わかりやすい徳川家康による全国統一と江戸幕府と政治の安定
織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれた後、豊臣秀吉によって全国統一がなされ、豊臣政権が発足しました。秀吉は、大坂城を築き、刀狩令を出して農民が一揆をおこさないように対策をしました。
さらに、明を征服しようと朝鮮半島へ大軍を送るも、道半ばで秀吉が亡くなり朝鮮出兵は失敗に終わりました。この朝鮮遠征が原因となり、豊臣政権の求心力が弱くなりました。
そこで台頭してきたのが、徳川家康でここから家康による天下統一事業が繰り広げられていきます。
【徳川家康の天下統一年表】
徳川家康が三河国に生まれる
今川氏の人質になる※織田氏で人質になった事も…
桶狭間の戦いで今川氏から独立する
織田信長と同盟をむすぶ
武田信玄の軍に敗れ何とか逃げ延びる
信長と長篠の戦いで武田勝頼を破る(駿河国を領国に)
本能寺の変で織田信長が討たれる
秀吉と戦う【小牧長久手の戦い】
豊臣秀吉が天下を統一する
徳川家康が江戸へ移る
豊臣秀吉が亡くなる(家康は五大老として政治をみる)
関ヶ原の戦いで西軍をやぶる
征夷大将軍になり、江戸幕府成立
豊臣氏を滅ぼす
徳川家康が死去
徳川家康とはどんな人物
徳川家康と江戸幕府
徳川家康は、三河の小さな大名の子として生まれました。幼いころは、周辺大名の人質となり、苦労を重ねましたが、成長すると勢力を伸ばし戦いに優れた武将として知られるようになりました。
豊臣秀吉の天下統一に協力し、関東の有力大名になった家康は、秀吉の死後、多くの大名を味方につけて勢力を伸ばし、天下分け目の戦いと言われている関が原の戦いで自分に反対する大名たちを破り、全国支配を確かなものとしました。
東京書籍 新しい社会6より 抜粋
家康は、三河国の(現在の愛知県)の岡崎城・城主松平広忠の長男として生まれました。
松平氏は、今川氏と織田氏に挟まれた5万石以下の小大名で、家康は今川氏の人質として幼少時代を過ごしていました。一時期は、織田氏の人質になった事もあり、この頃に織田信長と出会ったようです。
家康が、戦国大名として独立するのは桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破った後の事でした。この戦いがキッカケで、織田信長と同盟を結ぶことにもなりました。
さらに、織田信長と連合で長篠の戦いで武田勝頼を破り、駿河国も自身の領国としました。
本能寺の変の首謀者・明智光秀を秀吉が倒していた事もあり、この頃の家康は秀吉に一歩遅れを取っていました。信長の後継者として世間から認められるまでになった秀吉でしたが、家康は納得できずにいました。
一度は秀吉VS家康と言った具合に刃を交えた事もありましたが、最終的には和解し秀吉の天下統一事業に協力する事になりました。
豊臣秀吉の命で関東へ移動
豊臣秀吉は、天下統一のために小田原の北条氏を滅ぼすと、家康に関東地方の統一を任せることにしました。こうして家康は、慣れ親しんだ岡崎に地を離れ、関東の江戸に移ることになりました。
家康を関東に向かわせたのは、統治の目的の他に政治の中心であった近畿地方から話す目的があり、家康の力が付きすぎ無くする目的があったとされています。
しかし、家康は関東移動を逆手にとって、朝鮮出兵の際は兵力を送らず、関東地方で力を蓄えていました。
秀吉の死と豊臣政権内の対立
秀吉は天下統一を果たしましたが、後継ぎにはなかなか恵まれませんでした。
そこで甥の秀次を養子にして関白の座を継がせていたのですが、秀吉の側室淀の方が後の豊臣秀頼を生みました。
自分の子供が生まれたのなら、その子に継がせたいのが親の常。
結局、豊臣秀次は関白の座をはく奪されて、最終的には切腹に追いやられます。
しかし、大名間では「秀次が後継ぎになっていたらよかった」と考える者も少なくなかったようです。それを知った秀吉は自分亡き後に秀頼が滞りなく跡を継げるように、五大老と五奉行と言う秀頼を守り・サポートする役職を作りました。
五大老と五奉行
前田利家や宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元、徳川家康の5人のメンバーで構成されていたのが五大老。つまり秀吉自身が亡くなっても、自分の代わりに力をつけて天下を統一するかもしれないメンバーで構成されていて、彼らをあらかじめ仲間にしておくことで、その心配を少なくすることにしました。
一方で、石田三成、増田長増、浅野長政、長束正家、前田玄以で構成されていたのが五奉行で彼らは秀吉の子飼いの家臣たちでした。
この五大老と五奉行を任命し「秀頼を守る」と言う鉄のおきてを作り誓わせて、自分の死後の秀頼の事を彼らに託しました。
こうして豊臣秀頼を守る親衛隊が結成されましたが、いざ秀吉が亡くなると豊臣政権の力が弱まり、秀頼を守る鉄のおきてが徳川家康によって反故されるようになります。
そこで、反発したのが五奉行筆頭の石田三成。徳川家康と石田三成の対立が激しくなり、関ヶ原の戦いに発展していきます。
天下分け目の戦い関ヶ原の戦とは?
石田三成と徳川家康の対立で両者が戦う事になるのが関ヶ原の戦いで、一般的に石田三成グループが『西軍』家康グループは『東軍』と呼ばれています。
戦いの序盤は、両者互角でどちらが勝ってもおかしくありませんでした。
しかし、西軍の小早川秀秋が東軍の寝返った頃から西軍が押され始め、終わってみればわずか数時間で決着し、東軍の勝利となりました。
関が原で勝利した徳川家康は、西軍に着いた大名の領地を没収し、東軍に着いた大名に分け与えました。もちろん、自分たちの領地も増やし、その勢力を拡大しました。
こうして、徳川家康は全国の大名を従える事なりました。
江戸幕府の成立
1603年、家康は、朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸(東京都)に幕府を開きました。
家康は、幕府の重要な役職に古くからの家来たちをつけ、江戸幕府による支配体制を整えていきました。家康は、全国の大名を、徳川家の親せきの親藩、古くからの徳川家の家来の譜代、関ヶ原の戦い後に従った大名を外様に分け、その配置をくふうしました。
東京書籍 新しい社会6 引用
しかし、徳川家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲り徳川家が代々将軍になることを大名たちに示した一方で、政治の中心にふさわしい城や城下町を江戸に作るため、大規模な工事に着手しました。
1615年、家康は大阪の豊臣氏を滅ぼすと、全国に一国一城令を出して大名が住む城以外の城の破壊を命じました。こうして、戦のない安定した世の中が訪れたのです。
征夷大将軍と江戸城築城
1603年に朝廷から征夷大将軍に任命された徳川家康は、武家による政治を行うために江戸幕府を開きました。
元々江戸城は、関東管領だった上杉氏の家臣・太田道灌が築城したのですが、1590年8月に家康が移ってきた時にはボロボロの状態だったそうです。そこで家康は腐ることなく、地道に修理修繕をして、同時に江戸の町を整備していきました。
当時、関東地方で栄えていたのは、小田原城周辺だったのですが、どうして家康はあえて江戸を拠点としたのでしょうが??
- 江戸の地には広い平地があって街を発展させるのに丁度よかった
- 海に面していて海運に便利だった
- 新しい政府を作るために京都から離れた方が良かった
が主な理由だったとされています。
豊臣氏の滅亡
豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣家では秀頼が跡を継いでおり、関ヶ原の戦いの後も所領の減封があったものの豊臣家は健在でした。家康自身も当初は、秀頼率いる豊臣家を滅ぼすつもりはなかったようですが、豊臣古参の大名たちがいずれは秀頼様が天下を収める事に期待していたようです。
また、秀頼が長身で中々の好青年で、立ち振る舞いも良く秀頼に合った家康は圧倒されて驚いたとされています。こうした周りの状況と、秀頼の人間性を危険視した家康は、豊臣氏を滅ぼすことを決意したとされています。
ここからが、家康による豊臣家挑発作戦の開始でした。
秀頼の存在が心配でしたが、さすがに大義名分がなければ攻めるわけにはいきません。
そこで家康は豊臣家に挑発をしていきました。
- 家康が大阪へ行くのではなく秀頼を江戸へ呼び出す
=呼びつけられるということは家臣扱いと同じこと! - 秀頼が豊臣氏の繁栄を願ってたくさんのお金をかけて作ったお寺の鐘かねに、家康が言いがかりをつけて開眼供養を延期。
- 将軍の地位をすぐに息子の秀忠に譲って、これからもずっと徳川家が政権をにぎっていくとアピール
こうした嫌がらせに豊臣氏も我慢の限界に。そして、徳川家康を攻めようと兵を集め始めました。これを聞いた家康は、しめた!と言わんばかりに大阪城の討伐に兵を挙げました。
こうして、1615年5月7日に大坂夏の陣で豊臣氏は家康に滅ぼされてしまいました。
徳川家康の幕府政策
まず家康は、一国一城令を出し住居以外の城を全ては破壊させ、無駄な軍事力を持たせないようにしました。また、武家所法度を制定し大名を厳しく取り締まりました。
外交面では朝鮮に使者を送り、豊臣秀吉の侵略から途絶えていた朝鮮半島の交流を再開させました。
家康は、わずか2年で将軍職を秀忠に譲りましたがこれには、人々の中には秀頼がまた政権を握にぎれると期待する人もいた。これだと、家康が亡くなってしまうと、将軍の座を豊臣氏や他の一族に取られてしまうかもしれません。
そこで、すぐ将軍を息子の秀忠に譲って、「これから先も徳川家が政権を握っていくよ」というアピールをしたというわけです。
また、自分が元気なうちに次の将軍を確実に決められ、自身は大御所としてじっくり政治の実権を握ることが出来ると考えたようです。平安時代の院政と同じ考え方をしていたのだと思います。