江戸時代

なぜ江戸幕府は武家諸法度を出したのか?目的と内容・大名達への影響

歴ブロ

徳川家康が江戸幕府を開き、2代目・秀忠の時代になる1615年武家の統制をとるために、武家諸法度と呼ばれるきまりを定めました。

私たちも聞き覚えのある【ご法度】とは【法度】の丁寧語で、禁じられていることやしてはいけないことをいうときに使われました。

 

今回は、この武家諸法度を少し掘り下げてわかりやすく書いていきたいと思います。

 

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武家諸法度とは?

先述しましたが1615年、江戸幕府2代将軍・秀忠の時代、家臣である武家たちの統制をとるために、【守るべき事と禁止する事】を定めた法令が【武家諸法度】と言います。

武家諸法度は将軍が変わり、その時代や情勢に合わせ修正が行われ江戸幕府が滅ぶまで運用されて行きました。徳川将軍で家康を除いて武家諸法度を改正しなかったのは、7代将軍・家継と15代将軍・慶喜だけでした。

 

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各将軍の武家諸法度改正で、注意が必要なのは【武家】の対象となる範囲が変化している事です。5代将軍・綱吉までの時代は、【武家=大名】を指していましたが、この綱吉は武家の範囲を広げ、【武家=大名・旗本・御家人】としました。

 

武家諸法度が出された背景と目的

徳川家康は、1600年の関ヶ原の戦いで勝利したのち、1603年に征夷大将軍となり江戸に幕府を開きました。しかし、家康は1605年には将軍職を秀忠に譲りました。

これは、家康の隠居ではなく【大御所】として、政治の実権を握りました。

この【大御所】は、11代将軍・家斉の時代にも存在し、50年続きました。これを【大御所時代】と呼ばれているようです。

 

徳川家康が息子・秀忠に将軍職を譲ったことで【江戸幕府は徳川家のもの】【将軍は代々、徳川家が継いでいくもの】という事実を天下に宣言しました。当時、大坂には秀吉の子・豊臣秀頼が存在し、豊臣古参の大名たちにに大きな影響力を与えていました。

しかし、その豊臣家も1615年の大坂夏の陣によって滅亡すると、本格的に徳川一強の政治体制を作ろうとしました。その一つの政策が【武家諸法度】の発令でした。

 

武家諸法度の目的

目の上のたんこぶである豊臣家を滅亡させた徳川家は、政権の安定と維持を行うために、各地の大名たちが謀反を起こさないように各大名に対して、禁止事項等をまとめた【武家諸法度】を発令しました。

 

1615年に、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康は、すぐに諸大名を集め当時将軍だった秀忠の命という形で大名統制のための13か条からなる武家諸法度を発令しました。

主に文武や倹約の奨励と言った規範を旨としており、大名同士の婚姻の許可制や領内の統治の制限なども含まれていました。

これに違反すると処分が下され当初は、外様大名【特に豊臣古参の大名達】が標的にされていた感がありましたが、譜代大名でも同じように厳しい処分が下されていました。

こうした厳罰で各大名家の軍事力・資金力を弱め、徳川幕府に反乱を起こす力をそぎ落とし、政権の安定を図ろうとしたのです。

 

武家諸法度の内容

1615年初めて出された武家諸法度【元和令】は、大御所だった家康が将軍秀忠の名で発令したものです。13ヶ条の決まり事が示され、次のような事が書かれていました。

武家諸法度 【元和令】現代訳版

  1. 諸大名は、学問と武芸を磨くことに努める。
  2. 大勢で酒を飲んだり遊んだりしてはいけない。
  3. 法令にそむいた者を国にかくしてはいけない。
  4. 自分の国に犯罪者等がいたら、追い出さなくてはいけない。
  5. 自分の領地に他国の人を住まわせてはならない。
  6. 城を修理する時は届出が必要で、新築することはかたく禁止。
  7. 隣国で不審な事をしようとしたりする者がいたら届出をする。
  8. 大名は、幕府の許可なくに勝手に結婚の約束をしない。
  9. 参勤交代の時、決められた以上の家臣を連れて行かない。
  10. 服装等は、身分以上の上下の違いを間違えないようにする。
  11. 身分の低い者が勝手にかごに乗ってはならない。
  12. 武士たちは、倹約につとめなければいけない。
  13. 諸大名は、能力のある者を登用し良い政治を行う事。


原文は省略してわかりやすく書いてみました。

次に、江戸幕府が各大名たちの力を削ぐ直接的な条文を抜粋して、原文と共に解説して見たいと思います。

 

① 諸大名は、学問と武芸を磨くことに努める。

文武弓馬の道、専ら相嗜むこと」が原文で、大名たるもの武士であり国を守ることが基本なので、学問も武芸を日々鍛錬しなさいと言う意味です。

⑥ 城を修理する時は届出が必要で、新築することはかたく禁止。

諸国の居城、修補をなすと雖、必ず言上すべし。況んや新儀の構営堅く停止せしむる事」が原文。新たな城の築城を禁止し、幕府の許可なしでは居城の修理ができませんでした。

おそらくこの条文に関連して武家諸法度が出される1か月前に、幕府は「一国一城令」も発令しており【大名一人に城ひとつ】を徹底させて、いくつもの城を持たせないことを徹底させました。

これも、各大名家の軍事力を削っていきました。

⑧ 大名は、幕府の許可なくに勝手に結婚の約束をしない。

私に婚姻を締ぶべからざる事」と原文に書かれたこの条文では、幕府の許可なく大名同士の政略結婚を禁止しました。婚姻により大名同士の連帯感を深めて幕府の脅威となる反対勢力ができるのを防止しました。

 

武家諸法度に違反した大名は領地を没収され、藩を取り潰される改易、領地を別のところに移される国替えなど、厳しく処罰されました。中でも居城の補修等届出制では、豊臣古参の家臣・福島正則の改易にもつながったと言われ、この武家諸法度違反が数々の大名の減封や改易の理由に用いられることになりました。

 

武家諸法度の改正

昔に限らず法律というのは、その時々の情勢に合わせて修正・改定・追加が行われるものです。武家諸法度も例外ではなく、歴代の徳川将軍はさまざまな変更をしてきました。

その時の元号をとって改正案を【〇〇令】と呼んでいます。

3代将軍家光の改正・武家諸法度(寛永令)

1635年に発令されたのが3代将軍・徳川家光による武家諸法度改正(寛永令)。

この時、19ヶ条の条文が示され、500石積以上の大型船を持つことが禁止する【大船建造の禁】や【参勤交代】の制度化が盛り込まれました。

武家諸法度 【寛永令】の主な改正項目

  • 大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。
  • 藩主、城主、所領1万石以上、近習、物頭は、幕府の許可無く勝手に結婚してはならない。
  • 贈物、贈答、結婚の儀式、宴会や屋敷の建設などが最近華美になってきているので、今後は簡略化すること。その他のことにおいても倹約を心掛けること。
  • 500石積み以上の船を造ってはいけない。


気になった条文を一部抜粋しました。

先述した【参勤交代】の制度化と婚姻の許可が藩主や城主、所領〇〇など明文化されています。また、質素倹約に努めるようにも歌っています。

最後の500石以上の船~ですが、これは1609年に西国大名たちを対象とした大船建造の禁令が出され、500石以上の積み以上の軍船と商船を没収し、水軍力を制限した法律がありました。

これを武家諸法度に記載し全国的に禁止することになりました。

参勤交代については、別記事で詳しく書いていますので参考にしてみてください。

 

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4代将軍・家綱の武家諸法度改正令【寛文令】

4代将軍・家綱の時代になると政治の方向性が武力と権力で大名を取り締まっていた【武断政治】から、学問や儒教によって人の心を感化させて統治しようとする【文治政治】に変わっていきました。

その政治の方向性の変化が武家諸法度にも影響を及ぼしました。

1663年に寛文令と呼ばれる21か条からなる武家諸法度を発布しました。

この改正では、キリスト教が禁止され、この頃に長崎奉行所で絵踏み(踏み絵)が行われました。また、主の後を追う殉死は美徳とされてましたが、各大名家で能力のある後継ぎが命を失い藩が安定をしないために口上でしたが殉死も禁止されました。

こうして、藩の安定を奪っていた武断政治を一新し、話し合いや法律を大切にする文治政治の変換により大名の支配体制を整えていきました。

5代綱吉の武家諸法度【天和令】

1683年に発令された武家諸法度【天和令】は、家綱の時代より文治政治色が強く表れた改正でした。

まずは、口上で禁止していた殉死を本格的に条文に追加し禁止し、武家諸法度の対象を大名だけではなく、旗本・御家人に拡大しました。

戦国時代からの流れで馬術や弓など武芸の鍛錬を重要視した江戸時代初期とは違い、綱吉は儒学の考えに基づき、学問や忠義・孝行を重んじたことにより、元和令から手を加えることがなかった第一条の変更を行いました。

この変更が【文武弓馬の道、専ら相嗜むこと】⇒【文武忠孝を励し、礼儀を正すべきこと】に変更し、これまでのような武芸の鍛錬ではなく、これからは学問や礼儀を重要視すべきとしたのです。

 

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その後の武家諸法度

綱吉の時代に文治政治の影響が強くなった天和令の武家諸法度は、統合が行われ21ヵ条から15ヶ条にさっぱりしました。

綱吉以降は、1710年の6代将軍・徳川家宣が【正徳令】と呼ばれる武家諸法度を発布し、役人の贔屓や賄賂を禁止したのが大きな改正でした。賄賂政治が落ち着いた1717年の徳川吉宗の時代には、享保令と呼ばれる武家諸法度を発布し、綱吉の【天和令】に戻しましした。

 

この武家諸法度は、幕末まで続きますが、内容としては綱吉の出した【天和令】が基本となり以降大きな変更はありませんでした。

武断政治と文治政治については、ほかの記事で紹介していますので、よかったら参考にしてみてください。

 

江戸時代の流れ ~将軍家綱による文治政治の始まりによる幕藩体制の安定~ 江戸幕府初期の初代家康~3代家光までは、武力を背景とした大名統制を行っていました。これを武断政治と呼びます。 武家諸法度違反と...

 

禁中並公家諸法度との区別

武家諸法度に似ている法律として天皇と公家の行動を制限した【禁中並公家諸法度】が発令されています。

禁中とは天皇のことで、【天子は御学問のこと第一】つまり、天皇には政治に関係のない学問や和歌の修業を進めるなど、天皇や公家が政治に関与しないようにしました。

このことから、江戸幕府の支配が脅かされる可能性を秘めている天皇家にも法令を出して徹底的に取り締まり260年の徳川家の支配が続きました。

この禁中並公家諸法度は武家諸法度と違い、幕末まで改訂されることはありませんでした。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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