室町幕府政所執事・摂津晴門とはどんな人物だったのか?
現代に生きる私たちの政府も様々な職種に特化した専門の省庁や部署があるように、室町幕府もいくつかの機関を設けなければいけませんでした。
なかでも組織の根幹をなす重要な部署が財務・経理でした。経済基盤を正しく管理しそれに伴う事務処理を行う事は組織運営そのものと言ってもよいでしょう。
大河ドラマ『麒麟がくる』では、足利義昭が織田信長に擁され京へと上洛を果たしました。
そこで、義昭は15代室町幕府将軍となり腐敗した幕政の立て直しを図るのですが、その幕府の役人として室町幕府政所執事・摂津晴門ならぬ人物が出てきました。某シミュレーションゲームでも見ない名前で、ドラマでは超が付くほど癖のある役どころだったので興味が湧きました。
麒麟がくるでは、明智光秀を苦しめる悪代官のような位置づけですが、摂津晴門の視点で紐解くと彼は彼なりに幕府を思っての行動だとも考えられます。
摂津晴門の誕生
摂津晴門は、室町幕府評定衆引付方に属した官途奉行である摂津元親の子として生まれました。誕生年は、1504年~1521年とかなり開きがありハッキリしていないようです。
摂津家とは元々中原氏で公家出身の武家で代々摂津守に任ぜられることが多かったので、周りからも摂津殿と呼ばれることから、それなら摂津と名乗ろうではないかと摂津氏に定めたとされています。
12代将軍・足利義晴の時に将軍の字をもらい晴門と名乗り始め、1528年には従五位下中務大輔に任ぜられました。この従五位下とは、公家社会で貴族と呼べる地位で、晴門は20代で昇進する事から武家でも名門の出身でありました。
エリート街道まっしぐらの摂津氏
公家の血を引くエリートの家だった摂津氏は、室町幕府においては世襲の官途奉行という役職についていました。この時代の武士の地位は平安後期に比べ格段に上がっており、足利将軍も大臣職を兼任する事が多々ありました。
その勢いもあってか、将軍の配下たちも従四位、従三位になるケースもありました。
つまりこの時代は、武士も官位が低いのは格好がつかない社会になり必然的に武士は、官位を希望する事になります。その官位を斡旋するのが官途奉行で、その見返りのはそれは多額だったと言います。
官位斡旋の報酬は、室町幕府の貴重な財源であったため官途奉行の摂津氏は将軍にとっても重要な家臣でした。そのため幕府も有力大名に対し、管領や探題職、守護・守護代たちの叙位任官の斡旋を積極的に行っていました。
このように摂津氏と足利将軍家はとても親密な関係であり、13代将軍・義輝の元服時には、摂津元親が勤め、義輝の乳母も摂津氏の関係者がついています。
政所執事・伊勢氏の離反
1550年に12代将軍・義晴が死去すると、晴門の父・元親は出家し、1562年に元親が死去すると官途奉行・地方頭人・神宮方頭人を兼務した父の後を継ぎ摂津氏を相続しましました。
この頃の幕府政所執事は、伊勢貞孝で12代将軍・義晴の信任が厚く死の床で、義輝を頼むと遺言したほどでした。しかし、三好長慶の台頭により13代将軍・義輝は京を追われてしまいます。
この時の幕府政所執事・伊勢貞孝は、義輝に同行せず京都に留まり三好氏と共にしました。これに激怒した義輝は、貞孝の領地没収を命じますが、将軍家にはそれを実行できる力はもうありませんでした。
これにより、伊勢氏と将軍家との関係が悪化してしまう事になります。
摂津晴門、政所執事に就任
1558年に三好長慶は足利義輝と和睦すると、5年ぶりに義輝は京へ入ります。
1561年に三好長慶をけん制する形で近江の六角氏が京都を支配します。この時も伊勢貞孝は、将軍家に味方をせず六角氏に付き幕府の政務を取り仕切りやりたい放題をしていました。
この貞孝の動きに愛想を尽かせた義輝は、六角氏と和睦して京へ戻ると、伊勢貞孝を更迭しました。
伊勢氏の政所執事は1379年以来世襲が続いていましたが、180年の歳月がたちお役御免となりました。この決定に納得がいかない貞孝は挙兵しますが、三好長慶と松永久秀との戦いで敗れ討ち死にします。
これがキッカケで伊勢氏の影響力が大きく後退する事になりました。
そして、1564年に伊勢氏に代わり足利義輝の流浪時代から仕えていた摂津晴門が政所執事となったのです。
永禄の政変と摂津晴門
義輝が摂津を政所執事にした理由としては、幕府の政務を将軍が口を挟めるようにする意図があったようです。幕府成立以降、あの足利義満でさえ政所を自由に制御できなかったそうです。
また、摂津自身も一族の権力を伸ばすためには、政所執事と言うのは魅力的な仕事であったと事でしょう。
しかし、そんな摂津にも厄介な人物がいました。三好家の重臣・松永久秀です。
将軍はお飾りであったほうが何かと都合のよかった松永久秀ら三好一派は、何かと将軍の権力復権に意識が高かった義輝らが邪魔だと感じていました。
そして、1565年6月17日、義輝の後ろ盾だった六角氏が動けない事を狙い、三好三人衆と松永久通が京都二条御所にいる義輝を襲撃します。この永禄の政変は、三好側が将軍に自分たちの条件を飲ますために軍勢を出し、将軍側が強固な拒否により殺害に至ったと言うのが定説となっていますが、ハッキリしていないのが現状です。
事実として、永禄の政変で13代将軍・足利義輝は殺害され事は分かっています。
この政変で、将軍の側にいた摂津晴門の嫡男・摂津糸千代丸が奮闘しますが討ち死にしてしまいます。
義輝の討ち死により、14代将軍は三好一派が推す足利義栄が就任し、幕府政所執事・摂津晴門は、お役御免となりました。この時、執事に返り咲いたのが伊勢氏でした。
足利義昭を擁して政所執事に返り咲く
永禄の政変で嫡男を失い、政所執事を解任された晴門ですが、官途奉行の地位はそのまま安堵されていました。しかし、足利義栄が伊勢氏を再び重用する事に反発した晴門は、将軍宣下に出席せず、自らは足利義昭に仕えるようになります。
流浪の時を過ごした足利義昭が、織田信長の庇護を受け上洛を果たすと、1568年に再度政所執事に返り咲くのでした。しかし、1571年にその職務を伊勢貞興に奪われてしまいました。
この理由として、晴門が義昭と不仲になったとも言われていますが、この時政所執事になった伊勢貞興はわずか9歳で、その職務の代行を信長が行っていたことから、おそらく信長の圧力がかかっての解任劇と推測されます。
これ以降、摂津晴門の記録が出なくなり、おそらく隠居したか程なく亡くなったと考えられています。史料が少なすぎてこの程度しか分かりませんでしたが、以上が『麒麟がくる』で一番の悪役と言われている摂津晴門の紹介です。
年代的にそろそろ【摂津晴門】はドラマでは退場する事でしょうが、あのイラっとくる片岡鶴太郎が演じる晴門を来週も楽しみしたいと思います。