ポーランド分割に至るまでの背景を詳しく解説<ポーランド・ロシア・プロイセン>
ポーランドは歴史上3度も外国に分割されたことで知られています。
分割された一因に北方戦争の参加と戦争による国土を蹂躙も挙げられますが、実はそれだけでもありません。北方戦争以前から衰退の兆しが見え始めていました。
ここでは分割される前のポーランドがどういう国だったのか、どのように衰退したのか、どんな国が分割をしたのかまとめていきます。
分割前のポーランドはどんな国だったのか
14世紀に王朝の断絶とドイツ騎士団の東方進出への危機感を機にポーランド王国とリトアニア大公国は王族の婚姻関係を結び、新たにヤギェウォ朝が成立。
※ドイツ騎士団の東方進出については『シュタウフェン朝の断絶~跳躍選挙の時代』の記事で触れています。
そのヤギェウォ朝の最期の王ジグムント2世には三度の結婚でも子が出来ず、断絶すると選挙王制に変わります。こうして1569年からはポーランド・リトアニア共和国となりました。
この王制の下ではヤン3世ソビェスキのような強力な国王が登場することもありましたが、基本的には貴族同士の対立を抑えきれないほど君主の権力が厳しく制限された体制です。
しかも、選挙王制では賄賂を贈って選挙に介入することも可能だったため近隣の大国の干渉を招きます。
1683年にあった第二次ウィーン包囲でオスマン帝国軍を破り英雄となったのがヤン3世ソビェスキです。
さらに大北方戦争以前から
- 17世紀半ば頃~の大国化したスウェーデンによる侵入
- ポーランド・リトアニア共和国支配下のウクライナにいたコサックたちによる武装蜂起(フメリニツキーの乱)
- ↑がきっかけとなったロシア・ポーランド戦争
といった数々の戦争も起こり国土が荒廃していきます。
このポーランドの荒廃した時代は、周辺諸国が次々となだれ込む様子を洪水に例えて大洪水時代と呼ばれます。
そんな状況の中で北方戦争(1700~21年)が発生。スウェーデンに侵攻され国土が荒廃したのに加え、親ロシア派国王が追放され親スウェーデン派が国王に即位しました。
ポーランドとスウェーデンが不仲になったのは宗教的な問題も絡んでいます。ポーランドはカトリック、スウェーデンはプロテスタント。
しかも、その後、戦争でスウェーデンが敗れたわけで議会はもうめちゃくちゃです。1733年にはポーランド王位を巡って、ロシア・フランス・スペインなどが参加するポーランド継承戦争(1733-35年)が勃発し、スウェーデン派の王は退いています。
プロイセンの台頭
ヨーロッパの北東部で北方戦争が起こっているころ、西側ではスペイン継承戦争(1701~13年)で多くの国が戦っていました。その過程でプロイセン王国が成立します。
そのプロイセンは北方戦争の時点では小国にすぎませんでしたが、その後のオーストリア継承戦争(1740~48年)と七年戦争(1756~63年)で地位を高めていきました。
このプロイセンを飛躍的に強くしたのがフリードリヒ2世です。プロイセンはロシア・オーストリア・イギリス・フランスとともに五大国の仲間入りをしています。
そんなフリードリヒ2世は女性陣には嫌われていましたが、近隣の国王たちには崇拝の目で見られています。フリードリヒ2世と長く争ったマリア=テレジアの息子ヨーゼフ2世やロシアのツァーリピョートル3世がその代表でした。
ロシアの啓蒙専制君主エカチェリーナ2世の即位
ロシアはプロイセンの敵対勢力として七年戦争に参戦し、プロイセン王フリードリヒ2世を追い詰めていたにも関わらず、彼を崇拝していたために講和条約を結んだピョートル3世(前女帝が戦争中に亡くなり代替わりした)。それだけでなく、プロイセンとロシアは講和条約を拡張して露普同盟(1764年)を結び、互いの領土の安定を守る約束をしています。
ところが上記のような彼のドイツ贔屓はロシア国内でよく思われていませんでした。
逆に彼の妻エカチェリーナは神聖ローマ北東部出身ですが、ロシア語を勉強し常にロシア人であろうと努力し続け貴族たちから強く支持されています。
そこで彼女を旗頭にピョートル3世に対するクーデターを起こし、エカチェリーナ2世として即位。ピョートル1世の事業を受け継いでロシアを強大化させようと動いていきました。南下政策も本格的に始まることになっています。
ちなみに彼女は政治面だけでなく、それ以外でも精力的。愛人が10人以上いて、父親の違う子供を何人も出産しています。この愛人の一人がポーランド貴族だったスタニスワフ。
色んな支援をして愛人のスタニスワフをポーランド王位につけることに成功させ、ポーランド内でのロシアの影響力を強めることに成功させています。
ポーランド分割は(ほかの国も介入してはいますが)主にこの二か国とオーストリアを中心に進んでいくのです。