戦国時代

どうして名門武田氏は滅亡したのか?

歴ブロ

どうして名門武田氏は滅亡したのか?

武田信玄を輩出した清和源氏の流れをくむ武田氏が、信玄没後10年で滅亡したのは一体どうしてなのか??

この記事ではそんな武田氏が滅亡した理由について考えてみます。

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武田氏の軌跡

武田氏は平安末期から戦国時代の武家で、本姓は源氏です。

「武田氏なのに源氏?」と思う方もいらっしゃると思いますが、そこら辺の事は他の記事で触れたことがありますので下記のリンクを参考にしてみてください。

その家系は源氏でも清和源氏の一流・河内源氏一門で、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家です。他にも、安芸国・若狭国に分派が存在しますが、いずれも名前に『』が使用されています。

この武田氏が全盛期を迎えるのは武田信玄の時代で、勝頼の時代に長篠の戦いをへて、宗家の滅亡を招く結果となりました。その後の武田氏の子孫たちは、庶家だけがわずかに残っただけでした。

カリスマ君主・信玄の後を継ぐのはしんどい

全盛期を築いた武田信玄は、1541年に父・信虎を駿河国に追放し武田氏を継ぎました。

この頃、甲斐国23万石の守護大名にすぎなかった武田家は31年の間に、甲斐・駿河・西上野・北遠江・奥三河・東美濃の一部・飛騨の一部など約120万石までその勢力を拡大していく事になります。

信玄は、上杉・徳川・織田・北条などの戦いで、たくさんの戦を経験し最終的には、武田家の勢力が拡大していったのでした。

土地柄、独立性の強い国人衆を数多く抱える武田家は、強烈なリーダーシップを持つ信玄によってうまくコントロールされていました。しかし、その信玄が亡き後に残された勝頼は癖の強い国人衆をどのように引率して行けばよいのか日々頭を抱えていたと思います。

勝頼の家督指名も突然の事だったのもありますが、きちんとした形で国の運営をきちんと継承していれば、また違った結果になったかもしれません。

よそ者の勝頼を認められない家臣達

武田勝頼は、祖父・信虎追放以来の手切りをしていた諏訪家の血を引いており、実際に諏訪家を継いでいました。本来は、嫡男・武田義信が継ぐはずでしたが、駿河侵攻の意見の対立や信玄暗殺計画の首謀者として廃嫡となりました。

そんな状況の中で、信玄が出陣中に病死したため、勝頼が武田姓に復し家督を相続し、第20代当主となります。信玄の死は、公表できない事から、表向きは信玄が隠居し、勝頼が家督を相続したと発表されていました。

 

諏訪家の血を引く勝頼を、家臣たちはどうしてもリーダーとして認められなかった者たちが多かったようです。代々、武田氏を継ぐ者は【】という字を使っているのに、使っていないと言う事は正当な後継者でないと言う事を意味していました。

勝頼自身もそのれは十分承知で、家臣たちに認めさせるには結果を出さなくてはいけないと思っていました。

政策も自分の色を出そうと人材登用や鉄砲の活用、兵農分離政策を行います。しかし、鉄砲は高額でしかもほぼ信長が独占していたため、大量に運用する事が出来ませんでした。

信長が成功させた兵農分離政策は、保守性の強い国人衆をうまくまとめることが出来ないため、やはり上手くいきませんでした。

人材登用により、自分独自の人材を得ようと登用を行いますが、招き入れた人材が信玄から低評価を受けていた人物であったために、旧家臣団たちの心が離れていく結果となります。

長篠の戦い

実際に、領土経営に奔走しながらも、信玄亡き後、北三河へと侵攻し、信玄が落としていなかった高天神城を落として領土拡大を成し遂げています。
むしろ、領土の広さを見たら父・信玄の時代を上回ってた時期もあります。その辺では、無能ではない事を歴史が証明しています。

しかし、この北三河侵攻で、長篠城を奪取したことにより、事態が急変します。

当初は、家康軍の身と対峙していましたが、家康だけでは手に負えない事から、織田軍の援軍が来ることになります。

1575年の長篠の戦いです。

この戦いで勝頼が初めて大敗することになります。

長篠の戦い前に、家臣団から撤退の提案があったそうです。

しかし、勝頼は…

私はまだ父・信玄に負けている

家臣たちはまだ私を信用していないから、撤退を進めている

と思ったかどうかは分かりませんが、結果にあせっていた状況を考えると分からないでもありません。

結果を出したいのか、戦に負けたことが無いその自信からなのか、勝頼は徹底抗戦をしますが、この決断が信玄時代からを支えた有能な家臣たちの大半を失い大敗をしてしまうのです。

当時の近代的な兵力で35000の織田・徳川連合軍に対して、武田軍15000と倍以上の兵力を差を埋めるには、よほどの策がなければ勝てるわけがありません。
そのうち、織田軍の鉄砲が3000丁だったといわれていますので、家臣団の言う通り早期撤退が良策だったのでは無いかと思います。

御館の乱の外交での失敗

1578年に上杉謙信が没し、家中では上杉景勝上杉景虎の後継者争いが起きていました。このお家騒動の御館の乱の介入による外交での失敗の方が深刻でした。

上杉景虎は北条氏からの養子で、北条との同盟を考えるなら景虎を支援するのがベターなはずです。勝頼も当初は景虎を支援していましたが、景勝から家督相続の暁に臣従する約束を持ちかけた事によって途中から景勝支援に回ってしまいました。

景勝を支援した事で景虎を破った景勝と同盟を結ぶのですが、まだ力のある北条氏の貴重な同盟が破棄になりました。

北条、織田・徳川と敵対する事で危機的状況になりました。

その状態に危険を感じ始めたのか防備のため新府城を築城し始めますが、それも後の祭りでそこからは坂を転げ落ちるように衰退し、1582年に武田氏は滅亡しました。

その最後は、身内に裏切られ、家臣も寝返るという悲惨な末路をたどったのです。

武田氏の存続は可能だったのか?

この文章だけでも、いくつものターニングポイントがあるのが分かります。

  • 急進的な改革
  • 長篠の戦いでの判断
  • 外交政策の失敗

この失敗を見てみると、勝頼に当主としての判断力が未熟だったことがうかがえます。

当主が未熟でも、有能な右腕が居れば国は維持できるのですが、勝頼の時代にはそのような人材が居ませんでした。唯一、高坂昌信が進言をしていたそうですが聞き入れられなかったと記録に残っています。

かと言って、武田氏滅亡を勝頼のせいにするのは酷な話でもあります。

本来、後継者であるはずの義信に継がせていれば、このような結果にならなかったと考えます。それを駿河侵攻を引き換えに切り捨てたのは信玄本人です。

信玄は今川に限らず織田・北条・徳川との同盟も自分の利益のために破っています。

戦国時代では珍しいことではないのですが、それを加味しても信玄の外交には、信義と言う点にかけているのは否めません。

人は裏切られたら、恨みを抱くのは現代でも変わりません。

その恨みつらみが、勝頼の代になって一気に吹き出してしまったような気がしてなりません。信玄は、強すぎるが故に同盟破棄による反動をねじ伏せることが出来ましたが、勝頼にはそれはできませんでした。

カリスマ当主の信玄の跡を継ぐのは本当に骨が折れます…

三方が原の戦いで信玄が元気ならば…

歴史にたらればを持ち込むのはナンセンスとは言いますが好きなので書きます。

この時、信玄が元気ならば西上作戦が続けられており、家康が漏らすほどの苦戦を強いられていることを考えると徳川軍を蹴散らせていたことでしょう。

また、信長包囲網(第2期)が機能していた当時の織田家の状況を考えると、かなりの確率で織田家を追い詰める事が出来たでしょう。

では、信玄が信長に取って代わったのかとそうでもなく、補給線を捨てて100km織田領内を前進し、堅城で知られる岐阜城に数万で篭城する織田軍を力攻めで数週間のうちに落とさなければなりません。

あの岐阜城を短期間で落とすには、少なくとも当時の武田軍の3倍以上の兵力が必要でしょう。補給路を断つのですから、岐阜城攻略に失敗すれば、兵は飢えて後方から大軍に攻める立てられつつ、織田領を100kmをまた敗走しなければなりません。

自国へ戻るのはいくら信玄でも至難の業でしょう。信玄もそれを予測していたから、三河国境より進むことが出来なかったのではないのでしょうか?

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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