引きこもりから大老職へ…実は攘夷論者だった【茶歌ポン】井伊直弼
これまで井伊直弼は、善悪両極端に評価されていました。
一般的には、強権的な政治手腕で反対派を弾圧してきた悪代官のイメージが強くそのため暗殺されたと言う認識は私だけではないはずです。
一方で、井伊直弼のお膝元である彦根では鎖国をしていた日本を開国に導いた偉人と高い評価を受けています。
この両極端な評価は、直弼の死後の日本の歴史に関係あると考えられます。直弼と対立していた勢力が政権を掌握し、江戸幕府を倒した明治新政府によって近代国家が作られたために直弼の政治手腕が批判の対象となったのでは…?ということです。
歴史は時の権力者に書き換えられるのは周知の事実ですが、井伊直弼も例外ではなかったのです。
井伊直弼が関わった【安政の大獄】や【桜田門外の変】は戊午の密勅の結果として起こったにも関わらず、その因果関係を十分に説明せずに【反対派を弾圧した結果】と説明されてきました。
こういった歴史認識に反発したのが、地元彦根の人々で、1909年に開国50周年を機に直弼を【開国の恩人】として評価し日本の近代化を後押したと人物をするように求めたました。
私たちが一般的に認識している、井伊直弼像は、近代社会の政治状況の中で作り出されたもので、彼を客観的な視点で見たものではないかもしれません。
【青天を衝け】にも登場!!茶歌ポン【井伊直弼】
私の見解では「強硬派の高圧的」なイメージがあった井伊直弼でしたが、大河ドラマ・青天を衝けでは、気弱で裏では悩みが絶えなく葛藤する人物が描かれていました。これを見て真相はハッキリしないけど、今までの井伊直弼のイメージがひっくり返りました。
世の中では強硬的に書かれているけど、「もっと井伊直弼側に立って調べてみれば大河ドラマのようにイメージが変わるかもしれない」という事で、チョット井伊直弼寄りに記事を書いてみようと考えました。
少し偏った記事になるかもしれませんが、井伊直弼も彼なりに日本の事を考えて政治をしていたんだなと分かってもらえれば幸いです。
譜代大名家筆頭・井伊家の歴史
江戸時代を通じて井伊家は、彦根藩主として近江東部を中心に治めていた大名家で、その所領は約30万石あり譜代大名の中では筆頭の家柄でした。
そのもそのはず。彦根の初代藩主は徳川家康の筆頭家老とも言うべき井伊直政です。
井伊家は江戸時代通して初代・直政~14代直憲まで一度も国替え、取り潰しがなく彦根を治め、時代の節目には大老職を勤め上げ徳川政権を支えていきました。
1632年に二代将軍・秀忠は、臨終直前に井伊直孝と松平忠明を呼び3代将軍・家光の政務を後見し幕政に関わるように命じました。
その役割とは、老中らが進める政務を大局的に判断し、将軍の決定を補佐する役目でした。幕府内での役職は特に定められておらず、この将軍の後見的な役職を後に大老と呼ばれるようになります。
江戸時代通して井伊直興、直幸、直亮、直弼と4人が時代の節目に大老職と言った大役を任されていきました。その中でも、井伊直弼は15代目彦根藩主として、江戸幕府の大老として日米修好通商条約を結んだ人物として広く知られています。
井伊直弼の誕生と長野主膳との出会い
直弼は、彦根藩13代藩主・直中の14男として生まれています。
そのため、直弼自身は井伊家を継ぐ立場ではなく、本人も生涯を禅や茶道、国学などの教養を身に着ける事に生涯をささげようと日々過ごしていました。
特に茶の湯に関しては、石州流の一派を創設し、彦根藩主となってからも鍛錬を積んでおり『茶湯一会集』と呼ばれる茶の湯の書も書くほど極めていました。
直弼の茶の湯は、茶の湯に臨む個人の精神を重視したモノで『一期一会』という言葉がそれを象徴しています。『一期一会』は
たとえ何度も同じメンバーで茶会を開いたとしても、この一回の茶会は決して繰り返すことのない会だと思えば、それは『一生一度の茶会であり、真剣な気持ちでおざなりになることなく茶をいただく心構えが必要』だ
と言う心得です。
この時代に出会ったのが、長野主膳。井伊の懐刀と呼ばれる側近でした。
彼らを繋げたのが和歌です。長野の和歌の技巧を聞きつけた直弼が呼び出し、師と仰いだことから始まりました。もともと年が近い事もあり、二人はとても気が合ったと言います。
長野はとても有能な人物で、直弼は彼を通して国学を学び、天皇を中心とした「皇国」を作ることこそが日本に必要であると考えるようになります。
ところが、1846年に14代藩主・井伊直亮の嗣子が死去したため、直亮の養子と言う形で直弼は彦根藩の後継者となりました。以降、次期藩主として江戸に住まい、直亮が彦根にいれば代わって江戸に常駐したり、他の大名家との交流などの活動していきます。
井伊直弼は、藩主就任を機に長野主膳と共に藩政改革を行いました。
この長野主膳の唱えた国学には、
- 幕府を倒して朝廷に政権を返還する【革命論】ではない
- ただし、天皇を中心とした国作りを行わねばならない
- 神意により武家の世が訪れたのであり(徳川幕府の肯定)、その政権は朝廷との合意によって幕府へ委任されたものである。つまり委任された時点で朝廷の意見は幕府と一致するものとしてよい
神意によって武家に政治が託され、朝廷も同意しているから【幕府の意見=朝廷の意見】という思想が根底にあります。
つまり、井伊直弼の中では天皇を疎んじる気は毛頭なく
「朝廷に託されたからには、最善を尽くさねばならない」
と井伊直弼も思っていた事でしょう。
彼の経歴は「皇国を作る」ことに重きを置いてそうな感じですので、朝廷をないがしろにして討幕派を一掃するために安政の大獄を引き起こしたという説とは矛盾しているように思います。
彦根藩主に就任と水戸藩との確執!?
1850年11月21日、井伊直亮の死去を受け家督を継いで藩主となりました。
藩主就任後の直弼は様々な藩政改革を行っています。教育に力を入れていた水戸藩の徳川斉昭と同様に藩校の充実にも力を入れており、地元では【名君】と呼ばれていました。
そんな名君なのに何故水戸藩との確執が起こったのでしょうか?その答えは彦根藩の特殊な産業にありそうです。
彦根藩では武具作りが盛んで甲冑に用いる牛革を取るために、唯一幕府から牛を捌くことを許されている藩でした。江戸時代、まだ肉食が解禁されていませんでしたが、牛を捌く過程で出た牛肉を味噌漬けにして幕府や諸大名家への挨拶に送る習慣があったのです。
ところが、井伊直弼の藩政改革の一環として1850年に牛の殺生を禁止し、牛肉の味噌漬けを贈るのを辞めてしまいました。その背景には、直弼が熱心な仏教徒だった事が考えられています。
その中で毎年のように牛肉を受け取っていた諸大名の中でガッカリしたのが水戸藩の徳川斉昭でした。安政の大獄と桜田門外の変での両藩の確執は歴史通りですが、それ以前に彦根藩と水戸藩では牛肉に関わる深い確執があるとかないとか…
水戸藩主・徳川斉昭は大の牛肉好きで、彦根藩から牛肉が届かない事にやきもきしていました。水戸藩党争始末にも斉昭が井伊家へ使いを送り、牛肉を催促したエピソードが記されています。
その催促の使いは一回だけではなく斉昭は何度もしつこく交渉したそうです。
御三家の水戸藩からの頼みとあれば忖度で何とかすると思いきや、国の決まりとして禁止しているの一点張りで送らなかったと言います。斉昭の牛肉への情熱にも頭が下がるが、一度決めたことを覆さない直弼の頑固さも記されている場面です。
これだけ頼んでも応じない直弼に対して、斉昭は相当恨み激怒したと言われています。
後述しますが、桜田門外の変による元藩士たちの襲撃は、本人も幕府側も察知していたと言います。当然、水戸藩主・斉昭も知っていて当然でしょう。
これだけ頼んでも応じない直弼のことを、斉昭はたいそう不快に思った事からあえてみて見ぬふりをしていたかもしれませんね。あの時、井伊直弼が斉昭に牛肉を送っていれば、元家臣達の暴走を止めたかもしれませんはタラレバの話です。
ちなみに、息子である徳川慶喜も豚肉をこよなく愛し、「豚一殿(ぶたいちさま)」と呼ばれていました。父・斉昭と同じように、豚の産地である薩摩藩の家老、小松帯刀に豚肉をしつこく所望していたと言うから血は争えませんね。
井伊直弼の大老就任
ペリーの開国要求に幕府は対応を検討するため、従来幕政に関わっていなかった外様・親藩大名などにも意見を求めることにしましたが、以降彼らが幕政にも口を出すようになりました。
特に御三家の水戸藩主・徳川斉昭や一門の越前藩主・松平慶永、外様大名の島津斉彬などが一橋慶喜を時期将軍とするために朝廷に働きかけも行っています。
この頃になると朝廷の意向が政治に反映されるようになります。1858年に老中・堀田正睦が通商条約の許可を求めますが、孝明天皇は保留。これまでの朝廷は幕府の意向に沿って許可をするのが常であり、通商条約の時のような許可を求められての保留は前例のない話でした。
そこで老中・堀田は、この非常事態を乗り切るために「松平慶永を大老に据えて乗り越えよう」と将軍に進言。しかし、堀田の進言に対して将軍・家定は「家柄などを考えると大老職は井伊しかおるまい…」と伝えています。
このような経緯で大老・井伊直弼が誕生したのです。
能力的には松平慶永の方が適任だと思わるかもしれませんが【幕政は将軍の家臣である譜代大名・幕臣が担う】という幕府の根本原理を理解した的確な判断だったと思います。
大老に就任した井伊直弼は次期将軍と条約調印の件についての方針を決める事にしました。この時点で決まっていたのは
- 時期将軍には紀州徳川家の慶福に決定
- 条約調印は諸大名の意見をまとめてから天皇に許可を得る
という部分だけでした。
しかし、6月に中国大陸でのイギリスとフランスのアロー戦争が休戦となったという情報を得たアメリカ総領事ハリスは「まもなく日本にイギリスとフランスが攻めてくる」と勧告して日米間の即時条約締結を迫ります。
6月18日に幕閣が江戸城内に集まり協議をしたところ即時調印を訴えた幕閣もいましたが、井伊直弼は天皇への説明が終わるまで調印を引き延ばすという方針を決定。その方針が大前提にあっても万が一ということもある。外交官・岩瀬忠震・井上清直は「万が一の場合は調印しても良いか?」と直弼に尋ねると直弼は「その場合は仕方あるまい」と回答しています。
最終的に、この交渉では岩瀬らがハリスの元へ向かったその日のうちに調印となりました。この経緯の裏にはハリスによる脅しがあったのではないかと一般的には言われています。
要するに、この条約調印劇は井伊直弼の独断ではなく「最後まで天皇の勅命を受けてから条約締結をする」方針を取りながらも、万が一があれば「天皇の勅命なしで条約締結もやむなし」との考えがある中で結ばれたものだったと言えそうなのです。
先述したように、長野主膳から国学を学んだ井伊直弼は決して朝廷を軽んじていたわけではありません。朝廷から幕府が政治を任されている以上「幕府の決定は朝廷の意志であり、独断であってもそれは総意だ」と考えていたのではないかと思われます。
戊午の密勅と桜田門外の変
次期将軍に慶福に決定し公にする予定が決まるころ、一橋慶喜を次期将軍に推したい徳川斉昭ら一橋派は公表を阻止すべく暗躍していました。
幕府が天皇の勅許を受ける前の条約調印は、当事者でない外部から見れば大老・井伊直弼が天皇の意向を無視したのと同じこと。一橋派にとってはこの上ない良い追及材料でした。
そんな一橋派の追求もむなしく次期将軍に慶福に決定し公表されたことから、次の一手として一橋派は開国反対派の天皇と結び行動するように。
8月8日には孝明天皇の勅命で幕府に対し政治運営を批判する文書【戊午の密勅】が出されています。さらに、この文章を諸藩に伝えるよう水戸藩に勅命が出されました。
天皇が一大名に勅命を出すのは当時の社会体制を根幹から揺るがす大事件であり、幕府は勅命に関わった人間を調べ上げ処罰していきます。この捜査中で武力によるクーデター計画が露見する事になり幕府はその関係者たちを厳しく処罰する事になったのです。
これが安政の大獄※となります。
※井伊直弼を調べてみると以前書いた安政の大獄の記事がこの記事と矛盾が生じてきたので、時間を見つけて書き直したいと思います。それまで古い記事のままですがご了承ください。
その後幕府側は、水戸藩に渡った戊午の密勅を返納させようと画策。これに反対する水戸藩内の過激派が集結して、井伊直弼を暗殺し幕政を改革しようと脱藩をし江戸へ向かいました。
1830年3月3日の運命の日、江戸城に諸大名が登城し上巳の節句の祝儀が行われる事になります。直弼側には、襲撃の情報が入っていたのですが大老が登城しないわけは行かないと言う事で予定通り江戸城へ向かい、水戸脱藩者17名と薩摩脱藩者1名に襲撃されることになるのです。
その後の彦根藩
井伊直弼が亡くなった2年後の1862年、幕府内では大きな政変が起き、一橋派が幕政を担う事になりました。
結果、井伊直弼が行った条約調印や安政の大獄を批判し、その罪を井伊直弼と彦根藩に追わせることになり、10万石の領地が召し上げられます。
彦根藩では召し上げられた10万石と井伊直弼の汚名を返上する事を最大の課題とし、大阪湾の整備、大和の天誅組鎮圧、禁門の変、長州戦争等で幕府のために働きました。
そんな中で1867年に徳川慶喜が大政奉還を行い、再び政治の中枢に徳川家が入り込もうと画策したのですが、王政復古の大号令を発した新政府は慶喜を排除しようと対立していきます。
ここで彦根藩は「どちらに味方するか」迫られますが、近年の仕打ちを考えると井伊直弼の名誉回復するには勤皇だと考え、新政府側に付くことを決めました。新政府側に付いた彦根藩は戊辰戦争で活躍を見せた他、彦根兵士が流山で新選組の近藤勇を捕らえるなど随所で存在感を見せています。