長宗我部元親の四国統一の道のり
長宗我部元親は、土佐国の弱小領主から土佐一国を治めるまでになり、最終的には四国全土を一代でほぼ征服した戦国武将です。中国の毛利氏、九州の島津氏と並び、西日本の3大大名家の一つとされています。
土佐国は、平安時代から流刑となった人々が送られる僻地でした。戦国時代になってもも日本の文化の中心は、四国山脈を超えた場所にありました。元親が活躍した頃も土佐の国は後進地でした。
その証拠に、秀吉の小田原攻めに参じた長宗我部氏の家臣たちは、馬に鞍を乗せる事を知らず、そのまま馬に乗っていたと言う逸話もあるほど、中央の文化に疎かったとされています。鉄砲の数も、九州の島津や中国の毛利に比べて、極端に少なく遅れを取っていました。
長宗我部氏の四国統一までの道のり
長宗我部元親は、土佐国内の岡豊の小さな領主からスタートしました。北は四国山脈、南は太平洋に囲まれた土佐の国、ただでさえ不利な地域の小さな領主だった長宗我部氏がどのようにして四国の覇権を取るようになったのか書いていきたいと思います。
土佐国の7つの勢力
長宗我部氏18代当主・雄親の頃、土佐国は7つの勢力がありました。
- 長宗我部氏
- 本山氏
- 津野氏
- 大平氏
- 吉良氏
- 一条氏
- 安芸氏
これら7つの勢力で圧倒的な力を持っていたのが五摂家の一条氏でした。
19代・長宗我部兼序は、一条氏や管領家・細川氏と友好関係を築いていた事が、ほかの土佐領主達の反感を買い、1508年に本山氏を初めとする土佐小領主連合に攻められ、本拠地・豊岡城が落とされ領地が全て奪われてしまいます。
この争いで、長宗我部兼序は自害し、大名としての長宗我部氏は一時的に滅亡しましたが、嫡男・国親が一条氏に身を寄せ、10年後には同氏の仲介で旧領を回復します。しかし、10年の歳月で長宗我部氏の旧臣たちの仲には他家に仕えている者も少なくありませんでした。
一領具足の独自の兵組織
一条氏の仲介で旧領を取り戻した長宗我部国親ですが、旧臣たちは戻ってきませんでした。そこで、経済基盤作りと兵力の増強を図り、農民達の中から見込みのあるものを登用して新しい家臣団を再編成します。
これが、長宗我部氏独自の軍事システム【一領具足】の基礎となりました。
普段、農作業をしている農民達は領主たちの召集に直ちに応じることができるように、農業をしている時も、常に槍と鎧を傍らに置いていた事から、一領具足と呼ばれたそうです。
関が原後に長宗我部氏の後釜として土佐一国を与えられた山内一豊でしたが、土佐の一領具足達は新領主を歓迎せず、度々一揆を起こし手を焼くほど、長宗我部氏と一領具足達は強い絆で結ばれていたようです。
こうして、長宗我部国親は内政と軍備の充実を図り、1544年に宿敵・本山氏の嫡男と自分の娘を政略結婚させました。1547年には長岡郡南部を制圧し、土佐郡南西部をほぼ手中に収めることに成功します。
こうして、お家の落ち目を何とか凌いだ国親ですが、1560年に更なる領土拡大のため、同盟を破棄し本山氏を討つべく兵を挙げました。しかし、戦いの最中に国親は57歳の生涯を閉じることになります。
長宗我部元親の誕生
後を継いだのは元親は、【背が高くて色白で性格は内向的】だったため、家臣たちから姫若子と言われていました。初陣も、本山氏との戦いの時で22歳と遅く、当主の病死と姫若子のうわさを聞いていた本山氏は、元親をなめてかかっていました。
しかも戦いを前にして家臣たちに槍の使い方を聞く有様で、重臣達も大いに不安になったようです。ところが、いざ合戦が始まると姫若子ではなく、そこには合戦の鬼がいました。
よく車のハンドルを握ると豹変する人がいますが、元親は槍を持つと性格が豹変して、戦の鬼になるタイプだったようです。この長浜の戦いは、兵力では圧倒的劣勢でしたが、元親の大活躍で長宗我部氏が勝利し、本山氏は浦戸城へ逃げ込みました。
元親の鬼神の働きにより、姫若子から鬼若子と呼ばれるようになったのは言うまでもありません。
父・国親は本山氏討伐を遺言に残しており、元親は1562年に本山氏の立てこもる城へと進軍開始。このときは、本山氏の奮闘で長宗我部軍が敗北しますが、本山氏の勢力は着々と衰えて行き、見限る家臣たちが相次ぎました。
本山氏の抵抗は続きましたが、当主・本山茂辰が病死し、後を継いだ親茂が1568年に降伏します。この親茂と言うのが、政略結婚で本山氏と夫婦となった姉の子で、元親にとっては、甥に当たることから家臣として登用しました。
こうして、本山氏の治めていた土佐の中央部も手中に収めることとなりました。
土佐最大の戦いの八流の戦い
土佐の東側にを治めていた安芸氏とは、本山氏と戦っている時に居城へ攻められ、一条氏の仲介で一時和睦を結んでいましたが、いずれは決着をつけなければいけない相手でした。
そこで、元親は安芸氏に以下の書状を出します。
【過去のことは水に流し、お互い友好を深めようではないか?我が、豊岡へ来ていただきたい】
と言う内容でした。
本来、和議を結ぶときはお互いの国境付近に出向くのが習いでした。しかし、本拠地に来いと言うことは、【長宗我部に降伏しろ】と言う意味に当たります。
当然、これを見た安芸氏は激怒します。
安芸氏は、元親の挑発にまんまと乗り、家臣たちが制止をしますが聞く耳持たずで、元親と一戦交えることを決断します。一方で、元親も7000の兵を集め安芸城へ進軍し、土佐の天下分け目の戦い、八流の戦いへと進んでいきます。
長宗我部元親は、軍を2つに分けて海沿いから5000、内陸から2000で進軍を開始。
対する安芸氏は、2000の兵を八流の狭い道を利用して迎撃しますが、長宗我部軍の勢いが強く止める事ができず敗北をします。
残る安芸氏の3000の兵も内陸から攻めた長宗我部軍に背後を着かれ、安芸城へ撤退します。その勢いで元親は2つの軍を合流させ、安芸城を包囲します。安芸氏当主の妻は一条氏の出身でしたが、援軍は来ず城内の兵糧は尽きるのは時間の問題でした。
そこで、元親は【井戸に毒を入れた】と偽報を流し城内を混乱に陥れます。
万策尽きた安芸国虎は、兵達の命と引き換えに自害し、安芸氏は滅亡しました。
土佐の名門・一条氏を臣従
周囲の勢力を軒並み侵攻・臣従させ、土佐に勢力は残ったのはとうとう一条氏のみとなりました。
土佐の一条氏は5代目・兼定が当主で、特に咎めの無かった重臣を手打ちにしたりと人望に難があったとされています。1574年には、家老達の一部が兼定を幽閉し妻の実家である大友家へ追放すると言うクーデターが起こりました。
代わりに、兼定の子・内政が擁立され、後見人を長宗我部元親に依頼しました。
最近の研究では、このクーデター騒動は一条家の武家色が強くなりすぎたため、本来の公家としての本文を全うさせようと、京都・一条家が一枚かんでいたともされています。
後見人を引き受けた元親は、一条内政と自分の娘を結婚させ、大津城を統治させることにしました。そして、土佐一条御所には実弟の吉良親貞を入れ、その所領を手に入れました。
追放された一条兼定はこれを黙って見ているわけも無く、大友氏の助けを借りて1575年に、南伊予の豪族・法華津氏と共に3500の兵で、栗本城を奪い旧領奪回の機会をうかがいます。
この知らせを受けた元親は7300の兵を集め、四万十川を挟んで対峙します。
土佐の覇権をかけた頂上決戦の【渡川の戦い】ですが、元親の陽動作戦にまんまとかかり、一条兼定はほんの数時間で敗れてしまいました。そして、瀬戸の小島へ流刑になります。
こうして長宗我部元親は、土佐国の権力を掌握したのでした。
長宗我部元親の四国統一への道
土佐統一後は、中央で勢力を強めていた織田信長と同盟を結び、四国の伊予・阿波・讃岐国の侵攻へ着手します。しかし、阿波・讃岐方面は、十河存保や三好康長の抵抗もあり思うように事は運びませんでした。
1577年に三好長治が戦死すると、三好氏の衰退は著しくなります。
1578年に元親は、讃岐国での有力な勢力・香川氏、大西氏、羽床氏を破り讃岐をほぼ制圧し、阿波国では十河存保軍を破り、1580年までには阿波・讃岐の国をほぼ長宗我部の所領としました。
伊予方面では、伊予守護・河野氏が毛利氏の支援を受けて抵抗したため、伊予平定は長期化していました。しかし、1580年に織田信長は長宗我部の四国平定を認めず、土佐国と阿波南半国のみを所領と認めて臣従するように要求しますが、元親はこれを拒否します。
こうして織田信長と対立色を強め、1582年には織田信孝を大将とした四国討伐軍が編成され、6月2日に四国攻撃のため渡海する予定でしたが、この日に明智光秀による本能寺の変が起きて元親は危機を脱することになります。
信長の死により政治空白が起き、これ幸いと阿波の攻略へ向かいますが、それを阻もうと宿敵・十河存保とぶつかります。この第一次十河城の戦いで十河軍を破った元親は、阿波の大半を手に入れることができました。
羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、長宗我部元親は勝家側に付き秀吉に対抗します。このとき、秀吉に援助を頼んでいた十河存保が、秀吉軍と共に長宗我部の屋島城と高松城を攻めますが敗れています。
1584年に、秀吉と徳川家康が対立し、小牧・長久手の戦いが勃発すると家康側に付き秀吉に対抗しました。四国に秀吉から仙石秀久が派遣されましたが、見事に撃退しその勢いで、伊予一部と讃岐の十河城を落とし讃岐を平定しました。
しかし、伊予全土の平定に1585年までかかって四国全土をその勢力下に収めることができました。しかし、小牧・長久手の戦いが、織田信雄の単独講和により終結し、徳川家康が秀吉に臣従すると秀吉の矛先が長宗我部元親に向くことになります。
豊臣秀吉の四国侵攻と長宗我部氏滅亡
当初、秀吉と元親は交渉による講和を模索していましたが、領土配分に折り合いがつかず、交渉は決裂しました。こうして、1585年に豊臣秀吉は、黒田勘兵衛を先鋒に12万人以上の兵を四国へ送り込みました。
元親は地の利は我にありと徹底抗戦を模索しましたが、圧倒的な兵力差に勝てるわけもありませんでした。それでも抵抗しつつ講和を模索した結果、長宗我部氏の滅亡は避けられどうにか土佐一国の安堵を手に入れました。
豊臣政権下では九州討伐・小田原攻め・朝鮮出兵従軍します。
九州討伐の戸次川の戦いでは、四国勢の大将・仙石秀久の独断により最愛の息子・信親が戦死してしまいます。さすが、将来を有望していた息子だけあって、一度に8人を切り伏せた見事な武将ぶりを見せての戦死だったとされています。
あまりの悲しさに元親は、自分も自刃しようとしますが、家臣たちに止められています。秀吉も、自分の家臣の不始末に後ろめたさがあったのか、大隅国を加増すると持ちかけますが、元親の心中はそれどころではなく申し出を固辞したそうです。
四国へ帰った後、元親は次男・三男を差し置いて、四男・盛親を時期当主と定めました。当然、反対するものが出ますが、そう言ったの者達は次々と粛清し家内を再編成しました。
1599年に元親が死去すると、戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主として盛親が継ぐことになります。天下分け目の関が原で西軍に属し、敗戦色濃厚として戦わず帰国し徳川家康に臣従します。しかし、家康から家臣たちが一揆を起こしたことを咎められ、領国を没収され大名としての長宗我部氏は滅亡することになりました。