中国・東アジア

北方民族の活動と中国の分裂 第二弾【晋の衰退~南北朝】<中国史>

歴ブロ

前回は魏晋南北朝時代のうち、三国時代~晋の建国までをお話ししました。

今回はいよいよ本格的に北方民族が中国の王朝に関わってくる段階のお話で、晋の衰退~北方騎馬民族による国々の建国と諍い五胡十六国時代、晋の動向、北魏による統一北朝と中国南部での国の移り変わり南朝をまとめていこうと思います。

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晋の衰退

魏の皇帝から禅譲を受けて司馬炎(武帝)が建国したは、その段階で魏と元蜀の領地を丸々受け継ぎました。残りは呉のみ。これを滅亡させたのが280年のことになります。

武帝は権力を維持するにあたって司馬一族を王として封じ軍事権まで与えているのですが、こういう過ぎた権力・軍事力を与えると大体が厄介な問題に繋がります。

なお、軍事権を与えた理由は「呉や北方民族に備えて」というのは勿論ですが...

魏の時代に諸侯王への軍事力を減らした上で彼らに対する監視を強くしていたことで

一臣下(司馬懿)を抑えるだけの力を持った皇族がおらず、その臣下の台頭を許し最後には簒奪まで許した

という晋建国までの経緯を教訓にしたようです。

さらに武帝は呉を滅ぼして中国統一を果たしてからは政治への興味を失い、中央政府における外戚の政権争いの予兆がではじめました。

内乱の発生【八王の乱】(291-306年)

このような状態で武帝が崩御。2代目には皇帝の資質を疑問視されていた武帝の息子・恵帝が即位すると、母親が皇太后に太子時代の妃・賈南風が皇后になりました。はじめは母の一族が権力を握りますが、その後は皇后の一族が台頭。

この政治的混乱に諸王たちも絡んで皇帝の後継者争いが始まります。彼らは軍事権を持っていましたから一筋縄ではいかず、皇太子の暗殺や皇后と一族が処刑されるなど、291年から306年にかけて内乱に発展し大混乱に陥りました【八王の乱】。

この八王の乱では騎馬技術に優れた遊牧民たちが傭兵として投入され大活躍します。遊牧民たちが勢力を伸ばしはじめ、自立するようになっていったのです。

こうした異民族のうち、最も晋の行く末に影響を与えたのが八王の一人・成都王(もともと蜀のあった地)の元にいた南匈奴の劉淵でした。

(西)晋の滅亡

劉淵は304年に五胡十六国時代の幕開けとなる漢(後に趙と改める、漢と区別して漢趙とも)を建国しています。その同じ年には四川で別の遊牧民族が成都王(後に大成と改称、成漢とも呼ばれる)を名乗り晋から独立。甘粛では晋の涼州刺史が独立して前涼政権を立てています。

一方で秦の内部では遊牧民たちの独立のきっかけとなった八王の乱が306年に八王の一人・司馬越によって終結されました。

第2代皇帝が食中毒(毒殺疑惑もあり)で亡くなると、司馬越が武帝の息子・懐帝を擁立。司馬越が政権を握りましたが、次第に親政を望むようになる懐帝と対立。懐帝の側近を謀反の罪で処刑すると司馬越は人望を失うことに。

両者の対立の間に漢と戦っていた中で結果を出せるわけもなく、漢以外にも力を持ち始めた諸勢力が誕生し始めます。

その中でも司馬越と懐帝の両者の対立は激化。とうとう懐帝が司馬越討伐の勅命を出したのですが、対象となった司馬越は逃走先で病死しました。彼の死を好機と見た漢が攻め込むと晋の軍勢を破り多くの重臣を捕虜にしています。

こうして晋の統治能力が完全に失われると、311年には漢により首都まで攻め込まれます。この動乱は【永嘉の乱】と呼ばれました。

懐帝は玉璽と共に拉致されて漢の首都に連れていかれると召使いの格好をさせられて色々された挙句に最期は処刑され、313年に晋は事実上滅亡することとなっています。

首都では懐帝の甥が即位して漢に抵抗を続けますが、連敗。長い八王の乱で荒廃していた上に諸王に一体感があるわけもなくバラバラだったので助けに来ることもありません。結局316年には完全に滅亡しました。

一方、以前司馬越の命令で江南の統治にあたっていた司馬一族の一人が元々あった晋の滅亡を見てから317年に晋王を称して南の地域で即位。再度晋を建国しました。なお、この新たに作られた晋を東晋と呼び、以前の晋は西晋と呼んで区別しています。

れきぶろ
れきぶろ

ちなみに武帝(司馬炎)は息子だけで25人います。

後宮に1万人もの美女を囲って女色に耽って政治を顧みなかった逸話があるのですが、少しでも我慢してたら晋はもう少し続いていたのでは…と思えてなりません。

五胡十六国時代

中国の北部で騎馬遊牧民たちによる諸国が建国され、いよいよ五胡十六国時代と呼ばれる時代に入ります。五胡とは5つの異民族のこと。この5つの民族により

  • 匈奴:前趙(漢)・夏・北涼
  • 鮮卑:前燕・後燕・南涼・西秦・南燕
  • 羯(けつ):後趙
  • 氐(てい):成漢・前秦・後涼
  • 羌:後秦

が、さらに漢民族により

  • 前涼
  • 西涼
  • 北燕

が建国され、こうした5つの異民族+漢民族が作った20カ国が興亡を繰り返しました。五胡十六国時代とは、このうち代表的な16カ国の国があった時代のことです。

五胡十六国時代

※(国名)と、代・北魏は五胡十六国に含まれていません

ちなみに、最終的に中国を統一したのは鮮卑の拓跋(たくばつ)氏が建国した北魏でした。華北を統一したのは太武帝(在位423〜452年)です。

一方、東晋が逃げ込んだ中国南部の地域(江南)でも複数の王朝が短期間の間に興亡を繰り返していました。

南北朝時代(439~589年)へ

太武帝による華北統一により五胡十六国時代は終わりを遂げ、華北に立てられた王朝=北朝と東晋以降南部で生まれては滅亡していった諸王朝=南朝が並列して存在していた時代を南北朝時代と呼んでいます。

北魏による統治(386~534年)

やがて北魏では孝文帝(在位471~499年)の時代に入ると、長い戦乱の末に荒廃していた農村の復興を図るために

  • 均田制
  • 三長制

を行うようになりました。

均田制とは?

土地は公有のものとして特定の条件で露田(=口分田)を分配し税を課すことを均田制と呼んでおり、北魏の時代から始まっています。

この後、南北朝時代の北周・隋・唐の時代を経て租調庸の税制度へ繋がっていきますが、北魏の時点では税の徴収も勿論ありましたが兵役に重きをおいた制度だったようです。他の時代の均田制との違いは奴婢や耕牛にも給田されていた点で奴婢や耕牛を所有する層に有利な制度と言えます。

三長制とは?

いわゆる郷村制度です。五戸を「隣」、5隣を「里」、五里を「党」としてそれぞれに長を置きました。彼らに戸籍作成と徴税の事務関係、均田制の実施などを担当させていました。代わりに徭役(成年男子に課せられた強制労働)は免除させています。

北魏以降の北朝の変遷

北魏の時代には、均田制や三長制といった政策を実行しましたが、本格的な中国支配に望むにあたり漢化政策(服装や言語など)を実施すると内部で反発が生まれました。やがて北魏は軍人による反乱が起こり、東西は分裂。東魏西魏に分かれます。

更に東魏が北斉に、西魏は北周に倒されて、二つの王朝が華北に出来ました。が、北斉も北周に併合されてしまいます。この北魏・東魏・西魏・北斉・北周の5つの王朝が北朝と呼ばれています。

南朝の変遷

お次は南朝についてです。

華北から江南へ逃げ込んだ晋の王族が立てた王朝が東晋でした。この東晋は100年近く続きましたが、正直、皇帝に権力は全くなく再興の功労者であった武人の劉裕が政権を掌握。

その後も功績をあげた劉裕は東晋の第10代皇帝を殺して弟を擁立させ、新たな皇帝に禅譲させると、武帝(在位420~422年)として自らが皇帝となり(420~479年)を建国しています。

その後、(せい、479~502年)(502~557年)(557~589年)と短命政権が攻防を繰り返しました。これらの南朝に加えて、五胡十六国時代以前の三国時代に出来た東晋を合わせて六朝(りくちょう)と呼んでいます。

魏晋南北朝時代の推移

前回の記事から続く三国時代~南北朝時代の推移をまとめてみると、下の図のようになります。

魏晋南北朝

こうして589年にが陳を滅ぼして中国を統一するに至るまでの魏晋南北朝時代は終わりを遂げたのでした。ちなみに隋は南朝の最後の国・北周から出来上がった国です。

北周の皇帝の外戚であった楊堅が実権を握り、北周を倒して帝位について建国。長い戦乱の時代を終わらせています。この記事についてはまた別の機会に書いていこうと思います。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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