スペインの王政はなぜ崩壊したのか?王政復古から第二共和政成立まで
1874年、スペインではアルフォンソ12世のもとでブルボン朝の王政が復活しました。
19世紀を通じて政治的な混乱が続いていたスペインは、保守党と自由党が交代で政権を担当する仕組みを整え、一定の安定を取り戻します。
しかし、その後は米西戦争での敗北や社会運動の拡大、軍事独裁などを経て、1931年には王政が崩壊し、第二共和政が成立しました。
では、政治の安定を目指して成立した王政復古体制は、なぜ半世紀余りで崩壊することになったのでしょうか。
今回は、1874年の王政復古から1931年の第二共和政成立まで、スペインの政治がどのように変化していったのか解説していきます。
王政復古とカノバス体制(1874~1898年)
19世紀のスペインでは、王位継承をめぐる争いや軍事クーデターが繰り返され、政治的な混乱が続いていました。
こうした状況のなか、1874年にブルボン朝の王政が復活し、政治の安定を目指した新たな体制が整えられていきます。
まずは、王政復古に至るまでの経緯から見ていきましょう。
カルリスタ戦争と王政復古(1833~1876年)
1833年、スペイン国王フェルナンド7世が死去すると、娘のイサベル2世が王位を継承しました。
しかし、これに反発した国王の弟カルロスを支持する勢力との間で、カルリスタ戦争が勃発します。この争いは、王位継承問題だけでなく、自由主義勢力と伝統的な王政を支持する勢力の対立とも結びついていました。
その後も政治的な混乱が続き、1868年の革命によってイサベル2世は国外へ亡命。1873年には第一共和政が成立しましたが、共和政も安定しませんでした。
こうしたなか、1874年12月、マルティネス=カンポス将軍がイサベル2世の息子アルフォンソ12世を国王に擁立し、ブルボン朝の王政が復活します。
しかし、このときもカルリスタ勢力との戦争は続いており、第三次カルリスタ戦争が終結するのは1876年のことでした。
カノバス体制と二大政党制(1876~1898年)
王政復古にあたって新しい政治体制の整備を主導したのが、政治家アントニオ・カノバス・デル・カスティリョでした。
カノバスの主導で1876年に新憲法が制定され、国王と議会が立法権を共有する立憲君主制を整えます。さらに、保守党と自由党が交代で政権を担当する仕組みを成立させました。
これは、軍事クーデターによる政権交代を防ぎ、政治を安定させることを目的としたものでした。
19世紀のスペインでは、軍人が政治に介入することが珍しくありませんでした。カノバスはこうした軍事介入を抑え、政党間で政権を交代させる仕組みを整えようとしたのです。
ですが、20世紀には再び軍人が政治の中心に立つことになります。
しかし、この政権交代は、選挙の結果によって決まるものではありませんでした。
国王が新しい首相を任命すると、政府は議会を解散して選挙を実施。その際、地方の有力者などを通じて有権者に圧力をかけたり、票を操作したりして、与党が勝利するように調整していたのです。
こうした選挙操作は王政復古体制を支える一方で、公正な政治参加を妨げる要因にもなりました。
1890年には25歳以上の男性に普通選挙権が認められましたが、選挙への介入は続きました。
王政復古によって一定の政治的安定が実現したものの、その体制は次第にさまざまな問題を抱えることになります。
米西戦争と王政復古体制の動揺(1898年)
19世紀末のスペインは、かつて広大な植民地帝国を築いたものの、アメリカ大陸の植民地の大部分を失い、キューバやフィリピンなどを残すのみとなっていました。
そんななか、1895年にキューバで独立運動が再び本格化します。スペイン政府は軍隊を派遣して鎮圧を試みましたが、キューバへの関心を強めていたアメリカも介入するようになりました。
そして1898年、アメリカとスペインの間で米西戦争が勃発します。
スペインはアメリカ軍に敗北し、同年12月のパリ条約によってキューバの領有権を放棄。さらに、プエルトリコ・フィリピン・グアム島をアメリカへ割譲しました。
この敗戦はスペイン国内に大きな衝撃を与え、「1898年の惨事」と呼ばれるようになります。
植民地を失ったことで、スペインの国力や政治のあり方を見直そうとする動きが強まりました。特に、政治家や知識人の間では、選挙操作が続く王政復古体制への批判や、教育・経済などの改革を求める声が高まります。
しかし、米西戦争に敗北しても王政復古体制そのものは崩壊せず、保守党と自由党による議会政治は続きました。
一方、国内では政治改革を求める動きに加え、労働運動や地域主義も広がっていくことになります。
アルフォンソ13世と政治・社会の混乱(1902~1923年)
1902年、アルフォンソ13世が親政を開始しました。
しかし、米西戦争後も続いていた王政復古体制は、労働運動の拡大や地方での自治要求など、新たな政治的・社会的問題に直面していました。
さらに、モロッコへの軍事介入も国内の不満を高めることになります。
労働運動の拡大と第一次世界大戦
20世紀初頭のスペインでは、工業化が進むバルセロナなどで労働運動が活発になり、社会主義者や無政府主義者による運動も広がっていました。
また、カタルーニャやバスク地方では、独自の言語や文化を背景に、自治の拡大を求める地域主義も強まります。
一方、スペインは米西戦争で植民地を失った後、北アフリカのモロッコへの進出を強めていました。その背景には、植民地の喪失によって低下した国際的な地位を回復しようとする動きや、他のヨーロッパ諸国によるアフリカ分割の影響がありました。
しかし、モロッコでの軍事行動には国内でも反対の声があがります。
1909年にスペイン政府がモロッコへの増援部隊として予備役の兵士を召集すると、バルセロナで大規模な抗議運動が発生。当時は裕福な人々が金銭を支払って兵役を免れることができたため、貧しい労働者たちに負担が集中することへの不満が強まっていたのです。
抗議運動はストライキや暴動へと発展し、政府が軍隊を投入して鎮圧する事態となりました。この事件は「悲劇の一週間」と呼ばれ、政府への批判を強めることになります。
さらに、1914年に第一次世界大戦が勃発しました。スペインは中立を維持し、交戦国向けの輸出が増えたことで産業の一部は成長するも国内では物価が上昇。賃金の上昇が物価に追いつかず、労働者の生活は苦しくなり、ストライキも増加しました。
1917年の政治危機とモロッコでの敗北
1917年には、スペイン国内で複数の政治的・社会的な問題が表面化します。
軍人たちは待遇改善を求めて組織を結成し、政府に圧力をかけました。また、カタルーニャの政治家らは議会制度の改革を要求し、労働組合は全国的なゼネストを実施しました。
政府は軍隊を使ってストライキを鎮圧しましたが、軍部、政治家、労働者のそれぞれが政府への不満を抱える状況となります。
一方、保守党と自由党も内部分裂が進み、これまでの二大政党による安定した政権交代は難しくなっていました。
さらに1921年、モロッコ北部のアンワールでスペイン軍が現地の抵抗勢力に大敗します。
このアンワールの惨敗によって多くの兵士が犠牲となり、政府や軍の責任を追及する声が高まりました。
こうして、政治の不安定化や社会的対立、軍事的な失敗が重なり、王政復古体制は深刻な危機に直面することになります。
そして1923年、こうした混乱を背景に、プリモ=デ=リベーラ将軍がクーデターを起こしました。
プリモ=デ=リベーラの軍事独裁(1923~1930年)
クーデターを起こされたはずの国王アルフォンソ13世は、ここで意外な行動に出ています。
なんとクーデターを阻止せず、プリモ=デ=リベーラを政府の指導者に任命。保守党と自由党による政権交代を基本とした王政復古体制は事実上終わり、軍事独裁が始まることとなりました。
スペイン国王アルフォンソ13世(左)と、軍事独裁を行ったプリモ=デ=リベーラ将軍(右)。
プリモ=デ=リベーラは議会を解散し、憲法上の権利を停止。言論への統制を強め、労働運動や地域主義運動などを制限しました。
一方で、独裁政権は道路や鉄道などの公共事業を推進し、経済の発展を図ります。さらに、1925年にはフランス軍と協力してモロッコの反乱勢力に大きな打撃を与え、1927年にはモロッコでの戦闘をほぼ終結させました。
こうした成果もあり、独裁政権は当初、一定の支持を獲得。
プリモ=デ=リベーラは当初の暫定的な軍事政権を長期化させ、1925年末には民間人も参加する政府へと移行していきます。これに対して、政治家や知識人、学生、軍部の一部などから反対が強まっていきました。
さらに、1920年代末には公共事業の拡大に伴う財政問題や通貨の下落が深刻化し、1929年に始まった世界恐慌も経済に影響を与えました。
こうした経済問題に加えて、政治家や軍部の一部からも支持を失い、プリモ=デ=リベーラは1930年1月に辞任しました。
こうして約7年間の軍事独裁は終わりましたが、独裁政権を支持してきたアルフォンソ13世の王政も、国民からの信頼を大きく失うことになります。
王政崩壊と第二共和政の成立(1930~1931年)
1930年1月、プリモ=デ=リベーラが辞任すると、国王アルフォンソ13世は新たにベレンゲル将軍を首相に任命し、議会政治の再建を目指しました。
しかし、長年にわたって選挙操作が続いてきた王政復古体制に加え、国王自身も軍事独裁を支持していたことから、王政に対する不信は強まっていました。
こうしたなか、1930年8月には共和派や地域主義勢力などが集まり、王政の廃止と共和政の樹立を目指すサン=セバスティアン協定が結ばれます。
さらに、王政を支持していた政治家の一部も共和派へ転じ、反王政勢力は次第に拡大していきました。
翌1931年2月にはベレンゲル内閣が退陣し、新たに成立した政府は、政治体制の正常化に向けて地方選挙を実施することになります。
そして4月12日の地方選挙では、首都マドリードやバルセロナなどの主要都市で共和派が勝利しました。
この選挙は地方議会の議員を選ぶものでしたが、実際には王政の存続を問う選挙として受け止められていたのです。
選挙結果を受けて共和政を求める動きが各地に広がると、アルフォンソ13世は王位を正式に放棄しないまま国外へ退去しました。
こうして1931年4月14日、スペインでは第二共和政が成立し、1874年から続いた王政復古の時代は終わりを迎えました。



