豊臣秀吉の天下統一までの流れ
豊臣秀吉と言えば、農民の出でありながら、織田信長のなしえなかった天下統一を果たした出世人として有名です。歴史の教科書では信長が本能寺にて倒れた後、天下統一事業を引き継いだと書かれています。
では、秀吉は本能寺の変後、どのようにして天下統一を果たしていったのでしょうか?
織田信長の死と豊臣秀吉の台頭
1582年の本能寺の変で織田信長が倒れた時、秀吉は備中高松で毛利軍と対峙していましたが、直ちに和睦をまとめて京都まで引き返します。そして、京都西の山崎の地にて明智光秀と戦い、勝利します。
山崎の合戦勝利後の6月27日、清須城において信長の後継者と領地の分配を決めるための会議が織田家重臣たちの間で行われました。これを、清州会議と言われています。
この清州会議で、柴田勝家との対立が決定的になり賤ケ岳の戦いへと発展していきます。
賤ケ岳の戦いで、柴田勝家を破ると信長の後継者として地位を確立させます。
しかし、秀吉を後継者として認めない勢力がありました。
それは、信長の息子・織田信雄と徳川家康でした。2人は手を組み、秀吉を討つため連合軍を結成して戦うことになります。これが、1584年の小牧・長久手の戦いです。
この戦いで徳川家康と秀吉との関係が悪化しますが、戦いの最中、織田信雄が家康に無断で秀吉と和睦をしてしまったことにより、家康側の大義名分がなくなり、結果引き分けとなりました。
その後、家康が従臣として秀吉の元へ行くのは、さらに2年の歳月が流れることになります。
朝廷との関係づくりと関白就任
織田信雄と家康との後継者争いと並行して、秀吉は朝廷との関係を積極的に作っていきます。その甲斐あってか、秀吉は朝廷から従五位下・左近衛権少将の地位に叙任されます。朝廷側も、織田信長亡き後、良好な関係をもつことができ、乱世を治められる秀吉が必要だったのでしょう。
それが証拠に、織田信雄との講和が正式に成立した直後、朝廷は秀吉に 従三位・権大納言に叙任しています。これにより、朝廷が正式に信長の後継者として認める根拠となりました。この官位は、本能寺で討たれた織田信長に与えていた官位と同じでした。
その後の秀吉は、信長でもたどり着けなかった地位を取得していきます。
1585年、摂関家内部での関白の職を巡る争いに入り込み、これをおさめていく中で秀吉自身が関白の地位につくことを表明します。しかし、農民での秀吉は摂関家の血筋ではないので、関白就任には強い反発がありました。そこで秀吉は、摂関家に対して加増という賄賂で次々と取り込んでいきました。
こうした努力で、秀吉は従一位・関白に就任します。
豊臣秀吉による政権
これまでの鎌倉~室町幕府のような武家政権は、征夷大将軍を据えていました。
一時期、北条家が権力を握っていた執権政治の時期もありましたが、建前上の政権の長は、武家の棟梁である征夷大将軍です。
この征夷大将軍は、清和源氏のように天皇家の血筋を引く【貴種】であることが、必要条件でした。しかし、秀吉は農民の出で血筋的に征夷大将軍の資格はありません。
そこで、秀吉は貴種が求められる征夷大将軍ではなく、天皇家と結びつきを強めることによって、関白になることを選んだのです。
関白というのは、天皇の次にえらい存在です。
秀吉は当時の天皇である後陽成天皇の名を借りて、支配力を広げていきます。
代表的なのが【惣無事令】で、争いが続く関東、九州を対象に天皇の名のもとに停戦命令を発します。つまり、これに従わないということは、天皇に背くことという構図を作ったわけです。
小田原攻めと天下統一
秀吉は、島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て惣無事令を出しますが、九州平定目前の島津義久は拒否したため、九州討伐の命を出します。1587年に20万の大軍を九州に派遣して、島津を圧倒し、降伏します。これにより西日本全域を帰順させます。
同じ年の12月には、関東の北条氏と奥羽の伊達・最上氏などにも惣無事令を出します。
しかし、1589年に北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野名胡桃城を奪取したことを惣無事令違反として、1590年に20万の大軍で関東へ遠征、北条氏の本拠小田原城を包囲した。この戦いで、北条氏は降伏をして北条氏政・北条氏照は切腹します。この時、奥羽の伊達・最上氏は小田原攻めに参上したことにより、一定の領土が安堵されることになります。
これにより、秀吉による天下統一が達成されました。
朝鮮出兵
まず、朝鮮出兵はに文禄の役(1592)・慶長の役(1597)という2度に渡る朝鮮との戦いのことを言います。実はこの朝鮮出兵の目的は、朝鮮半島の奥にある『明』を見据えた出兵でした。
事の始まりは、秀吉の誤解から生まれたといわれています。
1590年に朝鮮の使者がやってきて、朝鮮国書などの文面から、秀吉は朝鮮がすでに日本に服属しているとみなしていたそうです。それは朝鮮との貿易を間で取り持っていた対馬の宗氏による国書改竄が背景にあります。
対馬の宗氏は、貿易によって藩の財政が成り立っていました。
そのため、日本と朝鮮、両者が争うこと無く貿易を行えるよう互いの面子をたてるような文面に改ざんするということを何度もしていたのです。
また、当時の明は、 海禁政策をとっており、一般の明人の海上貿易や渡航を禁止していました。秀吉は、この明の政策に対して、軍事圧力をかけて一部の明の領土(寧波沿岸部)を奪い取り、東アジアにおける中継貿易を主導しようとしていたようです。
そんな意図で、秀吉は『明』への侵略を計画したという見方がされています。
秀吉の朝鮮がすでに日本に服属しているという誤解が、朝鮮出兵の大きな失敗でした。
明への侵略で朝鮮は日本に協力してくれるものと思いこんでいたのです。
しかし実際は、朝鮮と明は結びつきは強かったため、秀吉の意に反して朝鮮は反発し、最終的には戦乱となりました。結果としては、李舜臣率いる朝鮮軍の激しい抵抗などにより、文禄・慶長の役ともに失敗に終わり、秀吉の死をもって軍は帰国することになります。
この一連の出兵により大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、豊臣政権の基盤を危うくする結果なります。
一方で、九州への出陣止まりで朝鮮へ出兵しなかった徳川家康が出兵の疲弊を逃れ、後に天下を取る要因ともなるのです。