大国の思惑で進められたポーランド分割とポーランド国内で起こったコシューシコ蜂起とは?
ロシアやプロイセン、オーストリアといった大国が弱体化したポーランドを三度にわたり分割し、各国の領土に組み込んだ出来事をポーランド分割と呼んでいます。
ポーランド分割が実際にどう行われたのか、分割に抵抗しようとポーランド国内で起こったコシューシコ主導の反乱について解説していきます。
ポーランド分割
最初にポーランドの国土を奪おうとしたのがロシアのエカチェリーナ2世です。
エカチェリーナ2世は愛人スタニスワフ(2世)を支援しポーランド王にしていました。その繋がりを生かしてロシアからポーランドへの内政干渉をかなり強めて法的に保護国化します。
ポーランドでは、そうした状況に反対する勢力バール連盟(1768-72年)の反乱やウクライナの一部で起こったコサックやハイダマーカと呼ばれる民族的・宗教的に迫害を受けていたウクライナ人たちの反乱コリーイの乱(1768年)が発生。
国土は荒廃し、ポーランドに国王はいるものの無政府状態に陥りました。
ロシア寄りの姿勢を見せていたポーランド王も保護国化までは望んでおらず、独立志向が強いことからめんど …支配に旨味を感じなくなります。
国土荒廃に独立志向の強い国王...ポーランド支配するのも面倒ね。
そんな中で、コリーイの反乱の際にオスマン帝国の領土に反乱軍が入り込んだのをきっかけにオスマン帝国とロシアの間で露土戦争(1768-74年)が勃発。ロシアの勝利で終わり一部を割譲したのですが、これがロシアとハプスブルク家との関係を微妙なものとしました。
長らくハプスブルク家もオスマン帝国と敵対、旧オスマン領土への野心も持っていたようでロシアの南下政策を危惧していたのです。
第一回ポーランド分割(1772年)
18世紀に入り、オーストリア継承戦争・七年戦争と長らく戦争が続いたプロイセンは両国が戦って自国が巻き込まれること(露普同盟を結び、互いの領土の安定を守る約束をしていた)を危惧し、フリードリヒ2世はオーストリアの国王でマリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世を誘ってロシアにポーランド分割を提案することにしました。
ポーランド分割はどうだ?
ハプスブルク家もロシアも我が国も領土が増えるし、オーストリアーロシア間の戦争を避けることができるだろう。平和的に解決できるな。
オーストリア国内では息子ヨーゼフ世に地位を譲っても依然として権力を持つマリア・テレジアの反対がありましたが、何とか説得。ポーランドは国土の3分の1を失うこととなりました。
第二回ポーランド分割(1793年)
その後、ヨーロッパの目がフランス革命(1789年~)に移ると、隙をついて1793年プロイセンとロシアによる2度目のポーランド分割が行われます。
ポーランドも第一回の分割以降、国の存亡をかけて憲法制定など国家の近代化を目指し、91年5月にヨーロッパで初めて近代的な成文憲法が制定されていました。
ポーランドがヨーロッパでは初めてですが、それより前にアメリカが近代的憲法を制定しています。
それでも力及ばず、この時はフランス革命を嫌悪していたロシアのエカチェリーナ2世が
新憲法の制定なんてフランス革命の伝染病だ
としてロシア軍を投入。1792年にはポーランド・ロシア戦争が起こると、圧倒的な物量で押し切られると考えたスタニスワフ2世は、ロシアとの関係を外交関係でどうにかしようと将軍たちの反対を押し切り降伏しました。
このポーランド・ロシア戦争にはコシューシコも参戦。祖国が降伏するとドイツのライプツィヒやパリに亡命しています。
ところが、スタニスワフの判断は大間違い。ポーランドの議員たちはロシア軍に買収もしくは脅迫されており、憲法を停止させられました。
そんなポーランドとのやり取りとほぼ同時進行で、エカチェリーナ2世は対仏大同盟結成を模索していました。
ここにプロイセン(既にフリードリヒ2世はなく、後継者が国王になっています)が対仏戦争継続を条件にポーランドの分割を要求。エカチェリーナ2世は同意し、ロシア軍の監視下にあったポーランド議会も止む無く領土割譲を承認することになったのです。
以後、議会はあっても召集されることはなくなり事実上ロシアの属国となっています。
コシューシコの反乱(1794年)
リトアニア大公領のベラルーシ系貴族の末子として生まれたコシューシコはワルシャワやフランスで軍事教育を受け、30代にはアメリカ独立戦争(1776-83年)に義勇兵としてジョージ・ワシントンの副官として戦ったという経歴の持ち主。
その間にアメリカ独立宣言(1776年)の起草者で後に第3代アメリカ大統領となるトマス・ジェファーソンら自由主義思想に影響を受けました。
母国に帰ってきた後もロシアから主権を取り戻す目的で開かれた四年セイム(議会)に議員として参加しています。彼が参加した議会の中でヨーロッパ初の近代的な成文国民憲法『5月3日憲法』が採択されています。
ところが、戦争に敗戦し憲法も停止。
事実上、完全なロシアの属国になり亡命すると、フランス革命の急進的な政治結社ジャコバン派や穏健な共和政を主張するジロンド派に窮状を訴えて支援を取り付けました。
そのうえで帰国後したコシューシコは支持者を組織してクラクフで蜂起。一時的にロシア軍を破ったものの、約束したフランスからの支援がやってくることなくプロイセンと組んだロシア軍によって鎮圧されました。
第三回ポーランド分割(1795年)
コシューシコの蜂起に対してエカチェリーナ2世主導の下、プロイセン・オーストリアに対して完全に分割することを提案。スタニスワフの退位を迫り、実際にポーランドの残りの領土を三か国で分けました。
この出来事でポーランドは1世紀以上にわたって完全に地図から姿を消しますが、コシューシコの蜂起は後のポーランド独立への布石となっていくのです。
なお、実際にポーランドが独立を果たすのは第一次世界大戦後の1918年となります。