七月革命とは?フランスで再び革命が起きた理由と周辺諸国への影響
フランス革命とナポレオンの時代を経たあと、フランスでは再び王政が復活しました(=復古王政)。
ただし、フランス革命を経験した人々が、革命前と同じような政治をそのまま受け入れたわけではありません。王政の側もそこは意識していて、議会や一定の権利を認めることで革命後の社会に対応しようとしていました。
それでも、憲法、議会、言論の自由、政治参加を求める動きは、ナポレオンの没落後も消えませんでした。王政を守ろうとする勢力と、より自由な政治を求める人々との対立は、しだいに強まっていきます。
その不満が表面化したのが、1830年の七月革命でした。さらに、七月革命の影響はフランス国内だけにとどまらず、ヨーロッパ各地にも影響を与えていきます。
今回は、七月革命がなぜ起こったのか、そしてこの革命がヨーロッパにどのような影響を与えたのかをまとめていきます。
フランス復古王政期の特徴とは?(1814~1830年)
ナポレオン没落後、フランスではブルボン家のルイ18世が王位につきました。これを復古王政といいます。ただし、王政が復活したといっても以前のままではありません。
ルイ18世は1814年憲章を発布し、議会や一定の市民的権利を認めました。立憲君主政を採用し、二院制議会や信教の自由なども保証しています。つまり、王政は復活したものの、国王がすべてを自由に決める政治へそのまま戻ったわけではなかったのです。
しかし、王党派の中には革命前の秩序(アンシャン=レジーム)に近づけようとする人々もいました。とくに保守的な政治を求める勢力は、自由主義を求める市民層と対立していきます。
この対立は、ルイ18世の後を継いだシャルル10世の時代にさらに強まりました。
シャルル10世は、貴族や教会を重視する保守的な政治を進め、議会や言論の自由を制限しようとします。こうした反動政治への不満が、1830年の七月革命につながっていきました。
七月革命/ブルボン復古王政の終わり
シャルル10世が保守的な政治を進め、言論の自由を制限したり、議会を抑えようとしたりしたのに対して、パリの市民たちは強く反発。1830年7月、パリで蜂起が起こり、シャルル10世は退位に追い込まれました。
これによって、ブルボン家による復古王政は終わりを遂げます。
その後、王位についたのがルイ=フィリップです。彼は「市民王」とも呼ばれ、富裕な市民層に支えられた七月王政を始めました。
つまり、七月革命は王政そのものを完全に廃止した革命ではなく、ブルボン家の復古王政を倒して自由主義的な性格を持つ七月王政へ変えた革命でした。
そんな七月革命は、フランス国内だけでなくヨーロッパ各地にも影響を与えました。
七月革命のベルギーへの影響(1830~1831年)
ベルギーがオランダから独立し、自由主義やナショナリズムの動きが広がっていったのも七月革命の影響といえます。独立宣言の発布と臨時政府の成立を経て、翌年の1831年にはドイツ領邦から君主を迎えたうえで立憲君主政の国を誕生させています。
※オランダ側は認めず、正式に独立を承認するのは1839年でした。
1815年のウィーン会議後、現在のベルギーにあたる南ネーデルラントと、現在のオランダにあたる北ネーデルラントが統合され、ネーデルラント連合王国が作られていました。
この統合には、フランスを北側から抑えるための防波堤国家を作る意図がありましたが、南北では宗教・経済・言語・政治上で重視するものに違いがあり、両者は矛盾を抱えていたようです。どんな違いがあったかは下のボックスに畳んでおいておきます。
- 北ネーデルラントと南ネーデルラントの違いとは?
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現在のベルギーとオランダにあたる地域は、まとめて「ネーデルラント」と呼ばれました。ただし、中世から一つの国としてまとまっていたわけではありません。
北部は神聖ローマ帝国の影響を受け、南西部はフランス王国との結びつきが強い地域でした。オランダ独立戦争では、北部7州がスペインに対抗して独立へ向かったのに対し、南部はカトリック色が強く、スペイン側に残りました。
こうした歴史的な背景や違いもあったため、ウィーン会議後にベルギーとオランダが同じ国にまとめられても、不満が残っていきます。
- 北ネーデルラント
オランダ語系・プロテスタント中心
商業・海運業の性格が強い - 南ネーデルラント
カトリックが多く、フランス語系エリートも多い
18世紀末から19世紀にかけて産業革命の影響で工業化が進んだ地域もあり
とくに当時の経済構造とネーデルラントがオランダ人国王が統治する国だったことで両者は次第に対立関係に陥りました。ネーデルラント王国は基本、北部を優先した政策をとっているため、南部では不満がたまっていたのです。
商業・海運業で交易を生業にしていた北部は自由貿易を望んでいましたが、南部、特にワロン地域にとっては事情が違いました。石炭や鉄を背景に工業化が急速に進みつつある中で自由貿易は産業をつぶしかねない政策だったためです。他国からの安い製品は死活問題となりかねません。
こうした南北の違いや政治・経済上の不満があったため、七月革命の影響を受けたベルギーでは独立運動が広がっていきました。
- 北ネーデルラント
イタリアへの影響
当時のイタリアは、現在のような統一国家ではありません。北部にはオーストリアの強い影響があり、中部には教皇領、南部には両シチリア王国があるなど、いくつもの国や地域に分かれていました。
七月革命以前からカルボナリによる自由主義運動が起こっていました。1820〜21年にはナポリやピエモンテで憲法制定を求める反乱が起こりましたが、オーストリア軍の介入によって鎮圧されます。
その後、1830年の七月革命は、こうしたイタリアの自由主義運動を再び刺激しました。1831年にはモデナ、パルマ、教皇領などで反乱が起こりましたが、これも鎮圧されます。
これらの失敗はイタリア統一運動の終わりではなく、 はじまりとなりました。
カルボナリの運動に限界を感じたマッツィーニは、1831年に「青年イタリア」を結成。イタリアの独立と統一、さらに共和政を目指して組織した青年イタリアは、後々イタリア統一のうえで重要な役割を果たすことになります。
よりはっきりと「イタリア統一」を目指す運動が生まれはじめていたのです。
ドイツ諸邦への影響
ドイツでも七月革命の影響を受けて、自由主義を求める運動が活発になりました。ザクセンやハノーファーといった領邦で憲法制定を求める運動が始まります。一部では暴動が起こり、各地で憲法が制定されました。
領邦に限らず全ドイツでの運動も起こりかけましたが、これらの運動は保守勢力によって抑え込まれ、活動家の中には弾圧を恐れてパリやスイスなどに亡命する者もいたようです。彼らの一部は、亡命先でドイツ人の政治団体や秘密結社に関わり、自由主義・民主主義・ドイツ統一を求める運動を続けました。
また、1834年にはプロイセンを中心にドイツ関税同盟が成立します。
これは七月革命によって直接作られたものではありませんが、七月革命後に高まった自由主義やドイツ統一への関心と同じ時代の流れの中にありました。領邦ごとの関税を取り除き、ドイツ諸地域の経済的な結びつきを強めています。政治的な統一はまだ実現しませんでしたが、経済面では統一へ向かう動きが進んでいったのです。
こうした動きは、すぐにドイツ統一を実現したわけではありませんが、1848年革命へ向かう流れの一部となっていきます。
ポーランドへの影響/ロシア支配への反発と十一月蜂起
ポーランドは18世紀末にロシア・プロイセン・オーストリアによって分割され、独立国家としての姿を失っていました。ナポレオン戦争後のウィーン会議では、ロシア皇帝を国王とするポーランド王国が作られましたが、実際にはロシアの強い支配下に置かれていました。
このポーランド王国には憲法や議会もありましたが、次第にロシアによる統制は強まっていきます。こうした状況の中で、ポーランド人の間には独立や自由を求める不満が高まっていました。
そこへ1830年、フランスで七月革命が起こります。さらにロシア皇帝ニコライ1世が、フランスやベルギーの革命を抑えるためにポーランド軍を動員しようとしたことも、反発を強める要因となりました。
1830年11月、ワルシャワで士官学校の青年将校たちが蜂起し、市民もこれに加わります。これが十一月蜂起です。
ポーランド側はロシア支配からの解放を目指しましたが、最終的にはロシア軍によって鎮圧されました。蜂起の失敗後、ポーランドの自治はさらに制限され、多くの人々が西ヨーロッパへ亡命することになります。
結局のところ、ポーランドでは七月革命の影響を受けて独立を求める運動が強まりましたが、ベルギーのように独立を実現することはできませんでした。それでも、十一月蜂起はウィーン体制下で抑え込まれていたナショナリズムが東ヨーロッパでも強く残っていたことを示す出来事だったのです。
七月王政の限界
七月革命によって成立した七月王政はフランス革命前のような王政とは違い、自由主義的なものではありましたが、七月王政にも限界が見えてきます。
政治の中心になったのは主に財産を持つ富裕な市民層でした。
選挙権も広く国民全体に認められていたわけではなく、財産を持つ一部の人々に限られており、労働者や下層市民の政治参加は十分に認められていませんでした。
また、19世紀のフランスでは産業の発展も進みます。その一方で、貧富の差や労働問題も目立つようになりました。都市で働く人々の中には、生活の苦しさや政治から取り残されていることへの不満を持つ人も増えていたのです。
イギリスに近いフランスでは、19世紀初めの段階で、すでに産業革命の影響が表れており、職人や労働者の生活は不安定になっていきます。
ただ、当時のフランスは国内産業を守る政策もとっていたため、職人や労働者の不安は、イギリス製品の流入が原因というよりも国内で進む産業化や市場競争の中で強まっていったと見る方がよさそうです。
そこに加えて1845年にジャガイモの疫病がヨーロッパ各地に広がり始め、1846年にはそれ以外の穀物の不作も重なりました。1850年ごろまでは慢性的な食糧危機が続いていきます。
これらの複数要因の不満が七月王政を倒すことになる二月革命につながりました。なお、食糧不足は二月革命後に広がることになる他国で起こった革命の背景にもなっています。








