イギリスの紅茶文化と歴史を簡単に!
近年では紅茶離れが進んでいるなんて話も出ていますが、紅茶はイギリス文化を語る際になくてはならない存在でしょう。
ボストン茶会事件、アヘン戦争といったイギリスと紅茶にまつわる歴史的なエピソードに加え、第二次世界大戦中の配給品の一つに紅茶の茶葉が含まれていたなんて話や戦時中にイギリス政府が購入した品物ランキングでは五本の指に入っていたなんて話が残っています。なんと砲弾や爆薬よりも重量が多かったんだそうです。
今回は、そんなイギリスの紅茶の歴史に迫っていきたいと思います。
イギリスに入った最初の紅茶はオランダから
紀元前の中国から始まったとされるお茶。飲まれ始めた当初は薬として飲用されていました。中国で最初にお茶を飲んだのも東洋医学や漢方薬の大本を作った人物と伝わっています。実際にお茶が国民的な飲み物になったのは唐の時代(618~906年)だったそうです。
そのお茶が本格的にヨーロッパに入るようになったのは16世紀末~17世紀初めごろ。最初は緑茶が「東洋の神秘薬」として伝わっています。その神秘薬として流入したのがオランダ東インド会社(1602年に設立)によって平戸で買われた日本茶やマカオでポルトガル人から購入した中国茶でした。
イギリスでのお茶は、そんなオランダ商人から17世紀中ごろに入って持ち込まれています。
クロムウェルとお茶の関係とは?
そんな感じでヨーロッパにおけるお茶の輸入は主にオランダ東インド会社が担っていました。
1568年から始まったオランダ独立戦争でスペインに対して優位に立ち1581年に独立宣言を出したネーデルラント連邦共和国(オランダ)でしたが、対抗してスペインはオランダとの交易を禁止しあからさまに圧力をかけてきたのに対抗するために作られた会社です。
イギリスはネーデルラントに対して独立戦争の頃には協力していますが、やがて交易を巡って対立するようになります。イングランドもまた1600年にイギリス東インド会社を設立していたのです。
1623年のアンボイナ事件の段階で関係の悪化は明らかでしたが、あからさまに対立するようになったのがイギリスでピューリタン革命が起こりクロムウェルが政権を握った頃からです。
本格的な重商主義政策に突入し始め、クロムウェルは1651年に航海法を制定。
イギリスへの貿易は「イギリス本国か生産国、もしくは最初の積出国に限る」という法律を作ったのです。これによって完全に両国の関係は悪化し、三度にわたる英蘭戦争に突入します。
クロムウェルが亡くなり、王政復古してチャールズ2世(在位1660-1685年)の即位後には不仲な関係になっていたネーデルラントからのお茶の輸入が禁止され、以後は中国からお茶を輸入するようになったのです。
チャールズ2世/キャサリン妃と紅茶の関係
先ほど名前の出てきたチャールズ2世の名はイギリスの紅茶文化を語るうえで必ず出てくる名前です。正確にはチャールズ2世のもとに嫁いできたポルトガル王女・キャサリン・オブ・ブラガンザ(カタリナ/在位1662-1685年)がメインなのですが。
イギリスとポルトガルの両国にとって当時ライバルだった「ネーデルラントを追い落とすために結束しよう」ということで、二人の結婚は決められました。
そのキャサリンはイギリスに来る際に、持参金として持ち込んだ大量の銀のほか、中国のお茶と砂糖(銀塊と変わらないほどの価値があったとか)、嫁入り道具として茶道具を持ち込んでいます。
当時はお茶も砂糖も非常に貴重な品でしたが、砂糖をお茶に入れて飲むのを好んでいた彼女の影響もあって徐々に宮廷内や富裕層の間で広まっていったのです。
砂糖の歴史
砂糖がヨーロッパで知られるようになったのは十字軍遠征がきっかけです。
ヨーロッパに砂糖が入ってからは地中海諸島やイベリア半島南部でも作るようになりますが、やがて大航海時代を迎えると砂糖の生産は大西洋の島嶼やブラジル(←ポルトガルの植民地です)などに移行します。
こうして生産された砂糖がポルトガル商人の手によってヨーロッパに流入し始めました。大体16世紀頃の話です。
やがて17世紀になると今度はイギリスやフランスが支配するカリブ海での生産が目立つようになりました。この生産された砂糖はオランダ商人たちの手によって流通されたのですが、ここでクロムウェルの航海法が絡んできます。
イギリスが生産国から自国の船で輸入するようになって砂糖の生産・流通の覇権を握る素地が出来上がっていたようです。
そのクロムウェル亡き後にキャサリン王妃がチャールズ2世と結婚。お茶に砂糖を入れて飲むという習慣ができ始め、イギリスが砂糖とのかかわりを深くしていったのでした。
メアリ2世と紅茶の関係
メアリ2世(在位1689-1694年)は名誉革命で夫のウィリアム3世(イングランド/スコットランド王在位1689-1702年)と共に王位についた女性です。
彼女はネーデルラントに嫁いでいたこともあって、オランダ式の喫茶法やこれまでの交易の影響でネーデルラントで流行し始めていたシノワズリ(中国趣味の美術様式)を持ち込んでいます。
これまでのお茶の飲み方が違った形で広まっていきました。
なお、メアリ2世とウィリアム3世の即位と同年の1689年にイギリス東インド会社を通じて中国の武威から武威茶(ボーヒー茶/武威茶の英語読み)が直接輸入され始めています。オランダを介していた時の輸入していたお茶は緑茶でしたが、やがてイギリスの水に最適な紅茶が購入されはじめたのでした。
アン女王と紅茶の関係
メアリー2世の妹のアンは、姉のメアリ2世が亡くなって単独王位についた義兄・ウィリアム3世の死後、王位を継いでいます。
美食家の彼女は紅茶を何度も飲む習慣を定着させました。一日に6~7回も飲んでいたそうで、その習慣が宮廷でも広がっています。
なお、本格的なアフタヌーンティーは1840年代のべドフォード公爵夫人アンナ・マリアの登場を待たねばなりません。
コーヒーハウス
キャサリン妃、メアリ2世、アン女王たちが宮廷内で開くようになったお茶会の催しもあって上流階級の間で定着しつつあった『紅茶を飲む習慣』は、やがて宮廷に留まらず階級関係なしに広がっていきます。「王室御用達」のシステムが確立したのもこの頃だそうです。
そんな中、18世紀初期に「トムズ・コーヒーハウス」を開いていたトマス・トワイニングは、コーヒーハウスのオープンから10年後にイギリス初の紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」を開店しました。これが新たな社交の場として機能していきます。
トワイニングは現在でも紅茶の会社として残っています。日本でもよく売っているので見たことある方は多そうです。
コーヒーハウスの起源は中東(特にイエメンのあたり)だと言われ、それがヴェネツィア商人を通じてヨーロッパに伝わりました。
17世紀半ば~18世紀半ばにかけてイギリスでは商取引、海運情報のやり取り、新聞の回覧、政治議論の場としてコーヒーハウスがかなり流行しています。紅茶も最初はそうしたコーヒーハウスで提供され始めました。
ちなみに『ロイズ海上保険組合』は『ロイズ・コーヒーハウス』がその始まりです。
元は男性のみを客の対象とみなして議論を重ねる場(個別の客席を置かない殺風景な場所だった)としていたコーヒーハウスとは違い、インテリアに凝っていたりオシャレな雰囲気のお店で女性に人気のお店となっていきました。
そうしたお店では茶葉が売られ自宅に持ち帰って飲むこともできたため、やがてコーヒーと紅茶の消費量が逆転します。
こうして市井の女性たちから家庭に茶葉が持ち込まれるようになり、家庭でも紅茶を楽しむ文化が出来上がってきたのです。