世界の砂糖と日本の甘い歴史【おまけに金平糖について】
菓子を古来日本では、果物の事を指していました。
それまで日本では甘未と言えば果物の甘味だったのです。
時代が経つにつれて、甘みを突き詰めるために米や麦を煮詰め【飴】を作り出しました。
イタリアで菓子を表す【ドルチェ】には【甘い】と言う意味もある通り、菓子は甘い物でありそのために必要なのが砂糖の存在でした。
唐大和上東征伝によると、奈良時代に来日した鑑真により【石蜜・蔗糖※・蜂蜜・甘蔗※】が目録として持参したとされ、8世紀ころには砂糖が日本にもたらされた事になります。
しかし、正倉院文書には蔗糖は薬として記載されていました。
16世紀の日本では、織田信長がポルトガル人から金平糖(コンフェイト)を献上されたと伝えられています。この頃の砂糖は貴重で、上流階級の人しか口に出来なかったが、17世紀には琉球や奄美大島に中国の砂糖技術が伝わりました。
以後、砂糖を用いた和菓子が発展しますが、中国から伝来した禅宗と茶の湯文化によって大きな影響を受けていきます。
一方で洋菓子は、キリスト教の影響が大きく、聖書の断食の記述には一定期間、肉・乳製品・卵を口に出来ないとされています。しかし、薬扱いだった砂糖は除外されており、イスラーム世界では【砂糖菓子こそ万能薬である】と言われていました。
このように、時代と地域を超えて砂糖は多くの人が求める味覚だったと言えます。
砂糖の起源
砂糖の起源はインドと言われ、紀元前5世紀ころのインドの仏典にその記載がある事が根拠となっているようです。
【砂糖=シュガー(SUGAR)】の語源は、サトウキビを意味する古代インドの言葉【SARKARA(サルカラ)】に由来しているとの事。
そのサトウキビ(甘蔗)の起源となると紀元前8000年~1500年頃までさかのぼり、南太平洋のニューギニアあたりではないかと考えられています。
そのサトウキビが、フィリピンやインドネシア諸島を経てインドに伝わり、製糖技術生まれて砂糖が作られるように。そして、インドから中東、東アジア、ヨーロッパを中心に広がっていきました。
日本同様にヨーロッパでも砂糖は薬として扱われ、フランスでは薬局が砂糖を販売する権利を持っていたと言います。
世界史上では、マケドニアのアレキサンダー大王※が東方遠征時に、十字軍遠征、三角貿易が砂糖に関わる出来事として取り上げています。※アレクサンドロス大王とも呼ぶ
こうして、日本にも砂糖が伝わり我が国の菓子文化にも影響を与えることになっていきます。
砂糖以前の日本の甘味料
砂糖が伝わる前の日本の甘味料は、蜂蜜、蘇、甘葛煎、飴などがありました。
蜂蜜や飴は現在でも使用されていますが、蘇・甘葛煎と一体どんなものなのでしょうか?
甘葛煎は深い山に自生するツタの一種で、そのツルの液に濃い甘みがあります。その液が蜜のように甘く、古来より甘味料として使用されてきました。現在でも奈良や和歌山県の山間部でこれを採取する風習があるようです。
枕草子にも、【あてなるもの、削(けず)り氷(ひ)にあまづら入れて、あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる】と書かれています。また、宮中において読経がいとなまれるとき、僧に茶を賜うの儀が行われ、煎茶の中に甘葛煎を加えたとの記録があります。
一方で蘇は、動物性の甘味料で乳から酪が作り、絡から蘇、そして醍醐を作るとされている一種の乳製品です。奈良時代にはすでに牧場があり蘇が作られていました。
醍醐とは、酪を精製した過程で出来る汁で、蘇の上に浮かぶ油のようなモノで、その味が甘みを極めた事から【醍醐味】と呼ばれ、薬用として重宝されました。
蘇は、実際に作った事があるのでこちらの記事で紹介しています。
日本の菓子文化とショートケーキの誕生
1889年に和洋菓子製法独案内に初めてショートケーキが掲載されますが、その形状はクッキーだったようです。
それもそのはずで、語源のショートは英語で【短い】【サクサクした】と言う意味もあるそうで、イギリス式のショートケーキはサクサクしたもので現在のスポンジ状ではありませんでした。
その後、1907年の和洋菓子製法にお馴染みのスポンジ状のケーキが登場しました。
そこには、潰したイチゴを挟むと書かれているようです。
1922年に、お馴染みの洋菓子店・不二家が【フランス風】として、ホイップクリームを使用したショートケーキの発売をしました。1924年にはアメリカ製の生クリーム機が輸入されて、生クリームの国内生産が本格化します。
こうした事から、日本のショートケーキは英・仏・米・日の合作した様な菓子で、こうした例は饅頭とパンが融合したアンパンやカステラと羊羹でシベリアなどの多くの商品が誕生しました。
洋菓子の大衆化
欧米化が進んだ明治の日本では、バターやミルクを使用した洋菓子が栄養豊富と紹介されると、1857年に米津風月堂がビスケット製造を開始。1899年には森永太一郎がアメリカで習得した製菓技術を持ち帰り、機械化による大量生産を本格化しました。
1910年に不二家、1916年に東京製菓(後の明治製菓)、1921年には江崎商店(江崎グリコ)が創業し、菓子業界は活発化しました。
森永と言えばあのお菓子メーカですね!
現在あるあの有名な菓子メーカのほとんどは明治に創業しているんだね。
その背景には、第一次世界大戦の勃発により、ヨーロッパからの菓子の輸入が途絶えた事が考えられます。そして、戦勝国となった日本は、モボ・モガと呼ばれる若者らによって洋装や洋食がはやりました。
また、第一世界大戦で捕虜となったドイツ人のユーハイムやロシア革命で亡命してきたモロゾフらも日本における洋菓子普及に貢献しました。
近代・戦前の日本の砂糖事情
現在、1キロ200円~300円で砂糖が販売されていますが、日本では多くが輸入に頼っており国内の自給率は30%~40%ほどです。
砂糖の原料は主にサトウキビとてんさいです。世界的にはサトウキビが多いですが、日本の生産ではてんさいが80%を占めています。てんさいの産地は北海道、サトウキビは沖縄や奄美地方での生産が中心となっています。
現在では比較的安価な砂糖ですが、明治時代には贅沢品で高価なものでした。
明治40年当時の公立学校の教員の初任給が10円に対して、砂糖1キロの価格が15銭と初任給を全て砂糖につぎ込むと66㌔しか買えない計算となります。現在と比べると、初任給19.4万円に対して砂糖の価格207円と計算すると937㌔の違いがあり、明治期の砂糖がどれだけ高級品化わかります。
では、どの段階から砂糖が一般的になっていったのでしょうか??
上のグラフを参考に、1910年(明治43)の砂糖生産量が約27万トンでしたが、1930年(昭和5)は93万トンと20年間で約3倍にも増えています。
そして、消費量も34万トンから86万トンにまで増えています。全体的に見ると増加に転じていますが、生産量をみると一定の時期に大きく飛躍していることがわかります。
1917年の増加では、甘蔗=サトウキビが豊作だった年だったようです。1929年(昭和29)になると日本の消費量を生産量が超えて自給自足体制域に入ります。
一方で台湾では、1910年~1930年にかけて砂糖消費量はわずかながら増加していますがほぼ横ばいの状態。しかし、生産量が日本と同じようなグラフの上り方をしている事から、甘蔗生産が盛んにおこなわれ、日本に輸出していた事が伺えます。
1884年の新聞でも、消費する砂糖は台湾品にて15年前から年々増加している旨の記事が掲載されています。
ここで豆知識!日本では上白糖(白砂糖)の消費量が一番多いけど、世界的にはグラニュ糖が一般的です。お醤油との相性がピッタリな上白糖は日本独自の調味料として使われているんだね。
金平糖(コンフェイト)の由来と製法
どうする家康でも登場した金平糖(コンフェイト)ですが、漢字で金平糖と書かれている事から、日本のお菓子と思われますが16世紀の戦国時代に日本に伝わりました。
1569年にポルトガル人宣教師・ルイス=フロイスが日本に持ち込んで織田信長に献上されガラス瓶に入っていたとされています。この頃は、希少品のために大名や身分の高い人への献上品として使われ、庶民に普及するのは18世紀に入ってからになります。
その製法は、もち米を粒状にした【イラコ】をベースに砂糖を混ぜて作ります。この工程を何度も繰り返し、2週間から3週間かけて作られます。砂糖が結晶化している金平糖は容易にしけらず、高い保存性があります。湿気に注意していれば20~30年も味が変わらないといわれています。
その保存性の高さから、非常食用乾パンの缶の中に金平糖(現在は氷砂糖が多いとの事)が入っていることがあります。これは、カロリー摂取のほか、唾液の分泌を促し乾パンを食べやすくする効果を狙い、カラフルで見た目も良いからとされての事です。