戦国時代

織田信長はどうして居城を次々と変えていったのか?① 那古屋城~小牧山城

歴ブロ

織田信長を調べていくと、居城を次々に変えていた※ことが分かります。

この記事では信長の戦略・領地展開を居城の移転という視点から見ていきます。

信長はこれまで、

那古屋城 ⇒ 清須城 ⇒ 小牧山城 ⇒ 岐阜城 ⇒ 安土城

とその時の状況に応じて居城を変えていきました。

信長がこのような考えが出来るのには、父である織田信秀の存在があったからでしょう。信秀もはじめは勝幡城を居城としていましたが、1532年には那古屋城を手に入れ、その後古渡城に移りそこを居城としました。

そんな父の背中を見ていたからこその戦略だった言えましょう。

れきぴよ
れきぴよ

戦国大名たちは、本拠地をあまり変えることをしませんでした。

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那古野城(名古屋城)

那古野城は1532年まで今川氏豊の居城として現在の愛知県名古屋市中区にあります。1532年 那古野を手に入れた織田信秀はまだ幼かった信長に那古野城を譲りました。信秀は三河の攻撃に備え、古渡に城を築きそこを居城としています。

この時に幼いながら那古野城城主となる訳ですが、信長が自分の意志で城を運営していくのは1536年の元服後だと思われます。

父である信秀はこの頃、美濃の斎藤道三と三河の松平清康(家康の祖父)を交互に相手をしていました。しかし、三河の松平清康が他界すると東海一の弓取り今川義元と対峙する事になり、今川氏に押され始めます。

戦上手の信秀もさすがに日本のメジャー級武将2人の相手は分が悪く、1548年美濃の斎藤道三と和睦をすることになります。その証として嫡男信長と道三の娘濃姫との政略結婚が交わさせれます。

織田家の家督争いと斎藤道三の死

1551年 信秀が急死し、信長が家督を継ぎますが織田家に家督争いが起こります。

当時の尾張は清須城城主 織田信友が実権を握っていました。信長の織田家はその家臣にすぎなかったのにも関わらず、父の信秀の活躍で尾張の西部を統治するまでになっていました。

父 信秀の死後、信長の家督相続に異を唱えたのが清須城の尾張守護織田信友でした。信友は、家督を弟の織田信行を支持して信長と対立をします。ここで信長は、守山城城主叔父の織田信光の協力を仰ぎ反信長派を一掃します。

ここで信長が清須を抑えて清須城城主となります。

この清須は鎌倉街道と伊勢街道が合流する交通の要で尾張国の中心として栄えています。そのため、那古野を叔父信光に託し、自身の居城を清須城に移すこになります。

名実ともに織田家の当主となった信長ですが、その器量に疑問を呈した織田家古参の重臣林通勝・柴田勝家らは信長を廃して弟の信行擁立しようとクーデターを企てます。

信長側には、森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方して両社は対立をします。

そのさなか1556年 美濃の斎藤道三の息子義龍が反旗を翻し道三が討たれることになります。道三の死去を好機と信行派が同じ年の8月信長に挙兵するが敗北を喫します。

信長は城にこもった信行を包囲したが、母の仲介によって彼らを許しました。

これに感激した柴田勝家ら重臣は以後忠誠を誓う事になります。

1557年 信行が再び謀反を企てるが、信長と通じていた柴田勝家の密告により、策を講じて信行を殺害することになります。

この頃、尾張上四郡の支配者である織田伊勢守家の織田信賢との仲が悪くなります。

一説によると斎藤義龍の調略とも言われています。そこで信長は信賢を討つ事にします。その際、従兄である犬山城城主織田信清の助けを借りて滅ぼすことに成功します。

こうして1559年に事実上尾張の実権を握る事となります。

その後は皆さんも知っている様に、1560年 桶狭間の戦いが起き東海一の弓取り今川義元を討ち、織田信長の名は日本中に知れ渡ることになります。1562年 徳川との清須同盟が交わされ、徳川を今川・武田の盾とすることにより、後顧の憂いなく美濃攻略と上洛を果たすことが出来きるようになりました。

ここから信長は美濃攻略のために動き出します。

美濃攻略のため清須城から小牧山城へ

尾張の実権を収めた信長ですが、北部の犬山城を中心とした従兄の織田信清の勢力圏と互いに独自勢力として存在していました。

信清と言えば、織田伊勢守家の織田信賢を攻める時に協力してくれた功労者です。

織田信賢の旧織田伊勢守家の領地は、信長と信清で分けたのですが、その分け前に信清は不満をもっていました。その不満を知った当時の美濃の斎藤家当主義龍は、寝返るように調略を駆使します。その調略が義龍の死後に効果が現れることになります。

おそらく斎藤義龍は桶狭間以前から調略に励んでいたとされています。織田信賢を討った時にはもう調略にかかっていたかもしれません。

1556年に斎藤道三を討った息子義龍は、かつての婚姻関係をなかった事にするかのように織田家にチョッカイをかけていきます。その成果が、織田家の家督争いだったのでしょう。義龍は父道三に劣らず智謀に優れた武将だったようです。

美濃国攻めの好機

一通りの揉め事を収めた信長は、今度は美濃に目標を定めます。

ここで信長に転機が訪れます。

1561年 厄介な斎藤義龍が急死したのです。

信長はチャンス到来と美濃へ攻めますが、竹中半兵衛らの活躍により辛くも敗北を喫しています。そんな中の織田信清が斎藤家に寝返ってしまいます。こうなったらもう美濃どころじゃなくなってしまいます。

尾張の北部が斎藤家の帰属となると、美濃攻略にはこれをどうにかしなくてはいけません。信清の居城である犬山城を攻め落とそうと言う事になるのですが、犬山城はそう簡単に落とせないお城なのです。
この犬山城は、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた山城です。実は信長軍は山城攻めをしたことがありませんでした。そのためには、軍を訓練しなければいけませんでした。

小牧山城の築城

清須には山がありません。

そこで信長が考えたのが、小牧山に城を築くことです。訓練もでき犬山城攻略の足掛かりにもなるので一石二鳥と言ったところでしょうか?おまけに、稲葉山城も見える絶景地でもありました。

そして1563年小牧山に城を築きました。信長が初めて築城した城です。

以前までは、岐阜城のつなぎ的な評価を受けていた小牧山城ですが、近年の発掘調査により城下町を新設し、さらは本丸には石垣を張り巡らせてあり、その構造は安土城にそっくりな城郭だったことがわかりました。

この小牧山城は美濃の稲葉山城攻略に備えて築城されたとよく聞きます。しかし、築城を開始した当時の状況や城の位置を踏まえると、小牧山城は犬山城攻略の拠点と見る方が自然です。

結果的には小牧山築城の4年後に稲葉山陥落となりましたが、おそらく信長は長期戦を見据えての居城移動だったのではないのでしょうか?

1564年の竹中半兵衛らの稲葉山城乗っ取り事件が起こらなかったら、稲葉山城攻略はまだ先の話だったかもしれません。

小牧山築城後信長は、犬山城の支城ネットワークを断つために支城を攻略していきます。これは武力行使と言うより調略による攻略がメインだったとされています。

こうして犬山城が孤立したところで包囲するだけなのですが、1564年このタイミングで稲葉山城乗っ取り事件が発生します。信長は早速、乗っ取りの主犯竹中半兵衛に稲葉山城明け渡し交渉をしましたが決裂、半兵衛はわずか6か月で斎藤龍興に城を返してしまいます。

この一件で斎藤家の内部分裂が明るみにでます。ここからは信長の怒涛の調略で西美濃三人衆と竹中半兵衛を引き入れることに成功します。

そして、美濃の激しい攻城戦を勝ち進んでいき、1567年稲葉山へ兵を進めることとなります。

ここから、岐阜城~安土城となってきますが、話が長くなりましたので、次回に繰り越しさせていただきます。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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