安土桃山時代

豊臣秀吉の死後、関白の位はどうなって、誰が就任したのか??

歴ブロ

どうする家康】の第39話では、ムロ秀吉の最後のシーンが描写されました。

元関白である太閤殿下が退場し、すでに2代目関白・秀次が事件で処分されてたことから、朝廷内で関白不在と言う事態になっています。ちなみにドラマでの秀次事件は、家康のセリフのみとなっていました。

そこで、わたしは一つの疑問を持ちました。

『秀次が死に、秀吉がいなくなった後の関白ってどうなったのか?』

そこで、今回は秀吉死後の関白職の行方について紹介して行こうとおもいます。

この記事は、2023年10月21日のYahoo!ニュースエキスパート掲載されている記事をもとにリライトしています。

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豊臣秀次事件後の関白職

秀吉が関白になり天下統一を果たすと、武士たちに朝廷の官位を配りまくります。

その中で武家を公家の家格を当てはめていきます。摂家を豊臣家、徳川や前田、毛利などの五大老家は武家の『清華家』と定めました。

れきぴよ
れきぴよ

清華家(せいがけ)は、公家の家格の一つで摂家の次ぎ太政大臣になることが出来る家柄です。主に、三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭の7家が名を連ねます。

そして、秀吉は関白を世襲する意思表示のために、甥の秀次に関白をゆずります。しかし、秀次事件で関白・秀次が処分されると、秀吉は朝廷に対して秀頼が成人するまで関白職を空位にするように要請したと言います。

こうして、関白職はしばらく空位となりました。

太閤とは関白を親族に譲ったときに呼ばれ、天皇でいうところの上皇のような立ち位置でした。現役関白ではないにしろ、朝廷内の権威は持っていたように思います。

秀吉没後の関白の行方

秀吉が亡くなると、官位を持った大名たちが戦地に赴いたり自領に戻ったりと都から遠ざかった上に、位の高い公家や大名たちの死と隠居が重なり、役職不足による朝廷運営が生き詰まりが生じます。

こうして、朝廷内での最高官位が内大臣・徳川家康と言う事態を招いてしまいます。

この状態にメスを入れたのが、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康でした。

1603年に徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開き、天下人となったと言われてますが、実情は豊臣秀頼が関白に就任するまでのつなぎ政権だと思われていた節がありました。

それを裏付ける出来事として、家康が諸大名を動員した江戸城の天下普請。豊臣家だけは、秀頼の直臣が奉行として采配する側に回っており、徳川の指揮下に入っていませんでした。

また、秀頼は全国の有名寺社の堂塔伽藍を復興させてもおり、その際も独自に地元の大名たちに奉行を当たらせています。この権限は、天下人でなければあり得ない事でした。

家康の心内は分かりませんが、幕府開設当初は豊臣家を滅ぼすのではなく、融和策を講じて気を使っていたようです。亡き秀吉の遺言通りにまだ7歳の千姫を秀頼の正室として豊臣家に送っていますし、まだ若い秀頼も着々と官位が上がっていきました。

それと並行して公家衆たちにも高位に復帰もさせており、1601年には信長時代に関白だった九条兼孝を復帰させました。この兼孝の関白就任は、豊臣家による関白政治をけん制する意図もあったと考えられています。

この時、豊臣秀頼は権大納言だった事で格上の左大臣・兼孝の関白就任は黙認していたようですが、豊臣家中では時期が来れば秀頼を関白にと思っていたことでしょう。

しかし、朝廷側は関白職が五摂家に帰ってきたのを機に、兼孝の後釜に近衛信尹を関白に就任させて『関白職は五摂家がなるもの』と無言のメッセージを送ります。この時も、豊臣家では、格上の信尹の関白就任位は言及はしていません。

1606年には、豊臣秀頼も順調に官位を上げて右大臣まで上り詰めていました。この頃になると朝廷と家康は、豊臣家排除の動きを見せます。次の関白人事に、右大臣の秀頼を飛び越える形で摂家・鷹司信房内大臣→左大臣兼関白に就任しました。

さすがに、秀頼を飛び越えての関白就任に意見をしたようですが、最終的に天皇が決める事なので受け入れ、翌年に右大臣職を辞しています。

そして、大坂の陣で豊臣家が滅びると家康は、武家官位と公家官位の切り離しを行い、さらに武家官位に至っては幕府の推挙が必要であるとしました。この政策によって、朝廷の役職不足が解消し、武家の官位は将軍本人を除き定員外と決められます。

こうして家康と朝廷は、豊臣秀吉以前の五摂家が関白を持ち回りする旧来のシステムを復活させることに成功しました。

摂政・関白は世襲できない役職

秀吉は関白を豊臣家の世襲としようとしていましたが、そもそも関白職は天皇を代行する官僚であることから、成人をした者でないと務まりません。

子供が子供を代行できるはずがありません。

摂関政治期では、藤原道長が頼道に摂関職を譲っていましたが成人しています。これは成功例で、必ずしもその時の摂関職に適齢期のご子息がいるとは限りません。

よって藤原氏も分家を経て五摂家と言うシステムを作って持ち回りをしていました。

この関白・摂政のシステムは、鎌倉時代の執権政治にも同じことを言えます。

将軍は天皇と同じく子供でも構いませんが、執権は成人でないと務まりません。そのため、北条氏では得宗で該当者がいなければ、分家で執権を持ち回りしていたのです。

豊臣秀吉は最高権力である関白を手に入れたのまでは良かったのですが、『関白の本来あるべき姿』を理解していたのかは疑問です。要するに関白・摂政は、成人まで待つのはもちろん、天皇の親代わりとして風格が出るくらいでないと皆が納得しないという事です。

20歳の若造が親ほど離れた天皇を補佐するなんて、一般的に違和感があります。

この辺りをしっかりと押さえていたのなら、秀次事件と言う悲劇は起こらなかったようにも感じます。その判断が出来なかったと考えると『秀吉はもうろくしていた。』と考えるもの無理はありません。

関白の空位が豊臣政権の終わり

秀次が切腹した事で豊臣家では関白のなり手がなく空位になります。

そして、関白が政治を行う豊臣政権は、秀吉が死去して太閤又は関白不在になった時点で、何らかの象徴を立てられなかった事で『根拠のない政権』となりました。

秀頼がいましたが豊臣家の家督相続者であって、朝廷での位は徳川家康ら五大老より格下です。そうなると、政権を運営する根拠がないのです。

こうなるといくら石田三成が忠義の為、政権維持に努めても滅びゆく運命だったのかもしれません。もし、関ヶ原の時に、豊臣政権としての関白が大阪にいたのなら家康の付け入るスキはなかったかもしれません。

以前記事にしましたが、これが豊臣秀吉の人材マネジメントの失敗になるのではないのでしょうか??

もし、豊臣秀次が秀吉にクーデターを起こしていたら、ワンチャン政権が続いていたかもしれません。秀次は優秀と言われており、彼を慕う人も少なくなく、現役の関白だった事でついてくる人もいたのではないかと思います。

そして、秀次⇒秀頼と関白職がスムーズに継承されたのなら、江戸幕府の設立はなかったのかもしれません。

鎌倉時代の北条義時は、父・時政を粛清して執権の座についています。

なにはともあれ、朝廷からしてみればどこの馬の骨かもわからない豊臣秀吉に関白を奪われ、公家社会の上位を野蛮な武家に独占され、メンツをつぶされた時代を過ごしてきたのです。

こうした状況を利用した家康は、本来の朝廷のあるべき姿に戻し混乱を治め、京都の貴族たちを味方につけることによって、豊臣家排除の足掛かりを得ることになったのでした。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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