隋と唐の建国【東アジア文化圏のはじまり・その一】<中国史>
6世紀末、南北朝時代の終わりを遂げたのは北朝・北周の軍人出身で外戚の楊堅(541~604年)でした。北周で実権を握ると、581年に北周を倒して文帝として即位。国号を隋に定めます。
589年には南朝の陳も滅ぼしました。こうして群雄割拠の魏晋南北朝時代は終わりを遂げ、ようやく中国は統一されたのでした。
今回はそんな隋の統一で何が変わったのか?長く続かず衰退した理由や隋の衰退後に起こった唐について建国から衰退までの流れを簡単にまとめていこうと思います。
隋による中国統一(589年)
隋を起こした文帝は、西魏~北周以降に根拠地となった関中という地に大興城(長安)という新しい都を建設。統一国家を強固にするために中央集権体制に力を注ぎました。
北朝以来行われてきた均田制と府兵制は継承しながら、ここに税制として租庸調制を確立して財政の安定に務めています。
他にも地方行政制度に関しても郡を州に改める州県制に、三国時代の魏から九品中正を廃止して新たに学科試験による官吏登用法(=選挙)を採用を開始。この選挙はやがて科挙と呼ばれ、皇帝の専制支配を支える重要な役割を果たすようになりました。
また、黄河-長江間の大運河を整備しはじめたのも文帝の時代です。
科挙は清末期まで継承され、大運河も子の煬帝が完成させると次代の唐以降、江南と洛陽や長安を結び物資を輸送する交通路として重宝されていきます。
科挙も大運河の完成も、どちらも中国史において非常に大きな影響力を持ち続けたのです。
ところが、隋はこうした後世にまで残る素晴らしいものを残したにもかかわらず、2代目の煬帝の代でわずか38年で滅びることとなります。
隋と近隣諸国の関係について
隋の周りには複数の国が存在しています。
およそ300年ぶりの大国の統一で、周辺諸国は方針転換を迫られます。その中で隋と仲良くしようとする国と敵対しようとする国とで対応が分かれていきました。
隋はこれまでの経緯上から突蕨を警戒しており、文帝の時代に突蕨の内紛で分裂状態だったのを更に不仲になるように仕向け、分裂後の東突厥を臣従させました。
↑「東西に分裂後、調略によって東突厥と西突厥間を敵対させた」が正しいです
さらに、隋は突蕨と結ぶ可能性のある朝鮮半島の付け根辺りの高句麗とも敵対。朝貢してくる新羅や百済と高句麗が敵対していただけでなく、突蕨と結ばれたら隋は困るので高句麗に何度も侵攻しています。
また、日本も隋に遣隋使を送るなどして関係を結んでいました。
隋の衰退・滅亡
文帝の頃にも外征はしていましたが、子・煬帝の代になると更に外征に力が注がれました。また、先代の頃から始まっていた大運河を完成させるために多くの農民を徴発・酷使したことで農村の疲弊は増していきます。
こうして疲弊したなかで煬帝による三度に渡る高句麗遠征が行われ激しい抵抗にあうと、いよいよ隋では各地で蜂起が起こり始めます。その中には太原(現在の山西省)で挙兵した李淵・李世民の父子の姿もありました。この父李淵が618年に唐を建国したのです。
ちなみに、煬帝は江南に逃亡していますが混乱の中で殺害されています。こうして、隋はわずか38年で滅ぶこととなりました。
唐の建国と崩壊(618年~907年)
隋の混乱に乗じて挙兵し、長安を都とした李淵が高祖として即位し唐を建国。この時点では隋の衰退とともに勢力を増した群雄たちが残っていましたが、次子の李世民の活躍により次第に平定されてきました。
この李世民。実を言うと皇太子ではありませんでした。実力はあるのに後継者ではないということで李世民は皇太子らと高祖の後継を兄弟たちと争うことに。
高祖も高祖で曖昧な態度を崩さず、結局、李世民はクーデター【玄武門の変】を起こし父に迫って譲位させています。このような経緯で二代目太宗となった李世民は群雄たちを一掃して中国を統一したのでした。
太宗は諸制度を整備し、貞観の治(じょうがんのち)と呼ばれ、美化・賛美される程の安定した治世を築き上げます。
太宗の次代皇帝・高宗の代では世界的な大帝国へと押し上げられており、西方面では西突蕨を滅亡させているうえに高句麗・百済も滅ぼし最大領土を手に入れました。この高宗の治世で最終的に実権を握ったのが高宗の皇后で後に中国史上唯一の女帝となる則天武后(武則天)です。
高宗が病没すると則天武后は自分の子2人を帝位につけていますが、相次いで廃位し自らが皇帝となりました。彼女に反抗する者達を武力で制圧し同族を重用した上で政権強化に努めると国号を周と改め、科挙を積極的に推進しました(在位が15年と短かったこともあって大きくは扱われていません)。仏教が統治に利用されたのもこの頃です。
則天武后は老年になるとクーデターを起こされ一度廃位した息子・中宗に禅譲。同年に亡くなりました。中宗は国号は再度「唐」に戻しています。
ところが、この中宗が毒殺され紆余曲折の末に玄宗が即位。玄宗は則天武后→中宗→玄宗に権力が移る際の政治的混乱を収めますが、治世の後半は楊貴妃におぼれ政治が乱れるようになりました。
この政治の乱れに不満が高まった結果、反乱【安史の乱】が発生すると唐の衰退は露わになりはじめます。
その後、唐の立て直しのため財政再建のために租調庸制に変わった税制を採用し、塩の専売も財源の一つとしました。
が、多少の立て直しはできたものの9世紀末には塩の密売人・黄巣(こうそう)が反乱【黄巣の乱】を起こすと全国に広がり、最後は907年朱全忠により滅ぼされました。
次回は隋や唐代の制度などについてもう少し詳しく見ていこうと思います。