織田信長の壮絶なる人生に迫る!!
信長関連の記事はこれまでも書いてきたのですが、その生涯について迫った事がなかったので、今回は織田信長の一生について迫っていきたいと思います。
非常に密度の濃い人生を送った人物なので、長文になりましたがお付き合い下さい。
織田信長の誕生
織田信長が活躍する時代は下剋上でのし上がった人物が大活躍する時代でした。信長自身も物凄く地位の高い位置にいた人物ではありませんでした。
織田信長は織田弾正忠家の織田信秀の次男として勝幡城で1534年に生まれています。次男ではありましたが、正室の子だったので嫡男として扱われています。
織田弾正忠家の立ち位置が変わったのは、この時代の例に漏れず応仁の乱です。
斯波氏に仕えていた織田氏も斯波氏の分裂と同様に内部分裂しています。
【応仁の乱】
織田弾正忠家の立ち位置を見てみると…
こんな感じです。
清洲織田家が尾張の下四郡を、岩倉織田家が尾張の上四郡を治めていました。
※斯波氏と織田氏の関係は『尾張守護大名斯波氏と守護代織田家の関係』の記事で詳しく書いてます。下記のリンクからどうぞ。
応仁の乱は結局決着がつかず戦国時代に移行している中で、尾張も抗争状態に。岩倉織田氏と清洲織田氏の抗争だけでなく、駿河の今川氏親(義元の父)も虎視眈々と尾張を狙っている状況でした(松平氏は今川氏の影響下にあるため三河をスルーして尾張に到達可能だった)。
上の地図と合わせて織田信長との関連が深い勢力を見てみてください。実際には信秀の時代だと織田弾正忠家は尾張を掌握していません(信秀は守護代奉行として振る舞った)し、今川氏が遠江を支配しているのもあくまで一部。おおよその地図になります。
織田信秀の代では尾張の北(美濃)にいる斎藤道三や駿河を拠点とする今川氏との争いが頻発。当初は優勢に立って着実に勢力を拡大しますが、軍事的に力をつけた織田弾正忠家への牽制か主君であるはずの清洲織田家との諍いが絶えなくなります。
『尾張の虎』と二つ名のつけられるほどの武将だった信秀ですが、内部に敵を抱えた状態で斎藤、今川に対抗するのも難しくなっていきます。
織田信秀による斎藤・今川・清洲織田家の対抗策
この対抗策として導き出した答えが嫡男・信長と斎藤道三の娘・濃姫との婚姻でした。この婚姻を機に織田家と斎藤家は和睦を結び、以降、信長にとって斎藤道三は非常に強力な味方になりました。
この信秀の行動は『信長を跡継ぎに』とする決意の表れでもあります。
幼い頃の信長と言えば奇抜な行動が多く『大うつけ』と呼ばれたのは有名です。身分関係なく若者と戯れていたなんて話もありますね(後々、農民を重用した柔軟性はこの頃に培われたとも…)。その真逆の品行方正で優秀な弟(信行)を跡取りにしたい層が現れてくるのは当然だったかもしれません。そんな状況を危惧しての信秀の行動だったと思われます。
信長を嫡男にさせようとする信秀の意志は、信長が当時としても早い13歳での元服と翌年の今川との小競り合いで初陣を果たさせた行動にも表れています。
信秀がいなくなった後、この当主争いが激化するのは容易に想像できます。実際に信秀が亡くなった後、信行が謀反を起こしています。
清洲織田家との対決
内外に敵を抱えたまま弾正忠家の跡を継いだ織田信長ですが、最初に動いたのは清洲織田家と今川氏でした。
清洲や今川側も邪魔な信秀が亡くなって『うつけもの』が跡を継いだ状況を、『またとないチャンス』と捉えました。信秀が亡くなって両者は弾正忠織田家に対し対決姿勢を出してきます。清洲織田家は家督を『信行』に継がすのが良いと異を唱えたのです。
以後、清洲織田家は信長との戦いが続いていきますが清洲側は決定的なミスを犯します。斯波氏家臣のはずの清洲織田家に属する武将が斯波家当主を殺害したのです。
この出来事は信長に清洲織田家を攻め込む大義名分を与えます。実際にこの出来事の数日後に清洲織田家と直接対決をして信長勢は圧勝。以降、清洲織田家は急速に力をなくすことになり、1555年には滅亡しています。
一方の今川氏との間には信長が跡を継いで今川方へ寝返った武将との戦いがいくつか起きています。その時に頼ったのが義父の斎藤道三です。信長は戦いの際には道三に援軍を頼んでいます。どちらも引き分けや辛勝という形で終わったため大局が変わったわけではなかったのですが、斎藤道三に信長を認めさせる出来事にはなったようです。
斎藤道三の死と弟・信行の反乱
信秀の死後、信長最大の味方となった義父の斎藤道三。
斎藤道三は下剋上の典型的な武将であり、土岐氏を追い出した『美濃の国盗り』を実行した過去があります。斎藤道三はこの旧土岐家の家臣団も抱えていました。そんな中で斎藤道三は家督を息子の義龍へと渡していたのですが、両者の折り合いが悪く終いには義龍を廃嫡しようかというところまで行き着きます。
その状況に義龍は追い込まれ道三に対して挙兵するに至りました。過去の経緯もあって旧土岐家家臣団は義龍に味方をし、義龍 17500人の軍勢に対し、道三 2700人という兵力差のまま合戦することに(長良川の戦い、1556年)。
信長もこの事態に援軍を送り込みますが、間に合わず道三は死去。
道三死後、美濃の斎藤家と織田家は険悪な関係に戻っています
この動きに呼応して、岩倉織田家と信行を擁する弾正忠家の一部が不穏な動きを見せ始めます。信長の器量に疑問を呈した幾人かの弾正忠家の武将たち(林通勝・柴田勝家ら)が信行を担ぎ上げてクーデターを起こしたのです。
結局、そのクーデターは失敗しますが信長と信行の母の仲介によって首謀者たちは許され、それ以降というもの柴田勝家らは信長に忠誠を誓うことになります。
ですが…弟のクーデターは一度で済みませんでした。
2年後、二度目の謀反を企てました。二度目の謀反は一度目の謀反で信長に忠誠を誓った柴田勝家の密告により信長は信行を殺害し未遂に終わらせました。そして、同年から翌年にかけて岩倉織田家の本拠地を落とし、尾張の統治者として君臨したのです。
織田信長による数々の戦いと勢力拡大
弟や岩倉織田家との戦いが終わり、最初に起こった大規模な戦いが今川義元との桶狭間の戦いです。桶狭間の戦いは日本史の中でも有名な戦いで以前記事にもしたことがあるので詳細は省きますが、信長の名前を世に知らしめた戦いでもありました。
当時の有力な守護大名だった今川義元が討ち死にし、後を継いだ今川氏真※は優秀とは言えない人物。家格としては足利家に次ぐぐらいの物凄い血筋でしたが、趣味人で当主としては疑問があったために今川家の家臣だった松平元康は袂を分かち独立し、信長との清洲同盟を結びます。
※現在では家臣を失った状態で弔い合戦をせず「家の存続のため現実的に対処したのでは?」と再評価の声もあるようです。主に内政面での能力は低くなかったと言われています
松平元康は後の徳川家康。この同盟を機に信長は三河・遠江方面との憂いがグッと減ることになります。
もちろん尾張の織田家の憂いは今川氏だけではありません。義父の斎藤道三亡き後というもの美濃の斎藤家とは険悪になっていましたから、どうにか落としどころを探らなければなりません。が、信長は東の松平氏と同盟を結んだことで今川氏を松平氏が牽制してくれている間に斎藤家との対決に専念できるようになりました。
道三を討った息子が亡くなり道三の孫が跡を継いだのを機に、信長は幾度か美濃に攻め込んでいます。もちろん、時は戦国時代ですから両者だけの戦いはあり得ません。戦国一の美女と名高い妹のお市を近(滋賀県北部辺り)が拠点の浅井家に輿入れさせ同盟を結んだりしながら周囲から攻められないよう手を打っておきました。
この輿入れには幕府関係者の思惑も含まれていたのではないかとも言われ、時期にも諸説あります
更に信長は尾張と隣接する伊勢北部の豪族諸氏を撃破。確実に勢力を伸ばし武田信玄とも領土を隣接させるまで広げます。
室町幕府の大激変
1565年、幕府の権威を回復させ諸大名の修好に尽力した将軍の足利義輝が三好三人衆・松永久通に殺害(=永禄の変)されました。
信長の生涯なので三好氏に関しては割愛しますが、室町時代『三好政権』とまで言われる程にまで幕府における超・重要人物となった三好長慶の死を機に、義輝が幕府の権威を復活させようとしたのがキッカケと言われています。
更に兄・義輝が暗殺された時に松永久秀の下で保護されていた義輝の弟・足利義昭(当時の名前は覚慶→義秋)を義輝の側近たちが松永久秀の元から脱出させる、という出来事もありました。
なお、この脱出劇には朝倉氏が関わっていたという説があります。義輝の側近周辺と手紙のやり取りをして計画を立てていたとも。
朝倉氏と言えば、家臣に明智光秀がいたと知られています。この明智光秀が信長と義昭を結び付けたなんて話もあります。ただ何故か朝倉氏は義昭の上洛には協力的ではありませんでした。
この頃の朝倉氏は(義昭の仲裁で)一向一揆を抑えたばかりで上洛した後も三好氏との戦いが避けられない状況だったことが大きな理由じゃないかと思います。
また、越前が他国に比べ安定していたことも上洛をしなかった理由かもしれません。
その脱出先(六角家の領土内)で、義昭は足利将軍家の当主を宣言。脱出先だったので各地の大名達にも室町幕府の再興と上洛の協力を依頼します。
当時の情勢は混沌としていましたから、上洛できそうな大名の元を義昭は転々としていきます。その中には信長も含まれており、信長自身も義昭の上洛には協力的に動いていたようです。
織田信長のいた尾張も順風満帆だったわけではなく一度は美濃に敗れ上洛も無理かという状況になっていたのですが、美濃の内部から切り崩して1567年、稲葉山城の戦いで美濃を攻略。丁度この頃、信長は『天下布武』のスローガンを決めています。
その後も六角氏や三好氏…
様々な勢力の思惑が入り乱れながらも1567年に信長が義昭を擁立し上洛に成功したことで、他の大名に先んじて天下布武の目標に近付けたのです。
室町幕府15代将軍・足利義昭との確執と信長包囲網
上の方にちょろっと書きましたが、将軍・足利義昭と信長のスローガンは
- 足利義昭 : 室町幕府の再興
- 信長 : 天下布武(=武家による近畿地方の支配)
微妙に両者が異なっているのが分かるかと思います。
他にも信長が勢力拡大のために攻め込んだ大名の処遇を巡って両者の間に齟齬が生じたとも言われ、信長と義昭間に徐々に亀裂が開いていきます。
さらに注目して欲しいのが、(地図を見ると分かりますが)近畿地方の大部分に畠山氏・朝倉氏が残っている部分です。
「信長の天下=全国」ではなく畿内だったかもしれない説は過去記事でお話ししましたが、信長が上洛を達成した時点では畿内を掌握しきった訳じゃないのが分かるかと思います。
それでも織田信長はこの時点で既に畿内で一番有力な存在です。信長の目標が『天下布武』である以上、畿内周辺の大名たちは服属するか抵抗するかの選択しかありません。
各大名たちは信長に対抗したくとも1対1では既に厳しい状況です。そこで周囲の大名達が行ったのが信長包囲網です。
浅井は妹のお市との婚姻を介して同盟を組んでいましたが、信長が約束を反古にした事などを理由に朝倉派につきました。突然の裏切りに命からがら逃げ伸びた信長は、体勢を立て直して徳川家康と共に浅井朝倉と戦います(=姉川の戦い)。
姉川の戦いの後には三好三人衆…と次々に襲撃を受け、抵抗するための軍事動員が本願寺を刺激して本願寺が包囲網に加わり…と信長にとっては散々な状況に陥りました。
更に悪いことは続くようで伊勢長島で一向一揆が起こります。一向一揆ということで蜂起したのは『本願寺の門徒』たち。完全に今回の戦いに呼応していますね。この一向一揆で信長の弟・信興が戦死しています。流石にマズいということで、義昭の仲介で正親町天皇の勅命を奏請し浅井朝倉と和睦。
この一連の戦いが終わると苦戦した原因を浅井朝倉を匿った延暦寺と捉え、その延暦寺を信長は焼き討ちしたと言われます(近年焼き討ちはなかったという説も出てハッキリとしていません)。世にいう比叡山の焼き討ちです。
こうして第一次信長包囲網は『浅井朝倉との和睦』と『比叡山焼き討ち』を持って終わりを告げたのですが…
第二次信長包囲網と第三次信長包囲網
第一次信長包囲網をどうにか潜り抜けた信長でしたが、相手の目的は達成されていないため虎視眈々と狙われました。
結局第二次・第三次の信長包囲網を築かれてしまいます。この時に大名達をまとめ上げる中心となったのは足利義昭。足利義昭は室町幕府復興のために行動して実際に成し遂げるような人物ですから、大人しく傀儡となるような性格ではなかったのです。
第二次は浅井朝倉に加えて戦上手な武田信玄も出てきます(=長篠の戦い)。絶体絶命かと思われた時期もありましたが、武田信玄が病没。
信長にとっては最大のピンチを脱することができましたが、義昭は逆に追い詰められ自ら挙兵。あまりにも意にそぐわない行動ばかりすることから信長はついに義昭を京から追放し室町幕府を事実上滅亡させてしまいます。
この動きに対する大名たちの動揺をついて、浅井・朝倉・三好と次々に畿内の有力大名達を落としていきます。
第二次信長包囲網を切り抜けた後【1575年】の地図です。
だいぶ勢力を広げているのが分かるかと思います。この時点では流石に甲斐の武田氏を滅ぼすまで至らなかったようです。
第二次信長包囲網に対してどうにか切り抜けた後は長年苦しめてきた本願寺の番。朝倉の地を領土内に組み込んだ後、旧朝倉家臣に任せてましたが内部で諍いがあった隙に本願寺に領地を奪われたためです。もちろん領地での一揆やその他諸々で苦汁をなめさせられてきた目の上のたん瘤って理由もありますが。
上杉謙信との戦いや身内の離反などが重なり難しい時期もありましたが、最終的に本願寺は信長の降伏勧告を受け入れた形で第三次信長包囲網を切り抜けています。
最終的に信長包囲網を切り抜けた【1582年】の勢力図が下の地図です。
織田信長、本能寺に散る
当初の目的、畿内を治める『天下布武』以上に領土を治めることになりました。ところが、1582年信長にとって思いもよらぬ出来事が生じます。本能寺の変です。
(現在の暦で)1582年6月21日、信長の家臣・明智光秀の謀反により襲撃されました。
わずかな手勢で本能寺に逗留していた信長は、圧倒的な兵力差で寝込みを襲われ無理だと悟ると自ら寺に火を放ち自害したのです。
享年49歳のことでした。
この後、天下は豊臣秀吉、徳川家康と継承されていきます。信長の影響は両者に政策などで確実に後世に受け継がれていったのです。
なお、謀反を起こした理由についてはハッキリせず、様々な説が提唱されてます。