三好氏と畿内の覇権争いをしていた六角氏の戦国時代
応仁の乱の余波が全国に広がると、諸国では国人衆や地侍と言った階層の者たちが、室町幕府の奉公衆や公家、寺社の荘園を武力で奪い取って行きました。
9代将軍・足利義尚による六角氏征伐
室町時代に南近江を支配していた有力守護大名の六角高頼もその一人で、自国でる近江国の荘園を奪い取り、その勢力を拡大していました。また、近江国内の国人や地侍達に荘園を奪い取らせ、統治させる事で六角家臣団を形成していました。
六角氏による荘園の横領が余りにもはなはだしかったため、幕府は権威回復のために奪われた土地の奪回を図るために、1487年に9代将軍・足利義尚は、自ら六角氏征伐のために、京都を出立します。
兵士数では幕府軍が圧倒的に多く、六角高頼は不利に思えましたが、少数精鋭のゲリラ戦を仕掛け善戦します。戦況は一進一退の攻防が続き、幕府軍は六角氏の消耗を狙い、持久戦に持ち込みます。しかし、将軍本人が公家や僧侶と和歌や連歌にに興じ、御所に引きこもりになると、父・足利義政も政治的に無関心になってしまいます。
戦いが長期化し、幕府軍の士気が下がりかけた1489年に義尚が25歳の若さで急死すると、幕府軍は近江から兵を引き、六角高頼の罪は許されることになりました。しかし、1491年に10代将軍・義稙が再び六角征伐に兵を向け、高頼を追い詰めますが、捕えるまでに至りませんでした。それでも、高頼を甲賀まで敗走させる事は出来たので、将軍・義稙は六角討伐に一定の成果を上げたとして京都に凱旋しました。
明応の政変
ところが、1493年に密かにクーデターの機会を伺っていた細川政元のによる
明応の政変により、将軍・義稙は失脚し、11代将軍・足利義澄が擁立されます。これを機に甲賀で巻き返しを狙っていた六角高頼も勢力を盛り返し、幕府の討伐軍も返り討ちにするまでなりました。
しばらくは、管領・細川政元による政権運営が行われていましたが、細川家の家督争いで政元が暗殺されると10代将軍・義稙を擁立した大内義興が上洛し、義稙の将軍職復帰が成りました。
義興が政権を掌握すると11代将軍・義澄は六角高頼を頼りました。同じく足利義澄を擁立していた細川澄元が大内義興との争いに敗れると高頼は、大内氏らに一時的に帰順しました。
その後、近江の伊庭氏との戦いに勝利し六角氏は戦国大名化を成し遂げました。
六角家の最盛期を築いた定頼
六角定頼の代になると12代将軍・義晴、13代将軍・義輝を庇護し、居城・観音寺城を中心に、近江一帯をその勢力下におき伊賀や伊勢国まで影響力があり絶頂期をむかえていました。
定頼が家督を継いだ頃の幕府内では細川澄元と高国による細川管領家による家督争いの中で、政局は混迷を極めていました。六角定頼は細川高国側に付き家督争いに介入しました。
1520年の等持院の戦いでは澄元方の三好長秀を討ち取る等の武功を上げ、1527年の川勝寺口の戦いでも主力武将として細川澄元と晴元と戦いました。六角定頼の手厚い援助のおかげで細川高国は、1531年に戦死するまで何度も戦いに挑みました。
細川高国の死後、高国派だった六角定頼は幕府内で立場が悪くなることはありませんでした。それは、敵対していた細川晴元自身が、定頼が擁護していた12代将軍・義晴と和睦を求めていたからです。
晴元が擁立していた足利義維をないがしろにし、義晴に鞍替えをする方針転換に異を唱えたのが、三好元長と畠山義堯でした。それに対し、晴元は一向宗を扇動して両者を討ち取ります。しかし、この一向宗が暴徒化し、その尻拭いを六角定頼がすることになり、一向宗の鎮圧に成功し京都に平穏をもたらしました。
この山科本願寺の戦いの軍功で発言力を強めた定頼は、晴元に自分の娘を嫁がせて幕府内の立場を強めました。細川晴元と縁戚になった事で、幕政に介入できるようになった定頼は、13代将軍・義輝が就任すると、管領代として権力を振るいます。
1549年には三好氏の家督争いが勃発し、三好長慶と政長が戦う江口の戦いで政長側に細川晴元が付きますが、長慶に敗れてしまいます。
同じ年に観音寺城下町で楽市令を発布しており、これが日本史市場初めての楽市・楽座とされています。中央での定頼の活躍と並行して近江領内でも勢力を伸ばし、北近江の浅井久政を攻め込み臣従させています。
こうして六角定頼は、六角氏の最盛期を築き上げ、義賢に家督が継がれると、雲行きが怪しくなってきます。
観音寺騒動と六角氏衰退
六角義賢が家督を継ぐ頃には、細川晴元と三好政長との戦いで勝利した、三好長慶が三好政権を樹立して権力を掌握していました。中央の権力奪取のため、細川晴元と足利義輝を支援して三好氏に挑みますが、三好家の怒涛の勢力拡大に押される結果となります。
六角義賢は、嫡男・義治に家督を譲ると、1560年に浅井長政が六角氏に対して反旗を翻す野良田の戦いが起きます。六角親子は迎え撃ちますが、浅井軍に大敗を喫します。
野良田の戦いに勝った浅井氏は、六角氏から独立を果たし、北近江の支配を明け渡すことになり六角氏の近江での優位が崩れてしまいます。状況を打破しようと苦肉の策で、敵対してた斉藤義龍と同盟を結びますが決定打とはなりませんでした。
野良田の戦い以降は、京都への出兵を繰り返しており、三好長慶が政治に手を焼いて支配力が落ちている隙をついて、将軍山城の戦いに勝利して三好氏を京都から追放させることに成功しています。
1562年には義賢自ら京都へ入り洛中を支配しましたが、2か月ほどで三好長慶と和睦して近江へ帰還しました。この頃は、六角氏、三好氏、細川氏も繰り返した政争で疲れ切っており、六角氏に政権運営をするまでの余力はなかったとされています。
度重なる争いで六角氏の内部に不満が高まっていました。
1563年には、当主・義治が、重臣・後藤賢豊を居城・観音寺城で暗殺する事件が起こしました。
観音寺騒動と呼ばれるこの事件は、六角氏衰退の原因とされています。
後藤賢豊は信頼のおける家臣であり、その賢豊を殺害してしまったのは、六角親子の確執があったと言われています。親子の共同統治を目論んでいた、父・義賢でしたが、浅井・三好氏との苦戦が続く中で、共同統治体制が破たんしたのではないかと考えられています。
この騒動で六角氏の重臣が離れ、義賢・義治親子は、観音寺城から追い出される事になりました。その後、重臣の蒲生定秀・賢秀親子によって復帰が果たしますが、家督を義治の弟・義定に譲る結果となりました。
この事件による六角氏の弱体化は明確で、京都へ兵を出す余力もなく、浅井氏の対応がやっとの状態で、織田信長の上洛が果たされることになります。
織田信長の上洛と六角氏滅亡
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の途に就くと、義賢は観音寺城に立てこもり、徹底抗戦の構えを取りました。しかし、六角氏の求心力は失われており、9月12日の観音寺城の戦いで敗れ、義賢は甲賀へ落ち延びることになります。
その後は、浅井・朝倉氏、比叡山、三好三人衆らの反信長包囲網と共に、南近江でゲリラ戦を織田軍に仕掛けていきます。1570年には、織田軍主力の柴田・佐久間軍を苦しめ、1572年には琵琶湖南部に出兵し、一向一揆と共闘して織田軍を苦しめました。
1573年には琵琶湖東部まで進出し、鯰江城に入りました。
東から織田家に睨みを利かせていた武田信玄と呼応した形で、信長とその宿将らが城を攻めるも守り切ります。しかし、信玄が病死したことで信長包囲網が頓挫し、状況は一変します。
東の脅威がなくなった信長は、一気に浅井・朝倉を滅ぼし北近江を制圧します。
その勢いで南近江に攻め寄せ一度は凌ぎますが、1574年に六角義賢がいる菩提寺城と石部城が落城して戦国大名としての六角氏は滅亡しました。
その後、六角義賢は落ち延びて晩年は秀吉のお伽衆になったそうです。
お伽衆とは、秀吉の話し相手の役で、その人材の多くは脱落した名門の出が多かったそうで、足利義昭や斯波義銀、赤松則房、細川昭元などの元名門家が名を連ねていたそうです。