不利な状況から勝利を掴んだ戦国時代の名采配
戦国時代の多くの武将の見せ場はやはり合戦でした。全国各地、大なり小なり多くの合戦が各地であり、その数だけドラマがありました。
今日はその中から、不利な状況から見事な名采配で勝利を引き寄せた織田信長と北条氏康、豊臣秀吉の合戦を紹介していきます。
今川義元を打ち取った桶狭間の戦い
織田信長の名を全国に轟かせたのは、何と言っても桶狭間の戦いでしょう。
この戦いはまさに、一世一代の大勝負であったのは間違いはありません。しかし、織田信長は、この戦いを運に任せて大博打を討ったわけではありません。そこには、綿密な戦略を立てた上での行動が結果に結びつき、運も味方につけたのです。
この戦略には、信長らしい采配がいかんなく発揮されていました。
桶狭間の戦いは、今川軍25000に対して、織田軍最大5000人でした。しかも、織田家の宿老たちは清州城での籠城を進言していたと言います。だが、信長は、これを拒否した上で秘策を練っていました。
その翌未明に『人間50年…』の【敦盛】を舞って覚悟を決めた信長は、家臣たちを招集して短期決戦に織田家の命運をかけました。
熱田神宮で戦勝祈願をしたのち、ほど近い善照寺砦に入りました。
そこで、信長の下に一本の情報が入りました。
今川義元が織田家の砦を2つほど落としたのに気を良くして、今川本隊が狭い田楽桶狭間で休息中と言う情報が入ったのです。
この情報が、信長勝利のターニングポイントでした。
この時、手元の兵はわずか2000人。
『運は天に有り。分どりなすべからず、打ち捨てに成すべし』と訓示し、狙うは義元の首一つと下知しました。
この時、突然の雷雨も味方して、油断した義元の首を取り全国にその名を知らしめる結果となるのです。
織田信長の生涯の合戦成績は、59勝15敗8分で、全部の合戦に勝っているイメージでしたが、以外にも負けていることが分かります。
関東の覇者決定戦の河越夜戦
北条家の武蔵国における前線基地だった河越城を奪還すべく、関東管領の上杉憲政が1545年に駿河の今川義元と盟約をして、北条氏康を叩きのめすために挙兵しました。
この時、氏康はある決断をします。
今川氏と揉めていた、駿河の富士川以東を捨てて、今川義元に有利な和睦を持ちかけることにしました。今川との和睦が上手くいき、関東の敵を上杉一本に定めることに成功します。
しかし上杉方は、山内・扇谷両家の上杉に古河公方・足利晴氏がこぞって河越城を取り囲みました。その数8万人、河越城には、義弟の北条綱成がわずが3000の兵で籠城をしていました。救援に向かった氏康の軍もわずが8000で、10倍の上杉軍を相手にしなければいけませんでした。
これにはさすがの北条氏康も勝てぬと踏み、和睦を申し出て籠城兵を助けてやってもらえないかと再三願い出ますが、上杉軍は強気で和睦を拒否します。
しかし、これが氏康の心理的作戦で、上杉軍は慢心して油断しきっていました。
そして、天文15年4月20日、北条軍は甲冑をつけずに身軽になり、取った首は野に捨てろと命じて、敵陣を夜襲しました。気が緩んでいた上杉軍は、大混乱となり、後詰めで河越城からも出陣して敵はあっという間に壊滅状態になり、北条氏康は関東の覇者に上り詰めたのでした。
秀吉のお家芸、水攻めで落とした太田城
豊臣秀吉が得意とした戦略は、相手の戦意を喪失させてつつ、人的被害を最低限に抑える水攻めや兵糧攻めでした。
この太田城攻城戦では、経済力を用いて農民を雇い入れ、堤を築いて城を水攻めにする事で、味方の人的被害を最小限に抑えました。そんな水攻めが大好きな秀吉は、毛利攻めの備中高松城や小牧長久手の戦いの竹ヶ鼻城でも用いられました。
その秀吉が、紀州の雑賀・根来衆を討つために、1585年に10万の大軍で攻めました。
戦いの終盤に、雑賀衆らが逃げ込んだ太田城を3月下旬から水攻めにしました。全長7.2km、高さ5mの大堤を数日で作り上げたと言います。備中高松城では時間をかけて攻めましたが、この太田城では短期決戦を目指しました。
その理由としては、急ぎ京都に帰り、関白になると言う大切なスケジュールがあったためと言われています。
紀ノ川から誘水路を掘って、堤内に軍船を引き、大砲、大型銃などで一斉射撃を行いました。太田城には、女子供も籠城していたため、城は恐怖に包まれました。ついには、籠城者は罰せないと和議が成立して、雑賀と根来衆の残党が切腹して4月22日に太田城は開城しました。
その2か月後には、秀吉が関白になり、天下統一へ進んでいくのでした。