明智光秀の密書の発見により、本能寺の変の考察が変わるかもしれない!?
天正10年6月2日(1582年)早朝、京都の本能寺に宿泊していた織田信長を家臣である明智光秀の謀反により襲撃した事件が起きます。
この【本能寺の変】で天下統一目前で織田信長が歴史上から姿を消しました。
この事件で信長を討ったのは明智光秀と言うのはハッキリしていますが、長年その動機が解明されないまま、たくさんの研究者たちがその謎に迫っています。
その中では、信長に辱められた【怨恨説】や天下取りの【野望説】家康や秀吉による【黒幕説】など様々な見解で、光秀の動機に迫っていました。
そして今回、明智光秀のある密書の発見により、様々な考察が上がっているようです。
明智光秀の密書
その書状とは、明智光秀が本能寺の変で織田信長を討った後、紀州の武将に送ったとみられる手紙の原本だそうです。写しの存在は知られていたそうですが、光秀の自筆とみられる筆跡などから、当時の心境にも迫れる史料となりそうです。
その原本は、縦11.5㎝、横56.7㎝の書状で、光秀の筆跡や花押が確認でき、約2㎝幅の細かな折り目などの様子から密書の特徴が認められました。
この書状を発表した教授の見解から、その書状の中身を分析すると【将軍足利義明を奉じ室町幕府を再興する】と言う明確な政権構想があったとしています。
足利義昭と言えば、信長によって追放された室町幕府15代将軍ですが、光秀は【室町幕府の再興】のために、信長を討ったと教授は考えているようです。
気になる書状の中身ですが、紀伊雑賀における反信長勢力・土橋重治から受けた支援に返礼する内容だとか。また、【上意(将軍級の貴人)】が【御入洛(京へ)】来る計画についても既知のものと記しています。
この事から、追放された義昭を京都に呼び戻す目論見だったことが推測されます。
ここからは私的見解です。↓
こうなると、足利義昭さんが本能寺の変に一枚かんでいた可能性が出てきますね。
義昭黒幕説もささやかれているので、義昭説が有力になってくるのかもしれません。
光秀が信長に仕えた経緯を見れば、怨恨説より義昭がらみで、長宗我部、毛利家も絡めて幕府再興を目指すと言う方がしっくりくるような気がします。
主殺しを正当化するには、将軍を奉じるのが手っ取り早い大義名分なのかもしれません。その方が、他の大名を味方につけやすいですし…
しかし、いくらこの書状が発見されたからと言って、これはあくまでも推測ですから、光秀の本心が室町幕府再興だったとは言い切れません。
大義名分で義昭を利用したのものの、信長を討った動機はまた別にあるかもしれませんし、この書状からは決定的なものは分かりませんし、これだけで長年の謎を決定つけるのは早計だと思います。
これまた、研究進み、新たな史料が出てくれば本能寺の謎は解けていくかもしれません。