反信長勢力による【信長包囲網】 第1期 1568年~1571年
織田信長は1567年【天下布武】のキャッチフレーズのもと足利義昭を奉じて上洛する事に成功します。しかし直後に反対勢力による抵抗を受けて窮地に立たされることになります。
1568年頃から1582年の本能寺の変までの10年以上にも及ぶ信長の天下布武への厳しい道のりを3回に分けて書いていきたいと思います。
畿内の諸大名らによる信長包囲網
桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を収めてから破竹の勢いで尾張・美濃までも平定した織田信長。その信長が天下布武を掲げて上京してくるとなると、周辺の大名たちにとって脅威のなにものでもありません。
信長の影響力が強くならないうちにその芽を摘まなければいけません。
そんな打倒信長の利害が一致した畿内の大名たちが動き出します。
主な勢力として…
※戦国時代勢力図と各大名の動向ブログより画像をお借りしました。
- 南伊勢 北畠具教
大河内城の戦いに敗れ、信長の次男を北畠家の養子することで降伏をしているが、次男に家督を譲るのを先伸ばしながら密かに抵抗をしています。 - 南近江 六角承禎
近江守護を世襲している名門で観音寺城の城主。浅井家と抗争していたため、信長が領内を通る際に拒否をしている。浅井・朝倉の様子を見ながら織田家に反撃する機会をうかがっています。 - 北近江 浅井長政
信長の妹お市の方を正室に迎えていたが、信長が朝倉を攻めた際にたもとを分かつ。理由は諸説あるが、信長上洛の際に参陣した長政に対して恩賞がなかった不満があったとも言われています。 - 阿波 三好義継(三好三人衆)
この時期最も注意すべき大名家であった三好家。信長が上洛する以前に三好長慶が実権を握っていました。長慶死後、その一族である三好長逸・三好政康・岩成友通の3人が実権を握っていました。 - 越前 朝倉義景
足利義昭が信長を頼る前に身を寄せていた。もとは、越前の守護代として守護職斯波氏の家臣の家系であった。同じ斯波氏の家臣であった尾張守護代織田氏に服従できないプライドがあったため信長の上洛要請を拒否しました。 - 大和 筒井順慶
松永久秀と抗争していたが、裏では三好三人衆と通じていたようです。
このように、四方反対勢力に囲まれた信長は、東奔西走に戦いを繰り広げることとなった。わずか3年で17戦も自ら出陣しており、まさに戦いに次ぐ戦いの日々だったことでしょう。
その甲斐あってか
- 1568年 三好三人衆を山城・摂津から追放する。
- 1569年 北畠具教の大河内城を攻める
- 1570年 上洛に応じない朝倉義景を攻める
上記の戦功をあげています。
第一次信長包囲網
第1期信長包囲網でのキーマンは、浅井・朝倉家です。
1570年に信長は上洛に応じない朝倉を攻めることになります。戦況は、近江・越前の国境近くの天筒山・金ヶ崎城を落としましたが、直後小谷城の浅井長政に裏切られて、命かながら岐阜へと退却します。
その後、体制を立て直して裏切った浅井長政を徳川家康とともに攻めると、浅井長政は、朝倉家に援軍を要請します。姉川を挟んで織田・徳川連合軍VS浅井・朝倉連合軍がぶつかることになります。
この戦いは織田・徳川連合軍が勝利し、浅井は小谷城へ、朝倉は越前へ退却するが、両家を壊滅する程の打撃を与えたわけではありませんでした。
そのため、まだまだ信長を苦しめることになります。
姉川の戦いの後休む間もなく兵をあげたのが三好三人衆で、主力を率いて摂津へと兵を進めます。最初は様子を見ていましたが、三好勢が有利になってくると、信長は大阪へ打って出ます。完全に三好勢を包囲したところで、石山の本願寺も信長包囲網に加わることになります。
大坂にくぎ付けの信長の背後から、浅井・朝倉軍3万の兵が近江坂本まで出陣して、信長を背後から攻め立てます。ここで信長は一転して、大阪から近江へ向かうと浅井・朝倉軍は延暦寺に立てこもりまいた。
信長はすかさず、延暦寺に中立を要請しますが、荘園を信長に取られた怨みもありそれを拒否します。このため信長は、坂本に陣を置いたまま延暦寺にこもる浅井・朝倉軍と対峙しなければいけなくなります。【志賀の陣】
志賀の陣のさなか、伊勢長島の一向一揆が起き、弟が殺されてしまいます。これにより信長は、正親町天皇の勅命を奏請して浅井・朝倉と和睦をすることになります。
この志賀の陣で苦戦したのは延暦寺が浅井・朝倉に肩入れしたためと考えた信長は、後顧の憂いを断つために1571年9月に延暦寺焼き討ちを命じます。
浅井・朝倉との和睦と延暦寺焼き討ちにより第1次信長包囲網は終結することになります。しかし、反信長勢力はまだまだ健在で、和睦・休戦は一時的なものでしかありませんでした。
今度は、足利義昭と甲斐の武田信玄も包囲網に加わることになります…