麒麟がくる

春日局の父・斎藤 利三の最後まで忠義を尽くした生涯

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桔梗紋

明智家には、明智五家老と言われる中心的な重臣が居ました。

その一人に斎藤利三がいます。本能寺の変後の秀吉との山崎の戦いでは先鋒をつとめたとされる武将で、明智光秀が信頼した重臣でもあり、本能寺の変前夜に謀反の計画を打ち明けたうちのひとりでもありました。

また、利三は長宗我部元親とも親戚関係だっとも言われており、近年の本能寺の変の長宗我部説にも一枚かんでるとも言われています。

今回は、本能寺の変に深くかかわるであろう、斎藤利三について書いていきたいと思います。

 

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斎藤利三の出生

斎藤利三は、1534年~37年頃に美濃の白樫城主・斎藤利賢の次男として生まれました。

この斎藤家は、道三とは別家系の斎藤家で美濃斎藤氏の本来の斎藤家の血筋で、道三はこの斎藤家を乗っ取り美濃を治めていました。

 

明智光秀の叔母が斎藤利三の父に嫁いだことで、明智家と斎藤家は親戚筋として絆も強かったようです。しかし、父・頼辰(よりとき)は、石谷光政の娘と結婚し、名門・石谷家の養子となり、将軍・足利家に仕えました。

この石谷光政の娘が1563年に四国の長宗我部元親に正室として輿入れしていました。こうして、斎藤家と長宗我部家は親族となりました。

 

明智光秀と斎藤利三とのつながり

一説によると、利三の母は光秀の妹であると言う説があり、叔父と甥の関係だったのではないかとも考えられています。また、利三の父が明智光継の娘を後妻として迎えたとも言われ、光秀と利三従兄弟同士と言う事になります。

どちらの説かは、分かりませんが利三と光秀との間に密接な関係があったと考えられています。ただ、これらの説は後世に作られた系図によるものなので、確かな証拠はありません。

 

斎藤利三の経歴

明智光秀の重臣として知られる斎藤利三ですが、意外と光秀の家臣であった期間は短く、光秀の家臣として記録があるのが1578年頃でした。

利三が最初に仕えたのが、三好家の武将・松山重治(新介)と言われていますが、詳しい史料が無いためにそれ以上の情報がありません。

 

次に仕えたのが美濃の斎藤義龍の重臣・稲葉一鉄でした。

大河ドラマ【麒麟がくる】でも、明智光秀と稲葉一鉄の仲の悪るそうな描写が描かれていると思います。

 

利三は、同じ斎藤氏と言う事で道三の娘を正室として迎えており、義龍と義理ではありますが、兄弟同士の間柄でした。同じく、一鉄の娘も側室として迎えていましたが、家中での待遇が悪く一鉄との仲も悪かったようです。

この一鉄の娘が、斎藤利宗、三存お福を生み、お福が稲葉重道の養女となり、後の春日局として三代将軍・徳川家光の乳母として大奥で権勢を振るいました。

 

時が過ぎ、稲葉一鉄織田信長に寝返ると、そのまま一鉄の与力として織田家に編入されました。それでも利三の待遇が改善されなく、1570年の37歳の時に喧嘩別れをし、親戚筋の明智光秀を頼り、頭角を現し明智秀満を並ぶ明智家筆頭家老として重用されていきました。

記録が曖昧なのでいつの時期に明智家に仕えたのか定かではありませんが、1578年には記録が残っていることからこの時には親しい関係になっていたと思われます。

しかし、斎藤利三の移籍を巡り織田家中で一悶着があったようです。

利三は、一鉄の元を逃げるように去り光秀の家臣となった事で、一鉄の家臣を強引に召し抱えた形となり織田信長ともトラブルになりました。諸説あるようですが、この件で信長は光秀をひどくしかりつけたと言われています。

 

話が前後しますが明智家の家臣となった利三が、一鉄の家臣を引き抜こうともした事で状況が悪化し、信長も家臣の返還と利三の切腹を命じる騒動となりました。この時は、光秀の嘆願により利三の命は助かりましたが、明智光秀自身は信長にかなり説教を食い頭をたたかれたとされています。

この一件が、本能寺の変の怨恨説とも言われており、斎藤利三が間接的に信長を討たせようと画策したとも言われていますが、本能寺の変の説がたくさんありすぎでて定かではありません。

 

明智光秀に仕えたのは後発でしたが、丹波攻略の際にとても重用され利三も期待に応えていきました。その結果、明智家臣団の中でも一門衆と同じ扱いを受け、1580年には丹波・黒井城主となった斎藤利三は一万石の禄を賜っています。

 

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本能寺の変の原因とも言われている長宗我部との関係

明智光秀・斎藤利三と織田信長の関係性を見ていくと、避けて通れないのが長宗我部元親でしす。織田家は当時、長宗我部元親と手を結び、関係を深めていこうとしているところで、その外交窓口となっていたのが明智光秀でした。

これは、斎藤利三の兄の娘が長宗我部元親の正室と言う事からでした。

 

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当初、織田家と長宗我部家は良好な関係を築いていましたが、1582年に信長は方針を変え、織田信孝と丹羽長秀を派遣し四国征伐を進めていきます。

本能寺の変の理由として、四国攻めを回避するために信長を討ったとも言われています。また、先述した稲葉一鉄の家臣を引き抜こうとした事件も同じ時期に起き、この事件の4日後に本能寺の変が起きました。

 

本能寺の変で明智光秀が織田信長を討ち取る動機 以前の記事で、本能寺の変は明智光秀の発作的行動で、単独犯だったと言う説を書いて行きました。※これもまた一つの説にすぎません。 ...

 

近年、斎藤利三が長宗我部元親とやり取りをした書状が発見され、織田信長に徹底抗戦と考えられていた長宗我部元親が、武田家が滅亡したあと、織田信長に降伏する意向がこの書状に示されていたことが判明した事で、明智家が長宗我部元親との外交交渉を行っていたと思われます。

しかし、織田信長は四国攻めをすることを決定し、長宗我部問題と利三の引き抜き問題などの要因が重なり、光秀の堪忍袋の緒が切れて本能寺で信長を討つ決心をしたのではないかと考えます。

 

本能寺の変と斎藤利三の最後

明智光秀は謀反の計画を斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝、明智秀満などの重臣に打ち明けますが、その無謀な計画に利三と明智秀満は当初反対をしたと伝えられていますが、天下を取るにはまたの無いチャンスと言う事で、利三が主導的な役割を担ったとも言われています。

 

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そして、運命の1582年6月2日。本能寺にて織田信長を討った後、佐和山城に入って柴田勝家を警戒していたのですが、想定外の速さで中国地方から大返しを行った羽柴秀吉との山崎の戦い(6月13日)で決戦することなります。

戦では、斎藤利三が先鋒として円明寺川東岸に布陣し、池田恒興・高山重友と戦うも敗れ、近江の堅田で捕縛されました。

その後、羽柴秀吉の命で6月17日に六条河原にて斬首されました。

享年49歳でした。

その首は、明智光秀の遺体と共に、本能寺に晒されたと言われています。

 

斎藤一族のその後と春日局

斎藤利三の兄・石谷頼辰は、長宗我部氏を頼り家臣となりますが、羽柴秀吉の九州征伐の際に討ち死にしました。利三の長男・次男は生き残り、江戸時代に春日局の推挙で幕臣に取り立てられています。

 

裏切りの者の父を持つ春日局

斎藤利三を書く上で、避けて通れないのがお福(春日局)の存在です。

江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母となり、大奥で権勢を誇った人ですが、本能寺の変直後は、波乱万丈の人生を歩んでいます。

 

お福は、母方の稲葉家に引き取られました。

養育は、母方の親せきで三条家にて養育され公家のたしなみである書道・歌道・香道などを身に着ける事が出来ました。

その後は、小早川秀秋の家臣・稲葉正成の元へ嫁ぎました。

この稲葉正成は、関ケ原の戦いにおいて小早川秀秋を説得し東軍に寝返らせると言う、徳川家康を勝利を導いた功労者でした。

正成の関ケ原での功労とお福の家柄と教養の高さから二代将軍・秀忠の嫡男の乳母に任命されることになります。正成の嫡男・正勝も家光の小姓に取り立てられ、1623年には老中に就任し小田原藩主となっています。

 

その後は、春日局の影の協力で稲葉家は、綱吉の代くらいまで老中に任命される名門として、その地位を確立しました。

江戸時代終焉期に登場する、老中・稲葉正邦も16代稲葉家宗主として誕生しています。

 

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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