきます。多くは、自分たちの食料としてジャガイモを育てながら、別の労働や作物によって地代を支払っていました。
こうした生活は疫病や天候不順などで収穫量が激減すると生活が立ち行かなくなる危険性がありますが、実際に懸念が現実のものとなったのがジャガイモ飢饉だったのです。
さらに、飢饉中には地代を支払えなくなった小作人が土地を追われるケースまで出てきます。土地を失えば食料を得る手段だけでなく、生活の基盤そのものを失うことになりました。
イギリス政府の対応と救済の限界
上記のような状況下で、ジャガイモの不作は起こりました。
イギリス政府は、ジャガイモ飢饉に対してまったく何もしなかったわけではありません。穀物輸入、穀物法廃止、公共事業、食料配給、救貧制度を通じた救済など、いくつかの対策は行われています。
ですが、被害の規模に対して、それだけの対応では不十分でした。多くの死者と移民を生む大飢饉へと繋がっていくことになります。
自由放任主義と食料流通の限界
飢饉のさなかにも、地主や商人を通じてアイルランドから穀物や家畜などの輸出は続いていました。一方で、アイルランド内にも穀物や肉などは商品として流通していました。
当時のイギリス政府は市場の働きを重視。政府の介入をできるだけ抑えようとする自由放任主義的な考え方をもって「食料の流通を市場に任せれば、輸入や取引によって不足は緩和され、いずれ食料価格も落ち着くだろう」と考えていたのです。
当時のイギリスでは産業革命によって工業力が高まっていたため「安い食料や原料を輸入して工業製品を輸出することが、イギリス経済にとって有利」と考えられていました。
ところが、飢饉のような非常時にこの考え方は大きな限界を迎えます。
ジャガイモを失った貧しい小作農たちが商品として流通していた食料を買うだけの現金をほとんど持っていなかったため、食料価格が落ち着く前の段階で貧しい小作農たちが持ちこたえることはできませんでした。
食料が飢えた人々の手に届きにくい状況が生まれていた件は、自由放任主義的な対応の限界として後に強く批判されることになりました。
救済策はあったが十分ではなかった
そのイギリス政府も、アイルランドで起こった大飢饉に対して全く何もしなかったわけではありません。ピール内閣期には食料不足に対応するための穀物輸入が行われ、1846年には穀物法も廃止されました。さらに、ラッセル内閣期には公共事業、食料配給、救貧制度を通じた救済などが行われます。
ところが、被害の規模に対して政府の対応は不十分でした。
穀物法の廃止は、食料価格の上昇を抑える狙いを持つと同時に、イギリスが自由貿易を重視する方向へ進む転換点でもありました。ただし、この政策は市場を通じて食料供給を増やそうとする政策であり、飢えた人々に直接食料を届ける救済策ではありませんでした。
公共事業は仕事を与える形の救済でしたが、飢えや病気で弱った人々にとっては働くこと自体が難しい場合もありました。
また、食料配給も一時的には効果を持ちますが、長期的に広がる被害を支えきるものではありませんでした。
救済負担の押しつけと小作人の保護不足
さらに問題となったのが、救済の負担をアイルランド側に大きく負わせたことです。
救貧法による救済は、地域の負担に依存する面がありました。しかし、飢饉によって貧困者が急増すると、地域社会や地主だけで支えることは難しくなっていきます。地代を得られなくなった地域社会や地主が負担を負うだけの体力を失い始めていたためです。
逆に地代を支払えなくなった小作人は土地を追われることもありました。土地を失った人々は、食料を得る手段だけでなく、生活の基盤そのものを失うことになります。
このように、イギリス政府の対応は、貧しい小作農を十分に保護するものではなかったのです。
アイルランド大飢饉は、自然災害、社会構造、政治対応の問題が重なって深刻化した出来事だったといえます。
死者と移民
ジャガイモ飢饉では餓死や栄養失調による免疫低下で病気になり、亡くなった人々も多くいました。死者数は資料によって幅がありますが、約100万人規模とされることが多いです。
さらに、多くの人々が飢饉から逃れるためにアイルランドを離れ、アメリカ、カナダ、イギリス本土などに移住しました。特にアメリカには多くのアイルランド系移民が渡り、のちにアイルランド系アメリカ人社会を形成していきます。
アイルランドを離れた人々は、移民先でもアイルランドへの意識を持ち続けました。そのため、大飢饉の記憶は、アイルランド本国だけでなく、海外のアイルランド系社会にも受け継がれていきました。
アイルランド問題への影響
アイルランド社会に非常に大きな被害を与えたジャガイモ飢饉は、イギリス支配に対する不満や不信感を強める出来事にもなりました。
宗教、土地制度、政治的権利、民族意識など、長い歴史の中で積み重なった不満に大飢饉が加わり、自治要求や民族運動がより大きな意味を持つようになります。
19世紀後半にはアイルランド自治を求める動きが強まり、20世紀に入ると独立運動へとつながっていくのです。

