麒麟がくる

【佐々成政】信長親衛隊は波乱万丈な人生だった!?

織田家臣団の中で羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家、前田利家、丹羽長秀、滝川一益に比べるとちょっと地味な印象が強い佐々成政

信長の親衛隊である黒母衣衆の筆頭として数々の戦功をあげるとともに、越中一国を任された時には、度重なる河川の氾濫に悩ませられた領民のために大規模な堤防工事を行い、わずか数年で水害を無くした名君ぶりを発揮していました。

また、後世の脚色もあるとはおもいますが、大の秀吉嫌いで有名でした。九州攻めの功績で与えらられた肥後統治の失敗を理由に、秀吉に釈明する途中で切腹を命じられ、大阪城の方向を睨みつけたまま切腹すると言う逸話まで残っています。

徳川家康の決定に異を唱えるために、【真冬のアルプス越え】を行った逸話まで残されています。今回はそんな、反骨精神旺盛の佐々成政の人生について書いていきましょう。

 

織田家に仕え、黒母衣衆に…

 

佐々成政の出所は不明で、佐々家は父の代から織田家に仕えていたそうです。

推測から、1536年~1539年に生まれたのではないかと考えられています。

1556年稲生の戦い1560年桶狭間の戦いでは、信長と一緒に出陣したと記録があります。しかし、この戦いで次々と兄たちを亡くした成政は、1560年に佐々家を継ぎ比良城主となります。

 

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その後は、美濃攻略での森部の戦いなどで功績をあげ、1567年には黒母衣衆※に抜擢されました。

※【母衣衆】とは、信長直属の親衛隊の事を指します。佐々成政が所属したていた【黒母衣衆】と前田利家が所属していた【赤母衣衆】がありました。この二つの上下関係はなく、同格な立場でした。

 

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織田家の主要な合戦で活躍

 

美濃を攻略し、1568年に上洛を果たす頃には成政も自分の部隊を率いるようになり、数々の戦に参加しました。

  • 姉川の戦い(1570年)
  • 長島一向一揆(1570-1574年)
  • 長篠の戦い(1575年)

特に長篠の戦いでは、鉄砲奉行として鉄砲隊を率いて活躍しました。

 

1575年頃から、北陸方面司令官となった柴田勝家の与力として越前に赴任すると、前田利家、不破光治と共に【府中三人衆】と呼ばれるようになります。こうして、勝家、利家、光治と北陸地方で行動を共にすることになります。

北陸が落ち着いている時には、機内へ戻り本願寺や荒木村重の討伐なども行っていました。

 

そして、1577年に上杉謙信と織田信長が戦った、【手取川の戦い】にも参加しました。

この戦いには、柴田勝家、成政率いる北陸勢と羽柴秀吉、丹羽長秀、稲葉一鉄などのそうそうたるメンバー出陣をしました。

 

しかし…

  • 進軍の途中でなぜか秀吉が勝手に離脱
  • 能登畠山氏の城(七尾城)が織田軍到着前に陥落してしまった
  • 織田軍が七尾城陥落を手取川を越えた直後に知った
  • しかもそれが上杉軍にバレて、背水の陣で攻め込まれた
  • この時、手取川の水位が上がっていて溺死者多数で大敗

 

上記のような不運が重なり、千人以上の戦死者・溺死者を出し惨敗してしまうのですが、成政ら将に被害が無かったのは不幸中の幸いかもしれません。

この戦い以降、上杉家との正面衝突は避けられない局面に来たのですが、1578年3月に上杉謙信が亡くなってしまいます。こうして戦局は一気に織田家に傾くのでした。

 

運命を変えた本能寺の変

 

1580年の本能寺の変では秀吉だけではなく、織田家家臣達全員の運命を変えた事件でした。この頃、成政は越中で一向一揆や上杉家を相手に戦ってました。これら戦功として、越中半国を与えられ、富山城を居城とし、大規模な改修を行っています。

上杉との戦いを睨みながら越中の内政を行うと言う非常に多忙な毎日を送っていたようですが、謙信のいない上杉家はそれだけ楽な相手だったのかもしれません。

こうして順調に出世をし、仕事にも油が乗ってきた頃に本能寺の変が起こります。

 

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この時、成政は北陸担当武将達と魚津城を攻略していました。

6月3日に城は落としましたが、北陸の武将達と話し合いを行うのですがなかなか方針が定まりませんでした。この辺が、勝家たちが明智光秀の討伐が遅れた理由かもしれませんね。

 

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結局は、中国大返しを成功させた豊臣秀吉が、6月13日の山崎の戦いで明智軍に勝ち、光秀を討つことに成功しています。

君主の仇討】を達成させ、織田家中一の発言力を手に入れた秀吉の前に、他の諸将は徐々に抵抗する術を失っていきます。そんな中でも成政は、中央での政治的争いにはあまり首を突っ込まず、越中一国を平定するために動いていました。

 

かといって、秀吉の傘下に簡単に下るわけではありませんでした。

織田信雄と徳川家康小牧・長久手の戦いで秀吉と衝突した時には、家康側に付き兵を挙げ、前田利家の治める、加賀・能登のいくつかの城を攻めています。ここで、利家の城を落としておき、元織田家での発言力を強めたっ方のかもしれません。

 

しかし、金沢城で知らせを受けた前田利家は即座に出陣し、佐々軍の背後に回り込んで攻撃し、見事に追い返しています。佐々成政は体制を立て直すべく、空いていた鳥越城に入って守りの体制に入りましたが、攻勢に出る前、信雄が秀吉と和睦を結んでしまったことで、家康側の大義名分が無くなり合戦が終了してしまいました。

それでも徹底抗戦を主張していた成政は、真冬の飛騨山脈などを越え、浜松まで自ら出向いて家康に協力を訴えましたが、断られてしまいます。

この真冬の飛騨山脈越えは【さらさら越え】と呼ばれる有名なエピソードです。

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さらさら越え

一月下旬の寒さと雪の厳しい時期に、標高2000~3000M級の北アルプスを越えて家康に会いに行ったと言う逸話です。

近年の研究では、【当時50歳前後だったはずの佐々成政が、現代の装備でも厳しいこのルートを、厳冬期に超えられたとは考えにくい】と言われ、別ルートを通った説も出てきています。

この話の真実は別として、【成政が自ら家康に直談判しに行った】のは事実だと思われます。これを機に、成政はしばらく秀吉に反抗的な態度を取り続けていました。

 

秀吉の粛清対象へ

 

小牧長久手の戦い以降、天下人のポジションをほぼ手中に収めた秀吉は、いつまでも反抗的な佐々成政を次なる粛清対象として出陣します。

そして、1585年8月に自ら佐々成政が治める富山城へ出陣します。

富山城は、近くを流れる神通川の水を利用した、「浮城」と呼ばれる防御力の高い拠点だったため、秀吉も力攻めしようとは思わなかったようでした。しかし、佐々成政にしても、立てこもるだけではいずれ攻略されることを悟ったのか、攻城開始から7日後に降伏を申し出ています。

 

降伏時、剃髪して僧衣をまとい、初めて恭順の意を示したのですが、それでも秀吉は、成政を処刑しようとしていたそうです。しかし、織田信雄が口添えをしてくれて、一命は助けられました。

 

肥後国人一揆の失敗で切腹に…

 

佐々成政の領地はほとんどが没収とされ、妻子と共に大坂へ住まわされ御伽衆の一員になりました。御伽衆(おとぎしゅう)とは、秀吉の良き話し相手の事で元大名や信長の家臣や弟などを降した後、よくこの役職に据えていました。

御伽衆の中には商人や茶人などもいたため、その方面に精通している人物には良い職場だったかもしれませんが、成政のような生粋の武将だと、合わなかったかもしれませんね。

1587年には、御伽衆での働きが認められたのか、九州征伐の武将として参加し、このときの功績で肥後の大部分を与えられ、佐々成政は大名復帰しました。

 

九州は全体的に地元国人衆の勢力が強いため、秀吉は統治にあたり、佐々成政に下記の条件をつけたとされています。

  • 国人の領地はそのままにすること
  • 三年間は検地をしないこと
  • 一揆防止に努めること

 

しかし、佐々成政の立場にしてみれば、多くの家臣を連れて行くわけですから、彼らに十分な禄を与えるためにも検地をしなければ割り振りができません。そこで検地を強行した結果、国人の強い反発を受けて一揆が起きてしまいます。

 

これが【肥後国人一揆】と呼ばれるものです。

 

成政は、これを力尽くで抑え込もうとしましたが、かなりの苦戦を強いられ、結局、近隣の小早川隆景や立花宗茂の援軍でようやく鎮圧に至ります。

 

秀吉の命に背いた結果が一揆なのですから当然、秀吉は激怒です。

成政は、釈明のため大坂へ向かいますが、1588年5月に法園寺で切腹させられました。毛利家の安国寺恵瓊に助命を願い出ていましたが許されなかったそうです。

 

最近の研究では、佐々成政の肥後統治失敗については、2つの見方が出てきております。

  • 秀吉は最初から成政が失敗するのを見越しており、それを口実に処刑した
  • 朝鮮出兵を見越して、越中での統治の能力を買い難しい肥後を任せた

 

きっと秀吉は、失敗すれば粛清して成功すれば結果オーライと思っていたのかもしれませんね。前田利家、丹羽長秀、滝川一益に比べると地味な人物ですが、今後研究が進むとイメージがひっくり返るかもしれない武将の一人かもしれませんね。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。