織田信長はどんな政治を行っていたのか??
前回の記事では、織田信長が尾張の小大名から出発し、桶狭間の戦いを経て室町幕府を滅ぼし、有力大名や比叡山延暦寺などの仏教勢力を武力で抑え込んだ説明をしました。
この記事では、実際に織田信長が行った政治面について説明していきたいと思います。
- 外国とのかかわり方
- 政治政策
を中心に最後は、【本能寺の変】についても触れて行きます。
- 1560年 桶狭間の戦い(信長vs今川義元)
- 1562年 信長と徳川家康が同盟を結ぶ
- 1567年 信長が美濃国を制覇する
- 1568年 信長が足利義昭と京都へ入る
- 1570年 姉川の戦い(信長&家康vs浅井・朝倉軍)
- 1571年 信長が比叡山延暦寺を焼き払う
- 1572年 武田信玄が徳川家康を破る
- 1573年 信長が足利義昭を京都から追放する(室町幕府滅亡)
- 1575年 長篠の戦い(信長&家康vs武田勝頼)
- 1576年 信長が安土城の築城を開始
- 1582年 本能寺の変により信長死去
ヨーロッパ人の来航
本題に進む前に、当時の外国とのつながりを確認していきましょう。
安土桃山前後の時代は、ヨーロッパの国々がアジアに進出していました。
日本にも、スペインやポルトガルから宣教師や貿易船がやってきてヨーロッパの進んだ文化や品物をもたらします。
ポルトガルのフランシスコ=ザビエルは、西日本を拠点にキリスト教を広めました。こうした努力の結果、日本でもキリスト教を信じる戦国大名や民衆が増えてきました。
一方で、堺などの港町には、これらの国との南蛮貿易によって大いに栄え、特に鉄砲の影響は長篠の戦で勝利した織田信長を始め、戦国大名の多くが買い求め、その後の戦が変化します。
このようにヨーロッパ人の渡来は、大きな変化をもたらし織田信長や豊臣秀吉の政治に影響をもたらしました。
織田信長と安土城
織田信長は、交通の要所である近江※の琵琶湖に近い場所の安土山に城を築きます。この城を安土城と呼び、その城下町には誰でも商売ができる【楽市・楽座】や市場の税金や関所を無くすなどの政策を行い、商工業の発展に貢献しました。
また、ヨーロッパから伝えられたキリスト教を保護し、安土にはキリスト教の学校、京都には教会を立てることを許可します。
しかし、信長は天下統一の途中、京都の本能寺で家臣・明智光秀に襲われて自害しました。
東京書籍 新しい社会6(歴史編)を一部改変・引用
織田信長の政治・外交政策
武力による有力大名と仏教勢力を抑え込み、機内での敵がほぼいなくなった織田信長は、全国統一の総仕上げともいえる事業、安土城の築城を始めます。信長は、この安土城を活動の拠点として天下統一事業を果たそうとしたようです。
織田信長の街造り
この時代は、国を治める人も城に住むようになり、家臣やその家族も城の近くに家を構えていました。自身や家臣たちがより暮らしやすいように城下に生活するための施設やお店をたくさん建て、城下町として発展します。
人々の生活の物資や軍事物資の運搬に琵琶湖の水運は便利で、この安土は、湖のほとりで京都からも近くとても立地の良い物件でした。
楽市・楽座
城下町のさらなる発展の為に信長は、安土の城下町では税金を免除してだれでも自由に背負う場ができるようにする政策を打ち出しました。
これまでは、商売をしたいと言う人は、その商売グループ(組合)に入らなければいけませんでした。当然その組合に入るにはお金が必要になってくるのですが、それらのしがらみを全てカットして、だれでも自由に商売をできるようにしたのです。
こうした政策の結果、安土の街は人口が6000人以上になり、信長以外が治める国からは人が出ていくという事なのでまさに一石二鳥。
この信長が打ち出した政策を楽市楽座と呼びます。
- 【楽】…自 由の意味
- 【市】…市 場の意味
- 【座】…商売するグループ(組合)
関所の廃止
関所とは、国の境にある税関みたいなところで、ここを通るときには荷物の検査を受けたり、通行料金を支払ったりしていました。ようするに国をまたいでの人やモノの移動には税がかかります。
信長は関所を1568年に廃止しました。
これによって、通行料などが無くなり人と物の行き来が活発になり、経済が発展すると考えたようです。
ちなみに関所は、防犯の役割も担っており、荷物検査をすることで怪しい人物や物の発見にも繋がっていました。しかし、この関所廃止が、信長の命運を決めたとも言われ、関所さえあれば明智光秀の謀反も防げたのではないかと言われています。
その後は、各地で関所が撤廃されていくのですが、江戸幕府が開かれると関所が復活し、明治まで続くことになります。
織田信長によるキリスト教の保護政策
まず、キリスト教について。
1543年に初めてポルトガル船が漂着した時に鉄砲が伝わりましたね?
それ以降の度々ポルトガル船が日本に来航するようになり、ある時一緒に日本へやってきたのがポルトガル宣教師・フランシスコ=ザビエルでした。日本に仏教が伝わったのが6世紀でしたが、キリスト教についてはこの時代に初めて伝わってきました。
信長のキリスト教保護政策と言っても守ったという事ではなく、キリスト教が日本で活動する事を許可した事になります。こうして宣教師達は、京都で布教することも許され、安土城の城下町にはキリスト教の学校まで建てるまでになりました。
キリスト教を許可した信長ですが、自身は決して信者ではなく仏教の対抗勢力の一つとして考えたのでした。当時、比叡山延暦寺や一向宗に手を焼いていた信長は、キリスト教を保護すれば仏教勢力を抑えられると思ったようです。
また、キリスト教をキッカケに貿易も盛んになり、新しい知識や文化、品物が日本に入ってくるようになります。信長は、新しいことをドンドンと取り入れる人だったので、こうした外国人と積極的に交流を深めていきました。
こうして順風満帆に天下統一を目指していた織田信長でしたが、あともう少しの所で家臣の裏切りに合い暗殺されてしまいます…
本能寺の変
信長は、京都へ用事があった時は、日承上人が住職をしている本能寺を訪れていました。
日承上人は、天皇の親戚だった事で、天皇との関係を大切にしていた信長にとっては、頼りにしている人物でした。特に天皇からの宣旨(天皇の命令書)を貰うときや幕府を開くときに征夷大将軍に任命される必要があるので天皇と天下統一の関係は必要でした。
また、本能寺では仏教の教えも受けていたようです。
延暦寺焼き討ちや一向宗との戦いで信長は反仏教だと思われますがそうではなく、僧たちが武装し、お金儲けをし始めたことで「僧や寺の本来あるべき姿を忘れてはいけない」との考えで攻撃したのです。
けっして仏教を否定してやったわけではないので、覚えておいてください。
こうした中、1582年6月21日に織田信長は本能寺に宿泊していました。
しかし、朝早く家臣の明智光秀が突然本能寺を攻めてきました。あまりの突然の事で信長は、どうする事も出来ずに【是非もなし】と自ら本能寺に火をつけて自害しました。
明智光秀の裏切りには、たくさんの説が言われていますが、どれも決定打にはならず未だ謎のままです。詳しい説は下記の記事で書いてますのでよかったらどうぞ。
織田信長の今回の記事のポイント
- 織田信長は商人たちが自由な商売ができるようにした(楽市楽座)
- 織田信長は各地の関所をなくした
- フランシスコ=ザビエルが1549年に日本へやってきてキリスト教を広めた
- 織田信長はキリスト教を保護した
- 織田信長は本能寺で明智光秀に暗殺された【本能寺の変】