わかりやすく普天間基地移設問題の流れを書いてみました
日本の米軍基地の約70%が沖縄に集中しているのは、1945年の第二次大戦中の沖縄戦と1950年代のアメリカ統治時代の米軍による土地の取り上げに由来しています。
大戦末期の沖縄戦では、アメリカ軍が宜野湾村の一部の集落を強制徴収し日本本土攻撃用の基地を建設しました。住民が避難していたり収容所に入れられている間の出来事でした。
これが現在の【普天間飛行場】の始まりです。宜野湾の歴史によると戦前の22あった集落の内、元の土地に戻ったのが9集落となりました。その後、1951年にサンフランシスコ平和条約で日本は主権を回復しましたが、沖縄はアメリカの統治下に置かれることに。さらにサンフランシスコ平和条約が結ばれた同日、日本の安全保障に関する旧日米安保条約も結ばれています。
普天間飛行場が始まった頃の国際情勢を見てみよう
この頃の世界は東西冷戦の真っ最中。
第二次世界大戦が終了した約半年後には、いわゆる西側の一員であるイギリスのウィンストン・チャーチルが訪米した折に
バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている。
とソ連の危険性が訴えているほど緊張感が高まっている時期のサンフランシスコ平和条約の締結でした。
東陣営の対抗のためにアメリカが行ったこととは?
アメリカは社会主義のソビエト連保・中国・北朝鮮の動向をにらみ、沖縄では本土から米兵をドンドンと移して基地を拡張していきました。
東西冷戦の代理戦争とも呼ばれる1950年~53年までの朝鮮戦争や1965年以降本格的となったベトナム戦争などはアメリカも軍事介入していますが(アメリカは1973年に撤退、戦争自体は75年まで)、本土から遠く離れた場所ということもあって沖縄からも軍が参戦していた…基地拡大にはそんな背景があったようです。
この時に、米兵は沖縄の人たちの土地を強制的に徴収していたことから【銃剣とブルドーザー】という言葉も生まれています。
沖縄とアメリカの関係はどうなった?
前線に近い場所での基地で実際に戦争に行く者も多い…ということで品行方正な人ばかりなわけがありません。その上、沖縄の人々はアメリカ軍施政下に置かれ日本やアメリカの憲法の適用外。極めて不安定な立場に置かれていたこともあって、アメリカ兵による事故・事件が相次ぎ、祖国復帰運動が本格的になりはじめました。
ちょうど同時期、厭戦ムードの高まっていたアメリカでベトナム戦争撤退を公約に大統領となったのがリチャード・ニクソン。戦争継続を考えていた前大統領などは沖縄返還を考えていなかったようなのですが、ベトナム撤退となると多少は沖縄の重要性が薄れてきます。沖縄返還の話が一気に現実的となっていきました。
さらに1970年にはコザ騒動も重なり、1972年5月15日、沖縄は日本へ復帰することとなったのです。
在日米兵による少女暴行事件
沖縄返還から23年。1995年の在日米兵による少女暴行事件が起こると、県民の怒りが頂点に達します。
30代後半以上の人なら23年前とそれ以前の記憶も残っているでしょうから当然と言えば当然なのかもしれません。
アメリカ軍基地の閉鎖や移転の運動が宜野湾海浜公園で行われ、85000人の沖縄県民が集まりました。
沖縄県内での反基地運動を受けて、日米両政府は沖縄県の基地を削減する方向で交渉が始まります。その結果、普天間飛行場の返還を柱とする案を策定しました。
当時の首相・橋本龍太郎とウオルター・モンデール米駐日大使は普天間飛行場を5年~7年以内に返還する事で合意しました。しかし、この返還には同じ沖縄県内に代わりの飛行場を移設すると言う条件が付けられていました。
その候補地に挙げられたのが米海兵隊基地キャンプシュワブがある、名護市辺野古地区の海上基地を建設する案が有力視されていました。
普天間飛行場の移設問題は、ここから始まりました。
辺野古への移設を閣議決定
辺野古移設案を巡っては、環境破壊の懸念やただ県内でたらいまわしをやっているとの反対意見が多くありました。
そんな県内での反対をよそに1998年の名護市長選挙では、移設容認派の岸本氏が当選し、その後の県知事選では同じ容認派の稲嶺氏が当選する事になりました。そして、1999年に沖縄県は辺野古周辺を移設候補地に決定し、日本政府も辺野古移設で閣議決定をしました。
米軍ヘリが大学構内に墜落
2004年8月、普天間飛行場の米軍ヘリが沖縄国際大学にの構内に墜落しました。
幸い夏休み中で死傷者はいませんでしたが、周辺の住宅地に校舎の外壁や機体の破片が散乱しました。宜野湾市街地のど真ん中に位置し【世界一危険な飛行場】と言われる普天間飛行場では、以前から重大事故の危険性が指摘されていた中での事故でした。
この事故以降、更に基地返還の声が高まり、2006年に日米両政府は【米軍再編ロードマップ】に合意しました。これにて、辺野古周辺沿岸部を埋め立てて2本の滑走路を持つ基地の建設と、米海兵隊の8000人がグアム移転が決定しました。
野党大勝利の鳩山政権で事態は急転
2009年の総選挙で野党・民主党が圧勝し政権交代し鳩山由紀夫氏が首相となりました。
そこで民主党は、沖縄ビジョン2008で普天間基地を含む米海兵隊基地を【県外へ機能分散を模索する】【国外の移転を目指す】と明記しました。鳩山首相の【最低でも県外】の名言は記憶に新しいところです。
そんな中、2010年に名護市市長選挙があり、当選したのが基地反対派の稲嶺氏が当選し普天間移設の見直しが加速していくかのように見えましたがそうはいきませんでした。
2010年に鳩山首相は、米軍基地の県外移設を進めようとしますが、すでに日米間で決まっていたロードマップの見直しにアメリカが難色を示すと同時に、新たな施設先すら見つからない状態でした。
移設計画の早期実施を求めるオバマ大統領に「トラストミー」と理解を求めましたが、鳩山首相の想定通りに事は運びませんでした。鳩山首相は5月に入ると、衆議院選で約束した【米軍基地の県外移設】の断念を表明し、普天間飛行場の移設は当初の予定通りに辺野古周辺で落ち着きました。
2013年12月に再び総選挙が行われ、与党・民主党は惨敗。再び自民党に政権が渡り普天間基地の移設計画が再び動き始める事になりました。
沖縄県知事も反対派の翁長知事に…
第二次安倍政権の下、仲井間沖縄県知事は、辺野古沿岸部の埋め立てを承認しました。
しかし、2014年になると国と県のねじれが生じます。
2014年1月の名護市長選挙で基地反対派の稲嶺市長が再選。さらに12月の県知事選では反対派の翁長氏が仲井間氏を破り知事となりました。以前、翁長氏は辺野古容認派でしたが、この頃には県外移設派に転換し「あらゆる手段を使っても辺野古移設を阻止する」と訴えての当選でした。
知事に当選した翁長氏は、前仲井真知事が承認した辺野古埋め立てを取り消しを図ります。
この取り消しは、知事になったかできるものではなく、埋め立てのプロセスの審査に法的なプロセスがあった場合や承認後の事業者側の違反があった場合のみに取り消しができるそうです。
2015年10月に翁長知事は、米軍基地の県内建設の根拠が乏しく環境保全対策が不十分で瑕疵があるとして辺野古埋め立てを取り消しに踏み切りました。
当然、国側は反発し、国と沖縄県が法廷闘争する事態となりましたが、2016年12月に最高裁で【取り消しは違法】と判決が出て沖縄県が敗訴しました。
翁長知事の急逝し沖縄県知事選へ
2018年に政治がまた動き出します。
1月の名護市長選挙で辺野古容認派の渡具知氏が勝利するが、翁長知事の辺野古沿岸の埋め立て承認【撤回】は変わらずでした。
ところが、8月8日に翁長氏が急逝。沖縄県知事選挙が実施されることになります。
9月の知事選では、翁長氏の遺志を引き継ぐ玉城デニー氏が当選しますが、12月14日には辺野古海域への土砂投入が開始され海域の原状回復が不可能となりました。
土砂投入が進む中、2019年2月24日には埋め立ての是非を問う沖縄県民投票が行われ、有効投票数の70%以上が反対の意思表示があったのですが、この投票結果に法的拘束力はなく、3月25日には新たな区画への土砂の投入が行われました。
これまでが普天間飛行場に関わる一連の問題でした。
あまり詳しくないので、間違っている部分があれば修正しますので教えてください。