本能寺の変で明智光秀が織田信長を討ち取る動機
以前の記事で、本能寺の変は明智光秀の発作的行動で、単独犯だったと言う説を書いて行きました。※これもまた一つの説にすぎません。
今回はその続きで、
どうして明智光秀は信長に謀反を起こすに至ったのか?
という所を考察し見たいと思います。
明智光秀の目標は織田信長一人だった!?
本能寺の変時点で、織田家の家督は嫡男・織田信忠に譲られていました。
もちろん実質権力者は信長ではありましたが、名目上の当主は信忠でした。
もし、光秀が天下を目指したのなら、本能寺での信長を討った後に厄介な敵になるはずであろう、織田信忠を討つために駐在していた妙覚寺を同時に攻めるはずです。
有能な光秀がその辺を忘れすはずがありません。
歴史上では結果的に信忠は討たれてはいますが、これは光秀の意図するところではなく偶然の事でした。
妙覚寺に滞在していた信忠は、本能寺の報を聞き信長の救出へ向かうが間に合わず、その後に守備能力の高い二条御所へ入りました。この時、家臣より逃げるべきと進言があったのにもかかわらず徹底交戦を主張し、結局は打ち取られてしまいます。
織田長益や前田玄以などが逃げられていることから、信忠も十分に逃げられる時間があったと思われます。
二条御所でやむを得ず信忠を討ちましたが、妙覚寺駐在していた当初は、兵を差し向けてはおらず、信長を討つことを最も最優先させたという事が行動から伺えます。
では、どうして信長を討つことは唯一の目的だったのでしょうか?
最近の研究で一つの説が浮上しています。
明智光秀が織田信長を討つ動機
本能寺の変の4年前に、朝廷が右大臣と右近衛大将両官を辞任した信長に、征夷大将軍か太政大臣、関白のいずれかを与えるとして信長の答えを待っていました。信長は、平家の流れをくんでいるとして太政大臣になると思われたが、その答えを保留していました。
そんな中で信長は、正親町天皇に譲位を迫ったとも見れる、京都馬揃えを行い朝廷に対して圧力をかけるかのような行動をします。
近年の研究では、安土城には、天皇を迎える御幸の御間と呼ばれる建物があり、その中に『皇居の間』があったとされています。本丸には、御所の内裏・清涼殿にかなり近い構造の建物があった事もわかりました。
この清涼殿的な建物が、皇居の間にあった建物であろうと推測されています。
この建物は信長の居室であった天主のから見下ろせる位置に建てられていた事から、信長は天皇より上の存在であることを誇示しようとしたのではないかと考えられています。
このような天皇不遜の行為に対して常識人の光秀はとても心を痛めていました。
また、本能寺の2か月前の1582年4月3日に信長が武田攻めを終えた直後、甲斐国内になる恵林寺で悲劇的な事件が起こります。
武田家が織田家に敗れたが武田領を拠点に反信長活動をしていた、六角次郎が恵林寺に逃げ込みました。織田軍は恵林寺の妙心寺派の快川紹喜に次郎の引き渡し要求をしますが、それを拒否します。
織田家に敵対し続けた六角次郎を匿う事は当然許されることではなく、信長に代わって旧武田領の戦後処理をしていた嫡男・信忠は恵林寺成敗をすることを決めました。
恵林寺の僧ら150人余りを集めると二階に押し込み、刈った草を積み上げて火を放ちました。閉じ込められていた多くの僧がわめき苦しみ暴れる中、ひとり快川紹喜だけは、冷静沈着、じっと座ったまま身動きせず炎に包まれ亡くなります。
朝廷から国師号(天皇の師への尊称)を与えられた名僧の見事な最後でした。
この快川紹喜は武田信玄の葬儀も執り行った僧でもあり、美濃土岐氏の出身でもあり、同族の明智光秀は一族の誇りともいえる存在だったと考えられています。
その証拠に本能寺の変後に光秀は、妙心寺に銀を奉じています。
この出来事は光秀にとって決して小さなことではなかったはずです。
この謀反に光秀の計画性が見えないのは、たまたま信長が打てる状況が現れたということからとっさに行動を起こしたと考えます。
天皇への不遜と一族の誇りともいえる快川紹喜を殺したことによる怒りから、信長が許せないと言う思いと確実に信長が打てる状況が出現したことによる発作的な行動だと考えられています。
本能寺の変直後の光秀と朝廷の関係を見ると、朝廷は光秀に行動に対して少なくても肯定をしています。
状況証拠のみであって光秀の気持ちの問題と言える推測なので証明は難しいですが、光秀の犯した戦力的ミスを考えると、天下を狙った野望説を否定するには十分な証拠ともいえるでしょう。
光秀には、そこに絶対的な何かがあってそれを汚され事による、今までと違った怨恨説があり本能寺の変が起こったと考えます。