親子二代の下克上、斎藤道三の美濃統一への道
織田信長が美濃攻略後に拠点とした岐阜城は、鎌倉時代の1201年に二階堂行政が築城したとされています。
室町時代に入ると、美濃国の守護・土岐氏の守護代である斎藤氏が、それまで廃城となっていた稲葉山城を修繕し居城としました。
1525年には、斉藤氏家臣・長井長弘が謀反を起こし稲葉山城を乗っ取り、長井氏の支配下となります。この長井氏を討ち稲葉山城を手に入れたのが、美濃の蝮と恐れられた斉藤道三でした。
一般的には、京都山崎の油売りから身を起こし一代で美濃一国を手に入れ、下克上の代名詞的な道三ですが、近年の研究によるとこの下克上物語が、親子二代の物語だったと考えられており、定説になるつつあるといいます。
斉藤道三の父が地盤固め
道三の父は松波庄五郎と名乗っており、藤原北家・日野氏の流れをくむ家系出身と言われています。
油商人の奈良屋の娘婿になり、商売を通じて美濃の斉藤家に出入りするようになり、家臣の長井秀弘と仲良くなりました。秀弘は、庄五郎を大変気に入り、家臣の西村三郎左衛門の養子として後を継がせ、西村勘九郎として取り立てました。
長井秀弘が合戦で戦死すると、嫡子の長弘が家督を継ぎ斎藤氏の重臣となります。
その頃から西村勘九朗は、長井家で頭角を現しており、その才能を買っていた長弘は、守護の土岐政頼に勘九朗を引き合わせました。
1517年に、土岐氏で嫡男・政頼と次男・頼芸による家督争いが起こります。そこで、長井長弘は、土岐頼芸の主君だったこともあり、西村勘九朗は頼芸にも信頼を勝ち取り、一気に重臣まで上り詰めていきました。
この時に、長井姓をもらい受け【長井新左衛門尉】と名乗りました。
土岐氏の家督争いで大活躍を見せ、1525年には嫡男・土岐政頼を討ち、頼芸の守護職就任に大きく貢献しました。
斎藤道三の登場と美濃の統一
1533年頃の文書に、長井新左衛門尉との連署で【藤原規秀】の名前が書かれています。
これが斉藤道三のことで、この頃から登場することになります。研究では、同じ時期に、父・新左衛門尉がなくなっており、父の遺志を道三が継いだと考えられています。
道三は、依然美濃国の実権を握っていた長井長弘を排除しようと、先の家督争いで破れた土岐政頼と内通してたと謀り、その名目で長弘を討ち取ります。そこで、道三は【長井新九郎規秀】と名乗るようになります。
ここから道三の快進撃が始まります。
1535年には、土岐頼芸と土岐頼純との争いで六角氏・朝倉氏が加担したことにより、美濃全土で争いでが勃発します。
1538年、美濃守護代・斉藤利良が病死すると、斎藤氏を継いで【斎藤新九郎利政】と称しました。翌年には、稲葉山城に入り、城の改修工事を手がけています。
その後すぐに、仏門に入り【斎藤新九郎道三】を名乗ります。
1541年に土岐頼芸の実弟・頼満を道三が毒殺したことにより、土岐氏と関係が悪化。
土岐頼芸と頼次を尾張へ追放し、美濃を事実上支配します。こうして、道三は念願だった美濃の実権を握ることができ戦国大名までのし上がりました。
図で見るとわかりやすいです。
織田氏との同盟と信長の婚姻
美濃を追放された土岐頼芸は、尾張の織田信秀を頼り美濃へ再三攻撃を仕掛けました。
また、越前の朝倉孝景の庇護を受けていた土岐頼純とも連携し斎藤道三は窮地に立たされます。この攻略戦で、頼芸は美濃の北西にある揖斐北方城の奪取に成功します。
1547年の加納口の戦いで織田信秀が稲葉山城を攻めますが、道三は篭城し織田軍を奇襲し壊滅まで追い込みました。同じ年の11月に土岐頼純が病死すると、美濃攻めの隙を突かれて今川義元に攻められていた織田信秀と和睦をします。
この時、娘・濃姫を織田信秀の嫡男・信長に嫁がせる事により、和睦が成立し道三は織田氏との対立を避けることができました。この斎藤家・織田家の婚姻は、信長の爺でもある平手政秀の働きによるものが大きかったそうです。
舅・道三と婿・信長の初対面の正徳寺での有名な逸話がありますが、この信長の振る舞いに、道三自身もいずれはわが家臣たちは、信長の家来になるであろうと言ったそうです。史実では道三の言うとおりになりましたね。
信長との会見後、織田家の支援を受けて1552年に揖斐北方城の土岐頼芸を尾張へ再び追放し美濃平定をします。
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斎藤義龍のクーデターと道三の討ち死に
斎藤義龍の母・深芳野は、元は土岐頼芸の側室で、後に斎藤道三の側室となりました。義龍は、深芳野が道三に嫁いですぐに生まれたため、土岐頼芸の子ではないのかと噂がありました。
斎藤家家中では、土岐氏旧来の家臣たちの反発が強く、道三自身も手を焼いていました。そこで、1554年に家督を義龍に譲り、土岐氏旧来の家臣たちを収めるために義龍が稲葉山城の城主となりました。
しかし、この隠居は形だけで実質の権限は道三に有り、さらに義龍の弟である正室の子を寵愛していたので、道三は義龍を無能扱いをして、最終的には廃嫡する事まで考えていたようです。
このような道三の振る舞いに不満を募らせいていた義龍は、1555年に実弟達を叔父である長井道利と共謀し、殺害し斎藤道三の討伐を決行します。この時、後の美濃3人衆である、氏家卜全・稲葉一鉄・安藤守就の旧土岐氏家臣たちは義龍に味方したため、道三は織田信長に援軍を要請しました。
1556年、斎藤義龍17000VS斎藤道三2500の軍勢は、長良川河畔で戦いを開始します。
この時、道三は娘婿の織田信長に美濃を譲り渡す旨の遺言書を渡していました。また、この戦いで、無能と罵っていた義龍の采配を目の当たりにして、その評価を改めたそうです。舅のピンチに娘婿の織田信長は急ぎ援軍を出しましたが、間に合わず道三は討ち死にします。
その後の斎藤家
戦いの後、斎藤義龍は長年の内乱で混乱していた美濃国をまとめ上げ、内政では宿老による合議制を取り入れつつ、道三政権では実現できなかった斎藤家をまとめ上げることに成功しました。
道三亡き後、北近江の浅井久政とも戦い勢力拡大を図りますが、ここぞのタイミングで織田信長の美濃侵攻が激しくなり勢力拡大は果たせませんでした。道三と違い斎藤家を上手にまとめた義龍でしたが、1561年に35歳の若さで亡くなりました。
その後、斎藤龍興が継ぎますが、相次ぐ織田家の侵攻や旧来の重臣たちの流出により1567年の稲葉山の戦いで戦国大名としての斎藤家は滅亡することになります。