渋沢栄一の一橋家士官時代の功績
徳川幕府の権威が失墜し、諸外国の脅威にさらされる日本を見て危機感を覚えていた渋沢栄一は、攘夷でしか日本を救う手立てはないと、高崎城と横浜の焼き討ちを志士達と計画をしますが、思う所がありあきらめる事になりました。
後に、計画を知った幕府から追われる身となる渋沢栄一と喜作。この逃亡生活の中で、以前から一橋家に仕官しないかと誘っていた平岡円四郎から再び勧誘がありました。
最初の勧誘時は、討ち入りする気満々だったため、答えを保留していましたが、【身を立てて国家のために役に立ちたい】と言う気持ちは変わらなかったので、渋沢栄一・喜作は、一橋家にステージを移し混迷した日本をどうにかしようと奔走する事になりました。
これまで、倒幕を目的として奔走してきた渋沢栄一ですが、今度は立場が逆の幕府側を舞台にするのですが、この一橋家でもその才能をいかんなく発揮しました。
この一連の出来事は、【青天を衝け】でも放送されていましたね。
前置きが長くなりましたが、今回は渋沢栄一の一橋家士官時代の功績を書いてみたいと思います。
御三卿・一橋家に仕官の道のり
渋沢栄一と喜作は、平岡円四郎の誘いを受け幕府を転覆するテロリストから一転して、幕府の中枢を担う一橋家に仕官する事になりました。士官の際、攘夷を貫く喜作とは一悶着あったようですが、【このまま攘夷を貫いても、実利が無い】と説き一橋家に仕官する事を説得しました。
とりあえず、金なし浪人より、一橋家家臣の方が仲間を救いだせる可能性があると言う事で、栄一と喜作は一橋家にお世話になることになりました。
しかも、士官の時に栄一は、条件を付け意見書まで出したそうで、さすが近代経済の父となるだけの人物は一般人とは一味違います。
その気になる条件が、【慶喜公に今の世の中で志ある者を召し抱えて、京都御所を警護する思いがあるならば仕官しても良い】と【直接、慶喜公に拝謁したい】との事でした。さすがの平岡も前例がないと退けるが、なければ仕官しないと栄一も譲らなかったと言います。
栄一達の方が行く当てもなく、拾ってもらう立場であったのに、言う事は言う姿勢と日本を何とかしたい熱意が平岡や慶喜の心を動かしたのかもしれませんね。
一橋(徳川)慶喜公との出会い
【直接、一橋慶喜にお目通りをさせて下さい】と言う渋沢の熱意に平岡円四郎も折れ、慶喜御目通りを調整をしました。そして、日中に馬に乗って遠出する時に並走しながら慶喜と話すことを許されたのでした。これが、第1回放送の【青天を衝け】での冒頭5分の場面ですね。
【青天を衝け】では吉沢亮が演じ、絵になっていましたが、実際の渋沢栄一は肥満体系で背が低い事から、馬と並走する事に不安を持っていたようでした。しかし、やるときはやる栄一は、当日には見事に走りぬき、別の機会に室内での御目通りをかなえてもらえる事になりました。
そこで、渋沢栄一は【幕府を立て直す必要がある】と熱弁すると慶喜は肯定も否定もせず聞いていたと言います。慶喜の感触がいまいちわからないまま御目通りを終えた栄一ですが、新人でありながら、一橋家のトップに顔を覚えてもらう事には成功したと言えます。
一橋家士官後の渋沢栄一
晴れて一橋家に仕官した渋沢栄一は、出入口の番人や外部との連絡役などの事務仕事をこなしていきます。そんな折、平岡から一橋家の人材採用を任されるようになります。この任務では、渋沢の故郷を中心に、俸禄は少なくても一橋家なら奉公したいと言う約50人を採用する事に成功しています。
栄一は、この時の事を【世に立ち、大いに活動せんとする人は、資本を作るよりも、まず信用の厚い人たるべく心がけなければいけない】と語っています。まさに、一橋家において、渋沢栄一は、信用の厚い人となるべく心がけたようです。
一橋家の軍備増強を図るが…
あたえられた任務を遂行するだけではなく、物事の問題を見抜き、持ち前の提案力で対策を講じ結果を出しています。
【青天を衝け】でもあったように、京都を警護するには軍備が足りなく、領地から農民を集めて歩兵隊を編成することを提案します。そこでも栄一は、募集の意図をシッカリと領民に理解させて【この応募は完全に領民の義務である】と、自ら進んで応募してくるようにしました。
自身任務の重要性と募集の意図を領民たちに丁寧に説明した栄一は、450人以上の志願兵を集める事に成功しています。
一橋家【勘定組頭】に就任し手腕を発揮
これだけでも見事な結果ですが、渋沢栄一は、【軍事の仕事は自分には合わない】と考えて他の仕事を思いめぐらせていました。自分に任せてほしい仕事があれば、先に提案して仕事をしてきた栄一は、今回も慶喜に嘆願して仕事をもらう事にしました。
その仕事とは、少なかった一橋家の領地でも儲けのしくみを作り、収入を多くする事でした。そこで、栄一が提案したのが【米の売り方の改善】【備中に硝石製造所の建設】【播州の木綿を売り出す仕組み作り】の3本柱を慶喜に提案しました。
慶喜や重臣たちの賛同を得ると栄一は、財政や会計を担当する【勘定組頭※】に任命され、一橋家の財政政策を始めます。
※勘定組頭とは勘定所の役人で、幕府では奉行を筆頭とし一般的に勘定組頭→勘定→支配勘定と言う序列とされていました。一橋家内で規模は分かりませんが、渋沢栄一は奉行に次に勘定所内で地位があったのではないかと思われます。
幕府での勘定組頭は、米100俵ほどの給金のようで、現代価値でいうと200万円~250万円程で、当時の江戸庶民の2年分の生活費相当に当たるようです。
渋沢栄一の一橋家財政改革
渋沢栄一は、すぐに財政改革を実施。
まずは、米を商人に販売を任せるのではなく、酒造業者に酒米を販売したところ、相場より高く買ってもらえる事になり、米の売り先を変更しました。
また、備中は火薬の原料である硝石が豊富に取れる事から、硝石製造所を開設します。
硝石は硝酸カリウムの事で、天然に産出する形態が硝石となります。染料や肥料などの窒素が必要な製品原料として、また黒色火薬の製造に必須の火薬材料として使われ、特に幕末の混乱期に需要が高まっていました。
この硝石のニーズをいち早く感じ取っていた栄一は、領内でとれる硝石に目をつけて販売にこぎつけました。
最後は商人渋沢の真骨頂。播磨で多く産出される白木綿を名物として、大坂への販売ルートを新規に開拓する事に成功しました。その過程で、一橋家の【藩札※】を発行して販売に活用し、木綿販売の活性化に一役買っています。
※一橋家は藩ではないが便宜上【藩札】と書きます。ドラマでは【銀札】と言ってましたね。
藩札は、以前お金の歴史の記事で少し触れたので、良かったら参考に…
当時の多くの藩で藩札が発行されていましたが、【他藩では使えない、交換しずらい、面額通りに換金できない】の問題があり、信用がありませんでした。そこで栄一は藩札の引換元金が不十分であるのを是正し運用する事で、弊害も起こさず便利に使えるようにしました。
藩札の発行は、播磨国に会所を設置し、周辺の領地で生産される木綿反物を藩札で買い上げ、大坂の問屋に送りました。送った反物は、問屋が売り捌き、その代金が大坂の会所の出張所に納められます。
播磨の生産者たちは、地元の会所で売り上げに応じた藩札を発行してもらい、後に現金に換える仕組みになっていました。売り上げた資金は、あらかじめ地元と大阪に分け、大坂の資金を一橋家ご用達商人に預けておくことで利息が発生し、その余剰資金で商品を回し財政を潤しました。
この藩札の発行高が3万両を超え、木綿の売買が順調に流れ始めた頃、栄一は京に呼び戻されて職を離れましたが、この事業は続けられました。
徳川慶喜が将軍に就任
こうして一橋家に仕えて3年で、上記の財政政策を実行し結果を出しました。
渋沢栄一本人も【自分が一橋家のためにできる事は、この分野だ!!】と確認してたのは、大河ドラマで見た人も多い事でしょう。しかし、いくら一橋家が財政的に潤っても、幕末の動乱は待ってはくれませんでした。
このタイミングで、14代将軍・家茂が死去し、15代将軍に徳川慶喜が就任したのです。
徳川慶喜将軍就任により渋沢栄一は、一橋家ではなく幕臣にとステップアップしたのですが、御目見えも叶わぬ下っ端役人です。これまで慶喜と直に仕事をしていた栄一にとっては、まったくやりきれない事件でした。
まして、この一年~二年位で徳川幕府はつぶれるに違いないと思っていたようで、このまま亡国の臣になるんだろうと考えていました。
そんな抜け殻のような日々を送っていた渋沢栄一の下に【パリで行われる万博博覧会】に随行しないか?と誘いを受けます。
なんとこの推薦は、ほかならぬ徳川慶喜で、このまま幕臣で埋もれるくらいなら、フランスへ行き新たな道が開けるかもしれないと快諾し、渋沢栄一はパリへと旅立っていきました。