ヨーロッパ

マリア・テレジアはどんな人?彼女の歩んだ波乱の人生とその後のオーストリアを解説

歴ブロ
マリア・テレジア
マリア・テレジア

<生年>1717~1780年
<在位>

  • オーストリア女大公:1740~1780年
  • ハンガリー女王:同上
  • ボヘミア女王:1740~1741年、1743~1780年

オーストリア大公マリア・テレジアは長い歴史の中でも女傑の代表とも言える存在です。自身の才覚で先行き不透明な世界情勢の中、16人もの子供を産んだ母親でありながら一つの大国を守り続けました。

今回はそんなマリア・テレジアの生きた波乱の人生に迫っていきたいと思います。

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生い立ち

少女時代のマリア・テレジア

1717年、マリア・テレジアは神聖ローマ帝国皇帝カール6世とエリザベート・クリスティーネの長女として誕生しました。

古くから男系男子の相続を行ってきたハプスブルク家でしたが、マリア・テレジアには兄弟がおらず、父のカール6世はマリア・テレジアを後継者に指名するため根回しなど奔走しました。

同時に最後まで男児の誕生を諦めきれず、マリア・テレジアには帝王学などは学ばせなかったようです。

オーストリア継承戦争
オーストリア継承戦争

一方、プライベートでのマリア・テレジアは子どもの頃に運命的な出会いを果たします。

彼女はハプスブルク家のお姫様ですから普通なら政略結婚です。実際にプロイセンの王太子フリードリヒ(後にライバルとなるフリードリヒ2世)やバイエルンとの縁組が候補に挙がっていました。

中でも最も有力となったのが、第二次ウィーン包囲オスマン帝国を打ち破った英雄の末裔のロレーヌ公の息子クレメンスですが、マリア・テレジアが6歳の頃にそのクレメンスの一つ下の弟フランツに恋をしたと言います。

れきぶろ
れきぶろ

憧れのお兄さんだったそうで、女官にもフランツのことをよく話していたと記録が残っています。

結局、クレメンスは天然痘で亡くなったこと、もともとロレーヌ公の息子と結婚を考えていたこともあって1736年、初恋を実らせ結婚しました。

※当時のことを考えると、かなり珍しい恋愛結婚です。

カール6世の死後、一時的に神聖ローマ皇帝位がハプスブルク家から非ハプスブルク家の家系出身のカール7世に移りましたが、カール7世はオーストリア継承戦争でマリア・テレジアの反撃を受けて失意の中で死去。その後の神聖ローマ皇帝はマリア・テレジアの夫がフランツ1世として即位しました。

ハプスブルク家は割と家族仲が良い場合が多いですが(例外あり)、マリア・テレジアも同様でした。父カール6世が後継者争いに悩んでいたこともあり、できる限り子供を産もうと考えて実際に16人も出産しています。

マリア・テレジアはオーストリア大公位に加えて、(本人は神聖ローマ帝国の皇帝になれなかったとはいえ)夫が皇帝になった後は事実上の女帝として実権を握っており、そうした政治活動の裏で妊娠出産を毎年のように繰り返していました。

16人の中には後の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世レオポルト2世、フランス国王ルイ16世の王妃となったマリー・アントワネットもマリア・テレジアの子供たちです。

プロイセンとの因縁対決

婚約者候補になっていたフリードリヒがプロイセン王フリードリヒ2世となると、彼はハプスブルク家の後継者が女性となったのを舐めてかかって「後継者として認める代わりにシュレジエン寄こせ(意訳)」と侵攻してオーストリア継承戦争が勃発すると、シュレジエンを奪いました。

フリードリヒ2世
フリードリヒ2世

シュレジエンはオーストリアの中でも非常に豊かで人口も多い地域です。シュレジエンを手に入れたことでプロイセンが抱えていた人口約250万人は約400万人まで膨れ上がりました。

この事態を危惧したマリア・テレジアは外交革命で長年の宿敵フランスのブルボン家と手を結びます。さらにロシアとも同盟を結び、プロイセンを孤立化させました。この時、ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人やロシアの女帝エリザヴェータが賛同したそうです。

フリードリヒ2世は少々女性蔑視の節があったそうで、日々のそうした毒舌が原因でポンパドゥール夫人からもエリザヴェータからも嫌われていたと言われています。

れきぶろ
れきぶろ

マリア・テレジアのことを『教皇の魔女』、エリザヴェータを『北方の山猫』、母親が魚売りだったポンパドゥール夫人を『マドモアゼル・ポアソン(魚)』と呼んで軽蔑しまくっています。

そんなことから女性陣はフリードリヒ2世をかなり嫌っていたようです。

女性3人が手を組んだことから「三枚のペチコート」とか「ペチコート同盟」なんて呼ばれ方をすることも。

※ペチコートとはスカートの下の下着のようなもののことですが、3人が同盟を結んだ18世紀のペチコートは見られる前提のアンダーウェアとしての役割もあったようです。

追い込まれたフリードリヒ2世は、当時フランスと植民地をめぐって断続的に第二次百年戦争に入っていたイギリスと手を結んだうえで形勢逆転を狙い、プロイセンからオーストリアに侵攻しました。七年戦争の勃発です。

オーストリアは多くの戦いで勝利しフリードリヒ2世を自殺寸前まで追い込みますが、ロシアでエリザヴェータが亡くなりフリードリヒ2世に心酔していたピョートル3世が即位したことでプロイセンとロシアが講和。

ここから巻き返され、マリア・テレジアは1763年、最終的にシュレジエンのプロイセン領有を認めるしかなくなりました。同時に息子のヨーゼフの神聖ローマ皇帝位を確約させることに成功させています。

その二年度の1765年、夫で神聖ローマ皇帝のフランツ1世が亡くなるとヨーゼフがヨーゼフ2世として即位。マリア・テレジアは生涯喪服だけをまとって暮らしたそうです。

マリア・テレジアと子供たち

マリア・テレジアは16人の子のうち成人前に6人を亡くしていますが、多忙な政務の間を見ながら(一日に30分なんて話も…)子供たちとの時間も作っていました。

兄弟姉妹の間で贔屓したりもしてますが、そこらへんは夫であるフランツ1世が冷たくされてた子をフォローしていたようです。

れきぶろ
れきぶろ

フランツ1世は亡くなった際、妻のマリア・テレジアだけでなく多くの人にその死を悼まれたと言いますが、子供との逸話からも人柄が伺えますね。

ヨーゼフ2世

夫フランツ1世は神聖ローマ皇帝であったとはいえ、政治の主導権はマリア・テレジアが握っていました。ところが、息子のヨーゼフ2世は啓蒙思想の影響を強く受けたうえに、よりにもよってフリードリヒ2世を崇拝。母と対立しました。

啓蒙思想とは?

18世紀にフランスを中心とした西ヨーロッパでおこった思想で、中世的な…キリスト教的な思想や慣習を批判し近代的・合理的な世界観を持って人間性の解放を目指そうという思想です。

マリア・テレジアの反対を押し切り、プロイセンやロシアとともに第一回ポーランド分割(1772年)に加わって領土を広げたのもヨーゼフ2世です。宗教面の寛容政策や農奴解放などの上からの近代化政策に努めました。

なお、このヨーゼフ2世は妹のマリー・アントワネットと夫のルイ16世の仲を取り持ったことでも知られています。

マリー・アントワネット

七年戦争以降、プロイセンが国際的地位を高め抑え込む必要性をますます感じるようになったマリア・テレジアは、フランスとの仲をさらに深めようと政略結婚を行います。

末娘のマリア・アントーニア…フランス語読みでマリーアントワネットはフランス王太子のルイ(16世)に嫁ぐことが決まりました。

天真爛漫で優雅な身のこなしができる魅力的な少女と言われながらも、お勉強嫌い、注意力散漫で怠け癖のある性格だったこともあって、娘のフランス入りを最後まで心配します。

出発までの2か月間をマリア・テレジアの部屋で夜を過ごさせ、長らく語り合い、直前には詳細な覚書も持たせて「毎月21日に必ず書きつけを読み返すように」と誓わせました。

そんな心配が的中し、マリー・アントワネットは母の死後フランス革命でギロチンによる処刑で命を落とすことになります(1793年)

女帝マリア・テレジアの最期(1780年)

1780年11月24日。マリア・テレジアは散歩の後に出した高熱から肺炎を発症。ヨーゼフ2世、お気に入りの娘夫妻などに看取られて崩御しました(享年63歳)

「私は最期の日にいたるまで、誰よりも慈悲深い女王であり、かならず正義を守る国母でありたい」

という名言通り、先の見えないヨーロッパ情勢の中で領土を守り抜き国母として国の統治に向き合い続けたのでした。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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