戦国史

【チャットGPT】で信長・秀吉・家康の生涯を聞いてみたら驚きの答えが!!

歴ブロ

今や政治のニュースでも話題に出てくるのがですが、ChatGPT公明党の山口那津男氏が自分の事を聞いたら、そのような人物は存在しないと言われたそうです。

横須賀市では試験的ではありますが、チャットGPTを導入するそうですが、教育の現場では、読書感想文に使用される恐れから禁止にすると言われています。ニュースなどを見ていると、日本では積極的に導入の動きがある一方で、欧米諸国では規制論が広がっているようです。

私が実際に使用してみると、画面下に注意書きでチャットGPTは人・場所又は事実に関する不正確な情報を生成する可能性が有ると書かれていました。

試しに「昔話の桃太郎を教えて」と質問してみたところ、犬・猿・キジを連れて鬼退退治までは良かったが、話の中盤に【道案内をしてくれた老人から、おにぎりと、日本刀を貰いました。】との記載が…

少し私の知っている桃太郎と違う展開に驚きましたが、最終的には鬼を退治してめでたしめでたしの内容でした。

前置きが長くなりましたが、そこで今回はチャットGPTは日本の偉人たちをどれほど知っているかを確かめるべく、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の生涯について聞いてみました。

※文章はチャットGPTの文章をそのまま引用しています。

スポンサーリンク

徳川家康の生涯をチャットGPTに聞いてみた

質問文:徳川家康の生涯について

徳川家康は、1543年1月31日に、①現在の静岡県御殿場市にある遠江国(現在の静岡県)の小山町で生まれました。父は水野信元、母は於大の方という女性でした。

家康は、幼少期に父の死や家康自身の病気など多くの苦難を経験しましたが、②天正10年(1582年)の本能寺の変をきっかけに、当時の天下人であった織田信長に仕え、従軍することとなりました。

しかし、織田信長の死後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下を統一し、家康は彼の下で活躍することとなりました。③豊臣秀吉との抗争の中、家康は天下人としての地位を確立し、小田原征伐や朝鮮出兵などの戦いで勝利を収めました。

そして、1603年、家康は江戸幕府初代将軍として、日本の支配者となりました。家康は、江戸を幕府の中心地とし、幕府の組織や政治システムを整備するとともに、外交政策にも力を注ぎ、④オランダやイギリスなどのヨーロッパ諸国との交流を進めました。

家康は、江戸時代の代表的な政治家であり、また文化の保護・発展にも力を注いだことで知られています。彼の業績は、現代の日本においても大きな影響を与えています。家康は、⑤1616年4月2日江戸城内の本丸御殿で死去し、日光東照宮に葬られました。享年75歳でした。

さて答え合わせをしてみましょう。

①…徳川家康は、同じ静岡県でも岡崎城で生まれ父・松平広忠と母・於大の方との嫡男として生まれています。よって生まれた場所も違うし、父親もメチャクチャです。水野元信だったら【兄妹で子供を産んだんかい!】と突っ込みが来ます。

②…本能寺の変までかなり省略されているが、変の後に織田信長に仕えたようです。本能寺の変ではいったい誰が明智光秀に討たれたのでしょうか??気になります…

③…信長の死後、秀吉の天下まではあっているようですが、豊臣秀吉と抗争の末に天下人とはなっておらず、ましては小田原征伐と朝鮮出兵は単独では行ってはいません。

④…幕府設立後は、無難な書き方をしているので嘘ではありません。外交政策もオランダとイギリスと国交を樹立している事から正解している模様。

⑤…徳川家康が逝去したのは、1616年4月17日駿府城で、日光東照宮は神格化した家康を祭っているのであって、埋葬されたのは【久能山東照宮】とされています。

読んでみて、江戸幕府を開いた人物という事は押さえてるいるようですが、秀吉時代の事は少しごちゃ混ぜになっているような気がします。

父・水野元信、母・於大の方と言うのはかなり驚きました。

オランダとイギリスなどのヨーロッパ諸国との交流はわかったのに、なぜに父親がわからなかったかは謎でした。

織田信長の生涯についてもチャットGPTに聞いたよ


質問文:織田信長の生涯について

織田信長は、1534年に①近江国(現在の滋賀県)に生まれました。父・織田信秀は足利将軍家の奉公衆であり、信長は幼少期から軍事教育を受けました。

1556年、父の死去に伴い家督を継ぎ、以降は近隣の勢力を次々と服従させて勢力を拡大し、1560年には桶狭間の戦いに勝利して尾張国の大半を制圧しました。

その後、信長は京都に進出し、③室町幕府の管領・細川藤孝を支援して、室町幕府に代わる新たな政権を樹立することを目指しました。しかし、藤孝が失脚し、反信長勢力の勃興により、信長は一時的に勢力を失うこととなりました。

1573年には、信長は織田氏の家督を継いだ弟の織田信雄と争い、信雄を滅ぼし、織田氏の実権を握りました。

信長は、当時の日本にあった戦国時代の混乱を打破し、天下統一を目指す野心的な人物でした。彼は、戦術や軍備の近代化、城郭の建設、城下町の整備など、数多くの改革を行い、独自の戦国大名政治を確立しました。

1582年、信長は自らの居城である安土城で、家臣の明智光秀の謀反により、突如として討たれてしまいました。享年49歳でした。彼の死後、豊臣秀吉が天下統一を果たし、江戸時代を迎えることとなりました。

織田信長は、日本史上最も偉大な戦国武将の一人として知られています。彼の功績は、日本の歴史や文化に大きな影響を与え、現代の日本にもその足跡を残しています。

織田信長も一見あっているようで、結構でたらめな事を書いています。

①…織田信長は、尾張国で生まれています。また、父・信秀は私が調べる限り将軍と謁見はしているようですが奉公衆では無かったようです。

②…信長の家督相続は1552年と少しずれがあるようです。1560年桶狭間の戦いはありましたが、この戦いは尾張の大半を制した戦いではありません。

③…個々の記述は、細川藤孝足利義昭にすると少し整合性が取れますが、反信長勢力は信長を苦しめますが、勢力を縮小するほどではありません。

④…織田信雄は信長の息子であり弟ではなく、1573年にはすでに織田家を掌握し、美濃の地までも手に入れています。

⑤…1582年に明智光秀に討たれたのは正解ですが、安土城ではなく本能寺です。信長死後は秀吉が天下を取りますが、この時代を江戸時代と言うのはチョット早すぎです。

なんとなく、誰かを擁立して京都に入り室町幕府を操ろう感は出ていました。最後も、明智光秀にやられたと言うのはわかっているようですね。

天下統一を目指す野心的な人物、戦術や軍備の近代化、城郭の建設、城下町の整備の記述は間違っていないと思います。

豊臣秀吉の生涯について

質問文:豊臣秀吉の生涯について

豊臣秀吉は、①1534年に尾張国(現在の愛知県)の清洲城(現在の愛知県清須市)に生まれました。生まれた時の名前は豊臣竹千代と言われています。

豊臣秀吉は幼少期から貧しい家庭で育ちましたが、勉学に熱心であったとされています。14歳の時、織田信長の家臣となり、戦国時代を生き抜き、1568年の信長による京都入り以降、その側近として重用されました。

信長の死後、②秀吉は豊臣家の家督を継ぎ、1573年には足利義昭を奉じた上洛に成功し、西国の大名を自らの傘下に組み込んで全国統一に向けて武力行使を行いました。1582年、織田信長が本能寺の変で死去すると、秀吉は織田家の後継者争いに巻き込まれることなく、自らの勢力拡大に専念しました。

1583年には、美濃国の斎藤龍興を滅ぼし、同年の賤ヶ岳の戦いで織田信雄を破って、信長の後継者として名実共に天下人の座を確立しました。

1585年から1586年にかけて、秀吉は九州征伐を行い、島津氏や大友氏などの勢力を従えて西日本における統一を完成させました。1590年には、北条氏政を破り、関東地方を制圧し、東日本の統一も達成しました。この戦いにより、全国的な一夫多妻制が禁止されるなど、様々な政策が行われました。

1592年からの文禄・慶長の役では、朝鮮半島への出兵を行い、日本軍は初めは勝利を収めましたが、後には朝鮮軍や中国軍との激戦となり、苦戦を強いられました。

1600年の関ヶ原の戦いでは、⑥東軍の徳川家康と西軍の石田三成が対立し、秀吉は石田方につきました。しかし、敗れた石田方の浅井長政が上杉家に投降し、徳川家康と同盟を結ぶと、秀吉は石田方の敗北を覚悟して、自らも上杉家に投降したとされています。

その後、⑦秀吉は家康との和解を図り、天下統一を成し遂げることができました。1603年、家康が征夷大将軍に任命されると、秀吉は大御所としてその庇護下に置かれ、大政奉還までの7年間、朝廷や大名の問題を取り扱い、全国統一に向けた政策を進めました。

しかし、秀吉は政治的にも個人的にも問題がありました。豊臣氏の家督を継いだ秀吉は、自らの家臣団を重用する一方、豊臣家の血を引く者たちに対しては不信感を持ち、彼らを監視下に置いていました。また、織田信長や豊臣秀吉のような一国の支配者が天下を統一することは、当然、膨大な人的、物的資源を必要としますが、このために秀吉は多くの労働力を要求し、人々の苦しみを招いたとも言われています。

秀吉は、1599年に病気にかかり、1600年には体調が悪化して、家康との和解に向けた交渉を進めることができませんでした。そして、同年9月18日、秀吉は57歳で亡くなりました。

秀吉の死後、その子・豊臣秀頼が家督を継ぎましたが、石田三成らの反乱が起き、関ヶ原の戦い以降、徳川家康の下で江戸時代が始まります。しかし、秀吉は日本の歴史において、最も優れた政治家・戦略家の一人として高く評価され、今も多くの人々に愛され続けています。

①…生まれは尾張で大丈夫でしょうが、農民の出なので清州城では生まれません。しかも、豊臣竹千代って…

②…1573年は、足利義昭が追放され室町幕府が滅亡した年です。

③…1583年賤ケ岳の戦いは正解ですが、戦いったのは柴田勝家ですね。斎藤龍興はすでに滅ぼされています。

④…九州討伐は1586年~87年。北条討伐は1590年であっていますが、その後の一夫多妻制の廃止は意味が分かりません。

⑤…唯一、正解が書いているのが1592年からの朝鮮出兵の記述。戦況も大体あっていました。

⑥…関ヶ原の戦いの記述ですが、すでに秀吉は死去しているのでこれ以降は、全くのでたらめです。

⑦…秀吉が天下を統一したと言う記述ですが全くのでたらめ。しかも、以降の青い部分に1600年に死去と書いているのにもかかわらず、1603年に大御所として君臨している記述があり矛盾しています。

貧しい家庭と書いていながら、清州城で生まれたと書いていたり秀吉に関してはかなり矛盾が多い印象です。フォローをするなら、賤ケ岳の戦いと朝鮮出兵、北条討伐は秀吉が起こした戦いとして認識していた事でしょうか?

また、年号の矛盾はあるが秀吉が天下を統一したという事は、チャットGPTでもわかっているようですが、関白・太閤の記述があれば良かったなと思いました。

今回は、信長・家康・秀吉の3人の生涯をチャットGPTさんに聞いてみました。

信長⇒秀吉⇒家康と時代は流れていますが、秀吉と家康がごちゃ混ぜになって印象を受けました。それぞれの生涯と言う広いテーマでしたが、今度は政策などに焦点を当てて聞いてみたいと思います。

しかし、こんなでたらめをあったかのように書いてしまうのですから、知らない人が見たらこれが本当だと思ってしまいそうなので、少し微妙な気持ちになりました。

ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
スポンサーリンク
記事URLをコピーしました