文武両道の教養人、細川藤孝(幽斎)のその人生
明智光秀を辿っていくと、細川藤孝の名が所々に出てきます。大河ドラマ『麒麟がくる』でも、第四話でも光秀と藤孝が初めて出会う描写がありましたね。
そこで今回は、河ドラマでも重要な人物になる細川藤孝(幽斎)について、人物像や経歴を中心に、わかりやすく解説したいと思います。
細川藤孝の概要
細川藤孝は、三淵晴員の次男として生まれ、細川元常の養子となり細川氏を名乗りました。最近の研究では、足利義晴の側近・細川晴広の養子だったのではと考えられています。
だから麒麟がくる第5話で登場した細川藤孝と谷原章介が演じる三淵藤英と兄弟となるわけですね。
兄ともに13代将軍足利義輝に仕え、その後足利義昭の擁立に尽力し義昭が京を追放されると、勝英は義昭の元へ、藤孝は信長の下へと従う事になりました。本能寺の変後は、秀吉→家康と主君を変え、肥後熊本藩の細川家の礎となりました。
また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人としても有名です。第79代総理大臣・細川護熙は細川藤孝の直系子孫なのは誰もが知る処です。
簡単な概要はここまでとしてまずは、細川藤孝の経歴を年表を追って流れを確認してみましょう。
細川藤孝(幽斎)の年表
- 1534年 三淵家の次男として生まれる
- 1540年 細川元常の養子なる(細川晴広とも…)
- 1546年 細川藤孝を名乗る
- 1552年 従五位下・兵部大輔(軍事行政を担当する指揮官)を任せられる
- 1565年 幽閉されていた足利義昭を救出し明智光秀を通じ織田信長に援助を要請
- 1568年 織田信長・足利義昭を奉じて上洛の折に同行
- 1578年 足利義昭の追放後、勝竜寺城の城主となり、長岡藤孝を名乗る
- 1580年 明智光秀の助力で丹後南部を平定、宮津城を築城
- 1582年 本能寺の変で光秀の誘いに乗らずが隠居。幽斎名乗り、家督を細川忠興に譲る
- 1586年 豊臣秀吉より山城西ヶ岡に3,000石を与えられる
- 1587年 九州平定に出陣
- 1598年 豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近する
- 1600年 田辺城の戦い
- 1610年 京都三条車屋町の自邸で亡くなる(享年77歳)
室町幕府の奉公衆として将軍に付き従い、不安定な戦国時代で、三英傑の元を上手く立ち回り77歳の江戸時代まで生き抜いた人物は大変珍しい事です。
細川藤孝の誕生と幕臣時代
1534年に三淵晴員の次男として京都で生まれた藤孝は、管領家に付ける家柄である細川家に養子になりました。管領に付ける家柄である細川家に養子に行ったことから、しっかりとした教育を受けることができ、教養や武芸を身に着けることができエリート街道を走っていました。
こうして幕臣として13代将軍・足利義輝に仕えることになったのですが、1565年に永禄の変で事態は悪化します。
剣豪将軍の異名を持っていた13代将軍・義輝でしたが激しい芸当の末、三好三人衆らに討たれてしまいます。この時に、義輝の弟・義昭が幽閉されたのですが、兄の三淵藤英らと共に、救出する手柄を立てたのでした。
この事件以降、細川藤孝は近江の六角義賢、若狭の武田義統、越前の朝倉義景に将軍擁立の要請に奔走する事になります。この頃は、神社から照明用の油を頂戴するくらい経済的にひっ迫した流浪生活だっといいます。
この時、細川藤孝32歳の時でした。
この流浪時代の朝倉氏に匿われている時に出会ったのが、明智光秀で彼もまた斎藤家が滅び朝倉氏にお世話になっていた一人でした。麒麟がくるでは、京都本能寺で出会った描写がありましたが、これは創作で実際は朝倉氏に厄介になっている時に意気投合したのかもしれません。
織田信長に出会い家臣へ
明智光秀に出った事は細川藤孝にとって人生のターニングポイントとなった事でしょう。
藤孝は、足利義昭の上洛・将軍擁立を明智光秀を通して織田信長に要請する事にします。そして、1568年に足利義昭の上洛が達成されると、これに従い山城勝竜寺城を三好三人衆から奪取し、大和国・摂津を転戦する事になります。
これをきっかけに、明智光秀と細川藤孝は織田信長の家臣と同じように働くようになりました。しかし、1573年の信長による足利義昭の追放をキッカケに正式に藤孝は織田家の家臣として光秀と同僚になったのでした。
この時、現在の京都府長岡京周辺に領地を貰い受け姓を細川氏から長岡氏を名乗るようになります。
その後も、機内各地を転戦し、高屋城の戦い、越前の一向一揆、石山合戦、紀州討伐などで活躍し、明智光秀の山陰地方攻略の与力としても活躍しました。また、1577年には信長に反旗を翻した松永久秀の討伐【信貴山城の戦い】にも従軍し光秀ともに戦いました。
細川忠興の婚姻
織田家の同僚となっても細川藤孝(この時は長岡)と明智光秀の深い親交は変わらず続き、両者しのぎを削って活躍していました。1578年には、信長の勧めもあり嫡男・細川忠興と光秀の娘・ガラシャの婚姻が決まると、細川家と明智家の絆が更に深いものとなりました。
この婚姻がキッカケに、さらに2人が行動を共にすることが多くなっていきました。
そんな折に、ある事件が起こります…
そう、本能寺の変です…
本能寺の変と細川藤孝
1582年に本能寺の変を起こすと明智光秀は、すかさず細川藤孝の下へ味方の要請をしますが、藤孝の決断は要請を断るという決断でした。
上記の流れから行けば、細川家だけは明智光秀の見方をすると思われましたが、親子ともども光秀の出陣要請を断り、藤孝に至っては出家してしまいます。
これには、諸説ありそもそも明智光秀は細川藤孝の幕臣時代に家臣だった事がありそこで両社の上下関係が出来ていたことから光秀の臣下になるのを良しとしない藤孝が丁重にお断りしたのではないかとも考えられています。
豊臣秀吉時代~徳川家康時代へ
本能寺変後は、秀吉に重用され九州平定に従軍し活躍しました。
秀吉時代では主に文化人として茶会などの仕事が多く、徳川家康とも親交が深かったとされています。そして、秀吉が亡くなる前後には既に豊臣家を見限っており、家康に急接近しています。
当然、関ケ原では細川家は東軍に付きました。
直前の田辺城の戦いでは、藤孝の持つ皇室の人たちが愛してたやまない古今伝授と呼ばれる和歌の解釈が失われといけないという理由で戦をやめるように、弟子である八条宮智仁親王から直々の講和要請がありました。
その理由が、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈が秘伝として師から弟子に伝えられるもので、 細川藤孝の頭の中にのみ、その解釈があるからなのです。
しかし、細川藤孝はこれにも応じなかったため、ついに後陽成天皇直々の勅令まで出る事になり、こうして細川藤孝らの命が助かり、田辺城の戦いが終息しました。
こうして、関ケ原の戦いの前哨戦で命を拾った細川藤孝は、これ以降1610年に亡くなるまで隠居生活を満喫しました。隠居していたのも京都東山周辺だったのですから、悠々自適な余生を暮らしたと言われています。