戦国時代

なぜ長篠の戦いで武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗れたのか??

 

1575年4月、三河北部の長篠城を巡って、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦いがありました。この戦いを長篠の戦いと呼ばれ、日本で初めて大量の鉄砲が使用された※と言われている戦いです。※諸説あります。

長篠の戦いの結果、織田・徳川連合軍が勝利し、武田氏はこの戦いをきっかけに滅亡へと向かっていくのでした。

今回は、【長篠の戦い】で武田勝頼が敗れた原因と簡単に流れなどを書いていきたいと思います。

 

長篠の戦いとは

長篠の戦いは、1575年に三河の長篠で起こった

織田信長・徳川家康の連合軍V.S武田勝頼との戦いです。

 

主戦場となったのは、長篠城と設楽原(したらがはら)の2か所。

日本で初めて鉄砲が使われたことで知られているのは設楽原での戦いです。また、これまで教科書などでは、織田と徳川の連合軍が3万、武田軍が1万5000といわれてきましたが、実際の数はわかっていません。

織田・徳川連合軍は、武田軍の得意とする騎馬隊による突撃を馬防柵で食い止め、横1列に1000丁ずつ3段に分けた鉄砲3000丁で一斉交代射撃(三段打ち)を行って、武田軍を撃退したというストーリーが有名で学校でも習った気がしますが、これは後世の創作だと考えられています。

 

長篠の戦いの原因

元々は、徳川氏と武田氏の北三河地域を巡る戦いの一つで、武田信玄死後に徳川家康が北三河奪還のために奥三河の要所である長篠城を奪い返しました。これを受け武田勝頼が、長篠城を三河侵攻の足掛かりとするべく攻略に向かいます。

徳川家康は、長篠城からの救援要請にこたえる形で軍勢を派遣。それと同時に、同盟関係にあった織田信長にも出兵依頼をし織田・徳川連合として武田軍と対峙しました。

 

武田家は、勝頼の父・信玄が1573年三方原の戦いで徳川家康を撃破していました。しかし、その直後に急死してしまい武田家は勝頼が継ぐことになりました。

武田勝頼は、父・信玄の志を引き継ぎ1574年には尾張・三河・遠江への侵攻の拠点となる明知城、さらには信玄でも落とせなかった徳川領の遠江・高天神城など次々と領土を拡大していきました。

連戦連勝で勢いついた武田勢は、次に狙いを定めたのが徳川領の長篠城だったのです。

武田軍が長篠城を手に入れることで、三河北部全域を家康から奪い取る足掛かりとなり、さらに三河東部、その隣にある遠江へと家康の領地に侵攻し、武田の支配を広げていくことも現実味を帯びてくるわけです。

 

長篠の戦いの経過と結果

気が付けば、父・信玄よりも領地を広げ武田氏最大を更新してしまうと言う快挙を達成していた武田勝頼は、この勢いで長篠城へと進軍し城の周りを取り囲み、何度も攻撃を仕掛けました。

この時、長篠城の城主・奥平信昌は、500名の少ない兵で何とか武田家の攻撃を耐え抜き、家康の援軍を待っていました。長篠城からの援軍要請を受け家康は、織田信長と共に出兵し長篠の戦いへと挑みました。

織田・徳川連合軍

織田・徳川連合軍は、長篠の設楽原で武田軍を迎え撃つ準備を始めました。

設楽原は、北に雁峰山がそびえ、南に豊川が流れるという地形。そのため、信長たちはサイドからの敵の侵入を防ぐ対策として柵や堀、土の壁、斜面を削った人工の断崖などをつくり武田の侵攻に備えました。

これで正面に武田軍を誘いこめば、連合軍の有利に戦えるというわけです。

さらに、抜け目のない信長は決戦の前日、本隊とは別の4,000の兵からなる機動部隊をひそかに長篠城に送っていました。設楽原の開戦と同時に、別動隊が長篠城を包囲している武田軍に攻撃し、城の者たちを救出する作戦でした。

武田氏は家臣の意見が対立

一方で武田軍は、織田・徳川との戦いを控え、家臣の間で意見が分かれていました。

信玄時代の重臣たちは織田・徳川の大軍を前に【撤退】や【もし迎え撃つなら長篠城を奪ってから、長篠で迎え撃つべし】と主張します。しかし、勝頼が選んだのは、自身の側近たちの意見で【設楽原で迎え撃つ】でした。

この決断の裏には、父・信玄もできなかった徳川家康を打ち取るチャンスが目の前にあった事、そして、信長が銃撃戦に特化した『待ち』の戦術をとっているにもかかわらず、これまで連戦連勝していたと言う自身から、設楽原で手をこまねいていると誤解がありました。

また、信玄古参の重臣たちに自分を認めさせようと功を焦っていたとも言われています。

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長篠の戦いの結果

織田・徳川連合軍は、馬防柵と呼ばれる木でできた一見もろい柵を堀を掘って馬が突破しにくい防衛線を築き、武田騎馬隊に対抗する作戦を練っていました。あまり動かずとも遠くの敵を打ち取れる鉄砲の特性を熟知していた信長は、機動力を最大の武器の武田騎馬隊に対して特化した陣形と装備で対抗したのです。

この作戦が見事的中し、武田軍に大きな打撃を与えることが出来ました。

武田軍の予想外の崩壊

元々数でも劣っていた武田軍は、翼包囲と呼ばれる戦術をとっていました。

これは、両端の軍を中央よりやや先に配置し、敵軍が中央の軍を迎え撃っている間に、両端のどちらか、あるいは両方が敵軍の背後を突く挟み撃ちの戦術です。この戦術は、古来より数で劣る軍が敵軍を破った戦術として、今日でも陸軍の戦術として使われています。

武田軍は、織田軍が中央軍を迎え撃っている間に両端の軍を背後に回り込ませる作戦でしたが、ここで予想外に両端の軍が囲む前に起きたのが中央部の崩壊でした。

武田軍の中央部は、勝頼の叔父・武田信廉と従兄弟の穴山伸君で構成されていたのですが、勝頼と仲が悪く指揮官の指示を無視して敵前逃亡を行い、両端の軍が取り残され大損害を被ります。

背後を突く両端の軍に武田の名将たちがおかれており、中央部が退却した結果、彼らの多くが戦死し、後の武田家滅亡につながっていくのでした。ちなみに、敵前逃亡した中央の軍は、ほとんどが生きて逃げ帰りましたのが皮肉な話です。

 

こうして、武田勝頼は信長や家康の作戦と内部崩壊によりこれまで武田家を支えた名将・重臣や多くの兵を失うことになりました。

一方、決戦の前日にひそかに信長親衛隊と家康軍の一部隊を合わせた4000の兵を迂回路から長篠城に送り、翌日の設楽原での開戦とほぼ同時に敵の包囲から長篠城を救いました。

これにより、織田・徳川連合軍の当初の目的だった長篠城の救援は達成されたうえに、設楽原でも武田軍に壊滅的な打撃を与えると言う大戦果も挙げたのでした。

 

長篠の戦いのその後

長篠の戦い後、武田家の力は衰えていきました。

長篠の戦いから7年後の1582年、信長・家康・北条氏政らは、武田氏を滅ぼすため武田征伐を開始しました。

追い詰められた勝頼は、武田家の家臣小山田信茂の岩殿山城に逃げ込もうとしますが、小山田の裏切られてしまいます。武田家の滅亡と死を覚悟した勝頼は、武田家ゆかりの地、天目山で自らの命を絶ちました。

 

その後、織田信長は、越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功し、事実上の【天下人】として1582年の【本能寺の変】まで台頭していくことになります。

また、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城、二俣城を攻略していき、高天神城への締め付けを強化しました。

 

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長篠の戦いの新事実

長篠の戦いについては、近年【信長公記】や現地での発掘調査の結果を基に検証が行われ、これまでとは違う解釈が云われています。

3000丁の鉄砲説

これまでの定説は、武田騎馬隊を織田・徳川連合軍が3000丁の鉄砲で撃退したとされてきましたが、この説が怪しくなってきました。この内容が江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵の『信長記』に書かれていました。

これが、長篠の戦いと同時期に書かれた記録ではないことから信憑性に乏しいと考えられるようになりました。

現在は、織田信長の家臣だった【太田牛一】の【信長公記】が、そこそこ信頼できる史料として、現地の発掘調査をし新たな解釈がなされるようなりました。

その一つとして、戦場となった長篠や設楽原の発掘調査では、なぜか鉄砲の弾がほとんど出土しておらず、本当に3000丁もの鉄砲が使われたのか疑問が持たれています。

そもそも3000丁と言うのは信長記に記されている話で、信長公記では各部将から少しずつ銃兵を集めて1000人ほどの鉄砲隊を臨時に編成したと記されています。

三段撃ちによる一斉交代射撃はなかった

3000丁がガセネタだとすると、鉄砲「3段撃ち」のエピソードも、やはり小説である信長記に書かれた話で創作だと考えられます。

突撃してくる武田軍に対し、信長が【敵が近づくまでは鉄砲を撃つな。1町(約100m)まで引き寄せたらまず1000挺が発砲し、1段ずつ交代に撃て】と命じる場面があり、この内容が定着しました。

信頼できる史料でも3段撃ちについては一言も触れられておらず信長公記でも、鉄砲をさんざんに撃ちまくったとあるのみです。

もしかしたら、【1000人の程の鉄砲隊がさんざんに】が【1000人づつ三段に】となったのでは?と考えたのは私だけでしょうか?

武田騎馬隊も創作の可能性が…

朱色で統一した【武田の赤備え】と呼ばれた武田騎馬隊も、実際に馬に乗って戦う兵が武田軍全体の1割程度だったようで、騎馬隊と呼べるほどの規模も迫力もなかったと考えられています。

ちなみに当時、日本にいた在来種の馬は体が小さい種類で、120㎝程のポニーに近い体系の馬でした。

設楽原は広大な平野ではない

長篠の戦いの主戦場【設楽原】は、原と言う地名から平原を想像しますが、南北におよそ2km、東西に平均して200~300mほどの縦長な平地が広がり、その中央を河川が分断する、馬が駆け抜ける事が困難なロケーションでした。

織田・徳川連合軍と武田軍は、南北に続く平地に沿って背後に細長く連なる舌状台地上に布陣していました。

連合軍側は、武田軍本隊が長篠城から向かってくる数日前からこの台地を巧みに陣地化し、空堀や土塁、切岸を築くと、全体に柵をめぐらせ、高低差を利用して武田軍に備えていました。

この立地は、武田軍からみれば平野の野戦よりも城攻めに近い戦闘で、馬での戦闘には不向きと考えられています。

 

 

鉄砲の数や運用方法には諸説ありますが、この長篠の戦い頃から戦場の主要兵器が【鉄砲】になり、合戦の在り方がこれまでとは大きく変わったのは間違いありません。

 

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歴ブロ
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