徳川家康が江戸幕府を開くにあたり織田信長と豊臣秀吉から何を学んで活かしたのか?
織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らう徳の川
この歌は江戸時代に作られ、信長・秀吉・家康をうまく表現していると思います。
信長は桶狭間の戦いで勝利したのち、破竹の勢いで天下統一目前まで勢力を伸ばしました。しかし、1582年に本能寺の変で明智光秀に討たれてしまいます。
その後、信長の遺志を受け継いだ秀吉が、柴田勝家と徳川家康に勝利して天下統一を果たします。しかし、秀吉の死後の事業継承がうまくいかずに、1600年に関ヶ制し原の戦いを家康が制し、260年以上続く徳川政権の礎を築くことに成功しました。
そこで今回は、なぜ家康は信長・秀吉も成し得なかった長期政権を作り上げることが出来たのかを人材マネジメントの面で考察してみました。
この記事はyahooニュースエキスパートで書いたものを加筆して投稿しています。
織田信長はワンマン経営者だった!?
政治や軍事面でも新しいことをどんどん取り入れた時代の革命児とも呼ばれている信長。「天下布武」のスローガンを掲げて突き進み天下統一目前までこぎつけました。
常識に捉われない政策で力をつけてきた信長ですが、人への根回しが足りないことで何度も危機が訪れています。
その最たる例が金ヶ崎の戦いでした。
浅井長政との同盟の証として信長の妹・お市が嫁ぎ、同盟が成立。また、『朝倉家を攻めない』という同盟の条件も付けていましたが、それを踏みにじって朝倉攻めを信長は決め、金ヶ崎の戦いが勃発しました。結果は浅井長政の裏切り(同盟破棄)によって織田信長が惨敗。
この敗戦は義弟である長政に事前の相談や根回しがしっかりとあれば違う結果があったかもしれません。
ほかにも信長はよく身内から裏切られており、弟・信行や足利義昭、本願寺、松永久秀、三好義継、波多野秀治、別所長治、荒木村重など一度信長に臣従した者たちが、次々と反旗を翻しています。その極めつけが明智光秀で猜疑心が強い割には根回しをあまり行わず、慎重さに欠けるのも信長の欠点ともいえます。
ルイス=フロイスの【日本史】では、『信長が家臣の忠告にはほぼ、あるいは全く従わず』と評価していることから、ワンマン経営者であったと推測されます。秀吉のようにハマればよいですが、そうでない人たちにとってはストレスであり、それが後の反発や本能寺の変へと向かったのかもしれません。
家康が豊臣秀吉の失敗から学んだこと
人の懐に入り込み敵を味方に引き込む調略が得意な秀吉の周りには、政治や軍事面で秀でた人材が集まっていました。小牧・長久手の戦いでも家康が頼りにした大名たちが次々と秀吉に取り込まれています。
そんな秀吉の調略にやられ戦いに敗れた家康は秀吉に臣従する道を選び、政権の中枢を担うことになりました。そこで家康が見たものは、秀吉の周到な根回しやずるがしこさでした。
しかし、家康は豊臣政権が秀吉に依存していることに気が付き『秀吉亡き後の次世代が暗愚だった場合にはあっけなく崩壊するのでは?』と考えていたような節がありました。
史実では秀次切腹事件による、後継者不足が起こり豊臣政権の脆弱性が露見。さらに朝鮮出兵を起因とした家臣たちの内部分裂により家康に付け入るスキを見せたことが政権崩壊の要因の一つだと考えられます。
徳川家康と苦楽を共にした家臣
徳川家臣団を調べると、結束力の強さがよく指摘されています。その家臣たちの多くが家康の人質時代を共に生活した徳川二十将と呼ばれる面々でした。こうした苦楽を共にした家臣たちだからこそ家康も気が使えるし、信頼も置くことができたのかもしれません。
独立後は信長、本能寺の変後は秀吉に付き従って人材のマネジメントを見てきた家康。さらに信長と秀吉のやり方に加えて過去の武家政権についても研究。吾妻鑑を愛読していたのは有名な話で、三代で途絶えた源氏将軍を見て何か思うところがあったのかもしれませんね。
古くからの伝統を踏襲しつつ、近くで長年苦しめられてきた武田信玄までも手本にして家康流の組織を作り上げたことで長期政権を築き上げることができたのでした。