徳川家光による参勤交代の制度化の目的と理由
参勤交代と言えば、時代劇などの大名行列をイメージする人は多いと思います。
この制度は、1635年に武家諸法度の改正で徳川家光によって盛り込まれ制度化されました。参勤交代が制度化されたことによって、265年の江戸幕府の繁栄に大きく貢献しました。
今回は、参勤交代について目的などを踏まえながら簡単に説明していきたいと思います。
参勤交代とは?
参勤交代は、鎌倉時代に御家人の鎌倉への出仕し、将軍に対する服従儀礼として始まったのが起源とされています。
日本で初めて武家政権を開いたのが鎌倉幕府ですが、将軍から領地を与えられた御家人たちが、自領から鎌倉の地へ勤めに行くことから始まりました。
参勤とは、出仕して君主に拝謁し、一定期間将軍の居る地に滞在し、その後領地に戻ると言うものでした。
徳川家光が武家諸法度により制度化をした
江戸幕府の設立当初も、各藩主が徳川将軍家への服従を示すために江戸へ出仕していましたが、その頻度や江戸の滞在期間は各大名家の裁量で行われていました。この慣例を制度化しようと1635年に三代将軍・家光が武家諸法度に記すことで制度化されました。
こうして武家諸法度の【寛永令】に記載されることになり、参勤交代が各大名に義務付けられることになり、毎年4月に参勤する事になりました。
参勤交代では、各藩の大名は1年おきに江戸と国元を行き来しなければいけので、国元へ戻る場合は、正室と世継ぎは江戸に在中しなければいけませんでした。
江戸と国元までの旅費や江戸の滞在費はすべて自己負担とする事で、各藩の財政を圧迫し国力低下を招き結果、徳川家の勢力が長く続くことになりました。また、正室と世継ぎは江戸の大名屋敷に実質の人質を置くことにより、謀反の抑制となりました。
幕府にとっての要注意の大名家である外様大名は、江戸から遠く大名行列を行いながらの参勤交代は大きな負担となっていたようです。
武家諸法度【寛永令】の参勤交代の原文の条項では…
従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国群ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ
『武家諸法度・寛永令』より抜粋
と書かれており、参勤交代の大名行列では人数が増えすぎないように、また華やかなものになりすぎないように幕府側からも警告を出していました。この事から、幕府は必ずしも諸大名の財政悪化からの反乱防止を目的のために参勤交代をさせたのではなかったとも考えられます。
しかし、結果として諸大名の財政を圧迫する事になり、江戸幕府265年の統治に一役買った制度になり、幕末のペリー来航時の規制緩和まで続けられることになりました。
参勤交代の経緯と幕府の思惑
【参勤交代の目的は?】と聞かれるとほとんどの人が「えっ?大名の経済力を削ぐため、つまり大名を窮乏化させるために決まっているじゃないの?」と答えると思います。
ちなみに私もそうでした。
しかし、先述した通り武家諸法度で人数を少なくして派手にしないようにと書かれているので、必ずしもそうでなかったとされています。
この事を裏付ける文章が1983年の東京大学の入試問題に書かれていました。
参勤交代が、大名の財政に大きな負担となり、その軍事力を低下させる役割を果した
こと、反面、都市や交通が発展する一因となったことは、しばしば指摘されるところ
である。しかし、これは、参勤交代の制度がもたらした結果であって、この制度が設
けられた理由とは考えられない。どうして幕府は、この制度を設けたのか。戦国末期
以来の政治や社会の動きを念頭において、150字(句読点も1字に数える)以内で説
明せよ。
30年以上前の東大入試の問題に、参勤交代の目的は「大名窮乏化」にあったのではなく、あくまでも「結果であって、この制度が設けられた理由とは考えられない」とはっきりと書かれています。
じゃ、私が中学・高校で習ったのは何だよ…と言うことになります。
しかし、これは私たちだけではなく、教える人たちすら勘違いしていることかもしれませんね。この先はこの事を踏まえながら進めていきます。
参勤ではなく【参覲】だった!?
【覲】という字は【まみえる】の意味で本来はこちらが正しいそうです。
参覲というのは、一人の武将が他の武将に会いに行くことを指します。この会いに行くのが、服属の態度を示すと言う事で、この行動が相手に従うと証となります。
【まみえる】=【拝謁する】という意味を持つことから、参勤交代とは各大名達が徳川将軍に拝謁するために江戸まで出ていくことを指しているのが分かります。
日本中の大名達が交互(交代)で江戸に来る。
これが1年おきの大名達の【勤め】となった事から【参勤】となったと考えられています。
参覲の原型は、秀吉の時代で家康は小牧・長久手の戦いで秀吉に勝利しますが、政治的な圧力を受け秀吉に参覲(まみ)えに大坂まで行かなければならなかった出来事は皆さんは良く知っている事でしょう。
当の家康は戦に負けたわけではないので、その後独自の地位を築くが、わざわざ自分の領地を出て大坂まで行き、秀吉の前で「御礼」をする、つまり、徳川家が豊臣家に従うという儀礼を尽くすことが秀吉には必要だったのです。
この時代、「御礼」という行為が非常に重視されており、秀吉が朝鮮王国に対し日本へ御礼に来るように要求したのに来なかったから朝鮮出兵をしたとされています。北条攻めの時も、やはり北条氏が上洛して来ない事を理由に攻めており、自分に従うと言う確認を形に表す行為が参覲なのです。
1635年以前の参勤交代制度
では、「1635年の参勤交代制度の制定とはなんぞや?」となるのですが、それは先述したように武家諸法度の改正で明記され、制度化されたということです。
その内容が、西国の大名が3月末から4月初めにかけて江戸へ参勤する事、これまで江戸にいた東国の大名達は交代で国元へ帰り次の年の3月から4月にかけて東国の大名達がまた江戸に上り、交代で西の大名達が国元へ帰ると言うものでした。
これが徳川家光が武家諸法度に記載した参勤交代制度です。
1635年以前は各大名家が率先して江戸へ上り参覲していました。その元になったのが大名の親族を江戸に差し出すという行為から始まっています。
1596年に藤堂高虎が9歳の弟・正高を差し出しましたのが始まりでした。この行動が認められ、伊勢津藩の初代藩主となりました。秀吉の死後にこうした人質を江戸に送り込むと言う大名が増えていき、堀秀治が子・利重を浅野長政が長重を江戸に送り込み、細川忠興も三男を差し出しました。
浅野長政のような豊臣政権の中枢にいた人物も、自主的な人質提出で徳川家に敵意が無い事を示し生き残りを図っていったのです。
しかし、半強制的に人質を迫られたのが、加賀の前田家でした。
利家の死後に跡を継いだ利長は反乱の噂を恐れ、お家存続のために実母・芳春院(まつ)を江戸に差し出しました。
特に、関ケ原の戦い後はこうした動きが全国の大名家に拡大され、五大老の一人、毛利輝元も嫡男を江戸に差し出しています。こうした各地の大名の動きに幕府も江戸の地に邸地を提供し、大名達はそこに邸宅を建てました
邸地をもらうという事は「来年も来てください」と言う意味でした。
江戸に屋敷を作り一定期間そこで生活をし将軍に挨拶をし「国元へ帰っていいよ」と言われるまで滞在しました。この【参覲】が大きな大名家が行っていくと中小の大名家もお家存続のために江戸へ挨拶へ行くのが慣例化していきました。
以上の理由から、この参勤は幕府が強制して始まったのではなく、むしろ大名たちの方から率先して江戸に赴くという自然発生的なものとして始まったのが分かります。「自分は徳川の味方だと言うことを積極的に示すために江戸に向かった」ということですね。
徳川家としても自発的に大名家が江戸に来てくれるのはありがたいので、大名が来れば大いに歓待して、江戸市中に屋敷地を与えたのでした。その結果、小さな城下町だった江戸の地は、諸大名の屋敷が立ち並び爆発的に人口が増えていきました。
参勤交代の特例措置
1635年に制度化された参勤交代始まり当初はすべての大名家が対象ではなく、外様大名だけでした。それが、1642年に親藩や譜代大名にも参勤交代が義務化されています。
しかし、何事にも例外はあり、蝦夷との交流を独占していた松前藩は参勤交代で江戸へ行っていたら蝦夷地で反乱が起きてしまいます。そのため、松前藩は5年おき、江戸の在住期間は4か月とされていました。
対馬藩も貿易のために参勤交代の機関を短くしてもらっていたようです。
他には、長崎奉行を務めていた肥後藩と福岡藩は交互に100日と言うように期間が決まっていました。また、水戸藩のように江戸に極端に近い藩などは江戸にいつも藩主がいたため、参勤交代はしませんでした。
特例措置として藩主が就任したばかりや一揆などの事件が起きたときは参勤交代が先延ばしされることもありましたし、老中などの幕府の役人になっていた譜代大名も幕政を担う仕事があったので参勤交代は免除されていました。
思っていた以上に柔軟な形で運用されていたようです。
参勤交代の費用
各藩は全国各地にあったので、参勤交代で江戸へ行く日数や費用は様々でした。
江戸から近い藩は、1日や2日くらいの行程で済みましたが、九州地方の薩摩藩や熊本藩などは、江戸に向かうだけで2か月以上かかってしまう事がありました。
加賀藩の参勤交代
では、参考のために加賀藩の参勤交代ルートを紹介してみましょう。
加賀藩は、北国街道と呼ばれる街道を通り、越後~信濃を経て中山道経由で江戸へ向かいます。このルートで、金沢から江戸まで14日かかりました。
参勤交代は、4月に江戸へ行くことになっていますが、他の大名に出会ったら挨拶をしなければいかず、急なトラブルも起こらないとは限らないので出発の半年前からルートチェックは欠かせませんでした。
金沢~江戸間の14日と言うのは、何もトラブルが無かった時の行程で、このルートは難所が多く、天候などで足止めを食らうこともしばしばあったそうです。
大名行列
参勤交代は、藩主が江戸の赴任するようなもので、その家老やお抱えの料理人、医者なども同行する大所帯でした。約10万石くらいの中堅大名は約240人くらいの大名行列が幕府より推奨されていましたが、藩主たちは目立ちたいがために人数などを増やして盛大な行列を行っていたようです。
特に加賀藩は100万石もあるので、さすがは加賀藩の大名行列と言わせるために約4000人の大名行列を行ったとも言われています。さすがに、家臣や身の回りの人達で4000人は無理があったようで、半分はアルバイトを雇い見かけの行列を作ったとも言われ、参勤交代だけで5億円を使ったとも言われています。
ちなみに、江戸に藩主が行っている間の国元では城代家老と言われる人が藩主の代わりに藩政を行っていました。
大名行列のルール
ドラマなどで民衆たちが大名行列に出くわすと土下座をするシーンが描かれますが、頻繁に大名行列に出くわす江戸の街では民衆たちは土下座をする必要が無かったようです。
唯一土下座をさせられるのが、将軍家・御三家・御三卿だけで他の大名家は、脇によれと言われるだけだったと言います。
大名行列には藩によって様々な決まりがあり、近道をしてはならない、おしゃべりをしてはならない、宿に付いたら女遊びをしてはいけないなどの子供のような決まりごとがあったようです。
特に喧嘩には厳しく、喧嘩両成敗で切腹させられた武士もいたようです。
参勤交代の経済効果
参勤交代の制度により、各大名家による江戸での大きな有効需要が形成され、これが江戸時代の経済発展の原動力となりました。もし参勤交代が無ければ、それぞれの国元でその経済が回され江戸に富が集中する事がありませんでした。
宿場町の繁栄
参勤交代が始まった事により、大名が江戸に向かう街道途中の宿場町は大変な賑わいを見せるようになりました。さらに、各藩は大名行列のスムーズな行進のために、街道の整備や橋の建設などのインフラ整備を行いました。
江戸文化の逆輸入
参勤交代によって、国元を離れて江戸にやって来たことで江戸の文化が全国に広まることになりました。さらに、参勤交代でやって来た武士たちが江戸に集まり、江戸の人口が100万人を超える程になりました。
参勤交代制度の終焉
徳川家光により参勤交代が制度化されて200年以上が経ち、1853年に浦賀に黒船が来航し、日本に対し開国を迫り幕府が混乱状態になって行きます。
そのため、これからは各藩が軍事力を強化し、諸外国に立ち向かうべきだと言う意見が出始め、その軍事力の弱体化を促進していた参勤交代を緩める動きが出てきました。しかし、諸外国に立ち向かえるほどの軍事力を各藩が付けたら幕府にとっては内なる敵を作ることになります。
そこで、文久の改革時に参勤交代を3年に一回とし、江戸の滞在日数を100日に減らし、さらに人質として江戸にいた妻子を国元へ帰すことが許されました。
しかし、第二次長州征伐時に幕府軍が敗北したことによってその権威が失墜すると、参勤交代をしない藩が出始め、大政奉還に伴い幕府と共に参勤交代制度が廃止されました。