ヴィクトリア朝のイギリスとは?繁栄と自由主義改革、大英帝国の時代
19世紀のヨーロッパでは、フランスで七月革命・二月革命が起こり、ドイツやイタリアでは統一運動が進んでいきました。オーストリア帝国では多民族問題が大きな課題となり、ヨーロッパ各地で自由主義やナショナリズムの動きが広がっていきます。
その中で、イギリスは少し異なる道を歩みました。
イギリスでも社会問題や政治改革を求める声はありましたが、フランスのように革命によって政治体制を一気に変えるのではなく、議会政治の中で少しずつ改革を進めていきました。
その一方で、産業革命によって得た工業力、世界各地との貿易、強力な海軍、植民地支配を背景に、19世紀のイギリスは世界的な大国として発展していきます。
その象徴となるのが、ヴィクトリア女王の時代です。
ヴィクトリア女王は1837年に即位し、1901年まで長く在位しました。この時代のイギリスは「世界の工場」と呼ばれるほどの工業力を持ち、世界各地に植民地や通商拠点を広げる大英帝国としての地位を高めていきました。
今回は、ヴィクトリア朝のイギリスがなぜ繁栄したのか、どのような改革が進んだのか、そしてその裏側にどのような問題があったのかを見ていきます。
ヴィクトリア朝とは?
ヴィクトリア朝とは、ヴィクトリア女王が在位した1837年から1901年までの時代を指します。
この時代のイギリスは、産業革命後の経済発展を背景に、世界で大きな影響力を持つ国となりました。綿工業、鉄鋼業、石炭業、鉄道建設などが発展し、イギリス製品は世界各地に輸出されていきます。
また、ロンドンは金融と貿易の中心地として発展しました。世界各地から商品や資金が集まり、イギリスは工業生産だけでなく、貿易や金融の面でも大きな力を持つようになります。
ヴィクトリア朝は、イギリスが産業力・海軍力・貿易・植民地支配を背景に、世界的影響力を強めた時代でした。
※領土の大きさだけ見ると、ヴィクトリア女王の死後、WW1後の1920年頃が最も大きいです。
さらに、イギリス海軍は世界各地の通商路を支えました。商品を売る場所、原料を得る場所、船が立ち寄る拠点を確保することは、イギリスの経済発展と深く結びついていました。
つまり、ヴィクトリア朝のイギリスは、産業革命による工業力、世界貿易、海軍力、植民地支配が結びついた時代だったといえます。
なぜイギリスは繁栄したのか
ヴィクトリア朝の繁栄を見ていく際の根幹となるのが産業革命です。
イギリスでは18世紀後半から産業革命が進み、手工業中心だった生産の仕組みが、機械制工場を中心とするものへ変わっていきました。綿工業をはじめ、石炭、鉄、蒸気機関、鉄道などの発展によって、生産力と輸送力が大きく高まります。
鉄道網の発達は、国内の物資輸送を効率化しました。石炭や鉄、綿製品などを大量に運ぶことができるようになり、工業生産はさらに拡大していきます。
また、イギリスは世界各地と貿易を行っていました。工業製品を輸出し、植民地や海外市場から原料や食料を得ることで、イギリス経済は世界的な規模で動いていきます。
このように、イギリスは工業製品を大量に生産し、世界各地へ輸出したため、「世界の工場」と呼ばれました。
もちろん、これはイギリス国内だけで完結した繁栄ではありません。イギリスの工業力は、世界貿易や植民地、海上交通路と結びついていました。イギリス本国の工場で作られた商品が世界へ出ていき、世界各地から原料や利益が流れ込んでくる仕組みがあったのです。
自由主義改革と議会政治の発展
ヴィクトリア朝のイギリスを考えるうえで、政治改革を見ることも重要です。
19世紀のイギリスでは革命によって政治体制を倒すのではなく、議会を通じて改革を進める動きが強まりました。
1832年には第1回選挙法改正が行われ、新興工業都市の代表が議会に送り込まれやすくなり、中産層の政治参加が広がりました。
また、1846年には穀物法が廃止され、保護貿易から自由貿易へ向かう流れが強まります。穀物法は、外国産の安い穀物の輸入を制限し、地主層を保護する制度だったのと同時に、産業資本家や都市の人々にとっては食料価格を高くする要因にもなっていたのです。
さらに1849年には航海法も廃止され、貿易の自由化が進みました。
その後、1867年の第2回選挙法改正では都市労働者にも選挙権が広がり、1884年の第3回選挙法改正では農村労働者にも選挙権が拡大していきます。
イギリスの改革は、一度にすべての人へ参政権が認められたわけではありません。中産層、都市労働者、農村労働者へと、段階的に政治参加の範囲が広がっていきました。
さらに、この時期には自由党と保守党による二大政党政治も発展していきます。
自由党の代表的な政治家がグラッドストン、保守党の代表的な政治家がディズレーリです。両者は政治方針に違いを持ちながらも、議会政治の中で競い合い、改革や帝国政策を進めていきました。
なお、彼らは以前の政治指導者のような土地所有を基盤とする貴族やジェントリ層出身ではありませんでした。グラッドストンは富裕な貿易商出身であり、ディズレーリは文筆家の家に生まれ、自身も作家として活動した人物、いわゆる中産階級と呼ばれる出自から出てきた政治家たちです。
イギリスでは、こうした商工業者や法曹、行政専門職を中心とした中産階級出身者が新たなエリート層に加わっています。
大英帝国の拡大
ヴィクトリア朝のイギリスは、大英帝国として世界各地に植民地や自治領、通商拠点を持っていました。カナダ、オーストラリア、インド、アフリカ、アジア各地の港や拠点など、イギリスの影響は広い地域に及びます。
この中でも特に重要だったのがインドです。
インドは、イギリスにとって重要な植民地でした。綿花などの原料、商品市場、税収、軍事的拠点など、さまざまな面で大英帝国を支える存在であり、大英帝国の象徴的な存在となっていきます。
このように、大英帝国の繁栄は単なる貿易や工業生産だけで成り立っていたわけではありませんでした。植民地支配、軍事力、海軍力、世界貿易が結びつくことで、イギリスの世界的な影響力は支えられていたのです。
繁栄の裏側にあった問題
ヴィクトリア朝の時代、イギリスは大英帝国として確かに繁栄していましたが、その急激な発展と繁栄の裏で避けては通れない問題が起こってきます。
労働者問題
まず、産業革命のころによく聞く「都市の労働者問題」について見ていきましょう。
産業革命によって工業都市が発展すると、多くの人々が農村から都市へ移り住みました。工場で働く労働者が増え、都市人口も急速に拡大します。
しかし、労働時間は長く、賃金は十分とはいえず、労働環境や住環境も劣悪な場合がありました。貧富の差も大きな問題となります。
さらに、産業革命期には児童労働も大きな問題となりました。工場や炭鉱では、子どもが長時間働かされることもあり、労働環境の改善を求める声が高まっていきます。こうした問題を受けて、1833年の工場法や1842年の炭鉱法など、子どもの労働時間や女性・子どもの地下労働を制限する法律も作られました。
こうした工場法などによる改善の動きも進みますが、労働者の生活問題はヴィクトリア朝の重要な課題であり続けました。
アイルランドの問題
アイルランドはイギリスの支配下にありましたが、宗教、土地所有、経済格差などをめぐる問題を抱えていました。1840年代にはジャガイモ飢饉が起こり、多くの人々が飢えや移民を余儀なくされました。
この飢饉は、単なる自然災害ではありません。アイルランド社会の貧困や土地制度、イギリス支配との関係の中で深刻化した問題でした。
植民地支配の問題
これまで述べてきたように、イギリスの繁栄は世界各地との貿易や植民地支配と結びついていました。植民地では現地社会の経済や政治がイギリスの利益に合わせて組み替えられることもありました。
1857年のインド大反乱も、そうした支配に対する反発の表れと見ることができます。
もとは東インド会社に対する反発で起きたものですが、原因は一つではなく、兵士の不満、宗教的反発、土地制度や支配体制への不満など、さまざまな要素が重なっていました。
この反乱後、1858年に東インド会社による統治は終わり、インドはイギリス政府による直接統治へと移されます。1876年にヴィクトリア女王はインド皇帝の称号を得て、1877年にはデリーでその称号が宣言されました。日本の世界史では、この流れをインド帝国成立と結びつけて押さえることが多いです。
19世紀後半の世界史へ
ヴィクトリア朝のイギリスは、19世紀世界を考えるうえで非常に大きな存在です。
産業革命による工業力、自由貿易、議会改革、海軍力、植民地支配が結びつき、イギリスは世界的な大国としての地位を築いていました。
一方で、その繁栄の裏側には、労働者問題、貧富の差、アイルランド問題、植民地支配、インド大反乱など、多くの矛盾も抱えています。
ヴィクトリア朝を見ると、19世紀のイギリスが単に「豊かで強い国」だっただけではなく、自由主義、産業資本主義、帝国主義が結びついた国だったことが見えてきます。
ただし、19世紀後半になると、イギリスだけが圧倒的に優位だった時代にも変化が生まれはじめます。
ドイツやアメリカも工業国として成長した結果、世界の工業力や植民地をめぐる競争は、さらに激しくなっていきました。
そんな中、フランスでは第二帝政が成立。イタリアとドイツでは統一国家の形成が進み、列強による帝国主義的な動きも強まります。
イギリスの繁栄とその矛盾を押さえておくことで、19世紀後半のヨーロッパと世界の動きが見えやすくなるでしょう。










