第二次世界大戦後の日本の政治史 ①
第二次世界大戦後の日本の政治は、現代まで5つの分類に分けられます。
- 第一期…1945年の戦後アメリカ統治期【1945年~52年】
- 第二期…サンフランシスコ平和条約以降の経済復興期【1953年~60年】
- 第三期…60年安保後の経済成長期【1961年~74年】
- 第四期…沖縄返還後の石油危機からのバブル経済期【1975年~92年】
- 第五期…冷戦後の55年体制の崩壊の混迷期【1993年~】
戦後アメリカ統治期
戦争が終わり、日本が敗戦しアメリカを中心とした連合国軍の支配の下でわが国は、国民主権の民主主義国家として生まれ変わりました。しかし、資本主義のアメリカと社会主義国のソビエト連邦の対立という東西冷戦の構図が占領下の日本に付きまといました。
当時の日本国民の生活は苦しく食料確保が難しく、労働運動も盛んでした。中国革命や朝鮮戦争で激動する東アジアの中で、サンフランシスコ平和条約と日米安保条約を結び、独立を果たしていくことになります。
経済復興期
サンフランシスコ講和条約により、国家として独立を果たした日本でしたが、日米安保条約の基づき米軍基地を国内に残し、沖縄・小笠原は米軍の管理下にありました。
朝鮮戦争特需で復興に軌道がのり、50年代後半には国民生活の向上・消費ブームが起き、各家庭に家電が揃うようになりました。55年に社会党が統一し、自由民主党が結党され【55年体制】と呼ばれる保守・革新対決の構図が定着しました。自民党は、復古的改憲を掲げましたが、戦後民主主義の力に阻止されて、60年安保闘争の対決で頂点を迎えます。
60年安保後の経済成長
1960年代は、日本史上急速な経済成長をした時代でした。
池田内閣の所得倍増計画の下で、日本は世界市場に進出し68年には、西側自由世界第2位のGNPを達成しました。東京オリンピックや大阪万博がバネになり高速交通網や科学技術の発展が加速しました。
マイカーを持つ人も増え、国民の生活は目に見えて充実したのですが、農村部から大量の労働力が都市部に流れ、農業は衰退の一途をたどりました。また、工業地帯では公害が酷く、交通事故や職業病も急増しました。
高学歴化が進み受験戦争という言葉が生まれたのもこの時代でした。
1973年の石油危機で高度成長はストップし、この時期の自民党は農村基盤であったため支持層を減らし、野党が多角化しました。世界ではベトナム戦争が泥沼化しアメリカは戦後世界の絶対的君臨者をやめました。
日米経済摩擦が強まり、沖縄返還交渉に陰りが見え始め、第二次石油危機により日本経済が混迷したのもこの時です。この時の総理大臣・田中角栄はロッキード事件で刑事被告となりますます日本の政治が混迷していきます。
沖縄返還とバブル経済期
石油危機から欧米諸国が立ち直れない中、日本はいち早く回復し70年代後半から80年代にかけて【安定成長】を遂げます。その原動力となったのが、国内企業の減量経営と絵画市場への輸出でした。75年から先進国首脳会議[サミット]が始まりました。
この頃になると自民党も、都市部の中間層の支持も取り込み、経済が安定し保守層も次第に増えていきました。日本の政治も、官僚主導の大きな政府が問題視され、80年代には【小さな政府】を目指し、財政改革・公務員削減・国鉄・電電公社の民営化が進みました。
一人当たりの国民所得もアメリカを抜いたのもこの時代でした。
1985年の【プラザ合意】でのドル安・円高は、一時的に輸出産業に打撃を与えますが、やがて土地投機・株式投機の狂乱【バブル経済】を生み出しました。国際化も加速し、海外で暮らす日本人の増加や外国人労働者の流入も増えました。
また、会社での長時間労働の慣例化により家庭崩壊や過労死が社会問題となり、新しい社会運動と呼ばれる市民運動や勧業運動・女性運動が盛んになりました。
55年体制の崩壊と混迷期
1989年、日本では昭和天皇崩御により平成の時代が訪れた頃、中国北京での天安門事件に続き、東欧社会主義国が次々に民主化し、冷戦構図が崩壊しました。91年にはソ連が崩壊し、フランス革命期に匹敵する激動・再編期に突入しました
日本もやや遅れてその波やってきて、自民党が分裂し政権から離れ1993年に55年体制は崩壊しました。時を同じくし、バブル経済も崩壊し深刻な長期不況に失業・就職難が高くなり、【新しい階層社会・格差拡大】が言われるようになります。
戦後の日本経済をザックリと掴んだところで詳しく書いていきたいと思います。今回はとても長いのでいくつかに分けで記事を書いていきます。
吉田茂と岸信介と自由民主党誕生
戦後占領下での日本は吉田茂内閣でした。
戦中から親米派だった吉田茂は、対米従属で1951年にサンフランシスコ平和条約と日米安保条約を結びました。これは、軽武装のままアメリカに守ってもらう事で、経済復興に集中できると考えたようです。
吉田茂には岸信介というライバルがいました。
岸は、東条内閣で商工大臣を務め戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンに収容されていました。1948年に、不起訴のまま無罪放免となり地元山口県に戻りましたが、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効を機に公職追放解除を受け、政治活動を再開させます。
岸信介は、釈放当初、日本社会党に入党しようとしましたが党内での反発が強く断念し、自由党に入党し衆議院選で当選後に、吉田茂より憲法調査会会長に任ぜられるも、吉田内閣の対米従属に反対し自由党を除名処分されました。
自由党を除名された岸は、鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねてより二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導しました。
1953年、吉田茂は国会の質問者に対し「バカヤロー」と発言した事が問題となり、反吉田派のグループにより内閣不信任案を可決させる運びとなり、吉田は衆議院を解散させました。これが有名なバカヤロー解散です。
総選挙の結果、自由党は少数与党に転落し改進党と閣外協力により第5次吉田内閣が発足するも、鳩山グループとの抗争や汚職によって支持率が低下していきました。
1955年(昭和30年)には分裂していた日本社会党が集結した事により、その対抗勢力として自由党の鳩山一郎と日本民主党の岸信介が合同して自由民主党が誕生し、吉田茂は権力争いの座から落とされました。
以降、自由民主党による55年体制が作られていくことになります。
この時は、鳩山一郎政権の下、岸信介は自民党の初代幹事長として外交に力を入れます。
余談ですが、鳩山一郎と吉田茂はとても仲が悪く、アメリカ中心の吉田に対し鳩山は、日ソ共同宣言に調印しソ連寄りの外交にシフトしました。
岸信介が内閣総理大臣に【1957年~1960年】
鳩山一郎政権後に、岸は自民党総裁選に立候補するが、近差で石橋湛山に敗れたが外務大臣として入閣を果たします。しかし、わずか二か月後に石橋が病に倒れると総理代行として施政方針演説を行いました。
病のため総理の職務を全うできない石橋は、岸を次の総理大臣として指名し1957年に石橋内閣を引き継ぐ形で【居抜き内閣】全閣僚をスライドし第一次岸内閣を発足させました。
内閣発足後岸は日米安保条約に事前協議がなかったり、アメリカに日本防衛義務がないのは不平等条約だと考え、日米安保の改定を最優先に考え、マッカーサーに条約改正と沖縄返還の内密の協議を行いました。
1958年に岸首相は衆議院を解散させて総選挙に打って出て、自民党が287議席を獲得し絶対安定議席を獲得し、第二次岸内閣を発足させます。その後、警察官職務執行法を改正しようとしますが、批判を受け撤回を機に安保改定反対へとつながっていきます。
また、防衛庁を国防省へ昇格させ、1960年には自治省が設立されました。
その他、石橋内閣で閣議決定されていた国民皆保険を確立させ、最低賃金制・国民皆年金などの国民生活向上のための社会保険制度を導入し、高度経済成長の礎を築きました。
岸信介退陣後は、吉田茂路線の池田勇人が総理大臣となりました。
以前から岸と吉田の間では安保改正後には池田に首相をと密約があったとかないとかで、池田内閣が誕生したと言われています。実弟の佐藤栄作首相案があったようですが、岸・吉田の箱根会談で池田勇人になりました。
その後は、経済的豊かさの中、憲法改正を主張する首相が登場しなかったが、岸はもう一度首相になってでも憲法改正を考え続けたと言います。
そう考えると、岸の孫である現・安倍晋三首相の憲法改正のこだわりが分かるような気がします。
佐藤栄作内閣発足と沖縄返還
1964年11月、池田勇人が病気退陣に伴い、佐藤栄作内閣が発足。
1967年には「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を表明し「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦争が終わらない」と声明を発表し沖縄返還に意欲を示しました。
アメリカとの地道な協議の結果、1971年には沖縄返還協定に調印し、72年の在任中に沖縄返還を実現させました。また、日韓基本条約の確定的な同意を取り付け、池田内閣とともに「自民党全盛期」の政治を担当した佐藤内閣でした。
佐藤栄作は、最大の政治目標だった沖縄復帰の歴史的記念式典を終えた後、総理・総裁辞任の意思を表明し、惜しまれながら2798日の長期政権で、自民党総裁の任期満了を経て総辞職しました。
後継者を指名せず1972年の自民党総裁選には【角福戦争】と呼ばれる田中角栄と福田赳夫らの4人が激突し、田中角栄首相が誕生します。
其の二へ続く