北山文化と東山文化の違いを比べてみよう!!
室町時代には、足利義満の時代に北山文化が足利義政の時代には東山文化が生まれました。ちなみに、南北朝の動乱を背景として南北朝文化というものあるようです。
この頃の文化は、現代の私たちの生活にも直接つながっているものも多く、畳の部屋や障子・生け花や浦島太郎などのおとぎ話などがあります。
学校でもその文化違いを問われることがあるので、今回はより有名な室町時代の文化である北山文化と東山文化の違いについて書いていきたいと思います。
北山文化と東山文化の違いと共通点
この時代の文化の特徴としては、幕府が京都に置かれた事で武家文化と公家文化が融合をし、東アジアとの交易が活発化した事により、大陸文化と伝統文化の融合も進み、広い基盤を持つ文化が生み出されました。
両文化の違いを簡単に言うと、武家文化が公家と禅宗どちらの影響をより強く受けたかと言う点です。公家の影響を強く受けた北山文化は優美で華やか、一方で東山文化は禅宗の影響を強く受けたことで簡素で洗礼された深みのある文化と言えます。
非常に簡易的ですが、北山文化と東山文化は
- 北山文化…公家文化の影響を強く受けた優美で華やかな文化。
- 東山文化…禅宗の影響を強く受けた簡素で洗練された深みのある文化。
といった違いがあります。
南北朝時代に入り56年ほど経つと、足利義満が南北朝統一を果たしたことにより
- 幕府と朝廷が京都に置かれ武士と公家文化が融合したこと
- 室町幕府が数ある仏教の中で禅宗を保護したこと
で上記のような文化の影響を強く受け、水墨画や庭園、茶の湯など現代に続く日本の伝統文化の基本が作られました。
華やかな室町時代の文化【北山文化】
上述したように公家文化がより強く出た文化が北山文化。優美で華やかで猿楽や田楽などの芸能が能楽に発展しました。代表的なものとして、能・金閣・五山文学・水墨画※が挙げられます。
水墨画には北山文化で発展し、東山文化で日本的な水墨画様式の完成をさせました。東山文化の項で後述します。
金閣(鹿苑寺)
北山文化を象徴する建物として、三代将軍・足利義満が建てた金閣があります。正式名称は、鹿苑寺(ろくおんじ)と呼ばれています。
義満が将軍をやめた時期に別荘として京都北山※に建てました。
3層作りの金閣の下層は、公家たちの住まいの特徴である寝殿造り風の様式で、中層は武家住宅の造りで、上層には禅宗様と呼ばれる寺院建築の様式を取り入れた公家・武家・禅宗の良い所を取り入れた建物でした。
※京都北山からとって北山文化と言うよ^^
能と狂言
北山文化を代表する芸能に能楽があります。
平安時代に行われていた民間芸能、猿楽・田楽を基に観阿弥と世阿弥親子が能面をつけた役者を音楽に合わせて舞う能楽(能)を作り上げました。
観阿弥・世阿弥親子は、神社の祭りなどに猿楽を披露していた観世座のメンバーで、当時の芸能分野は河原者と呼ばれる低い身分の人たちでした。それを全面バックアップしていたのが義満で、観世座の人気を聞きつけた義満は京都巡業の際には見に行っていたようです。
それ以来、幕府のお抱えとなり観阿弥と世阿弥は芸を磨き、能楽を作り上げました。
能楽の合間には、大名や僧侶たちなどの威厳なる人たちを笑い飛ばす、風刺性の強い短い喜劇が披露されました。これが狂言です。
現在にも受け継がれている、日本の伝統芸能・能と狂言はこの北山文化で生まれ育っていきました。
五山文学
義満は、宋の制度を取り入れて、幕府が特別に保護する格式の高い臨済宗の5つの寺院の京都と鎌倉に建てました。この五山の僧たちは幕府の保護を受けて、儒学(朱子学)を学び漢文や漢詩を作りました。
これを五山文学と言います。
- 鎌倉五山…建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺
- 京都五山…南禅寺を別格に相国寺・天龍寺・建仁寺・東福寺・万寿寺
京都は六山あるのですが、臨済宗の大本山南禅寺がありそれを差し置くことが出来ずに、別格扱いとしたようです。
侘び寂びの東山文化について詳しく
義満の時代から80年後の8代将軍・足利義政の時代の文化を東山文化と呼ばれています。
北山文化を継承しつつ禅宗の影響を強く受け簡素で洗礼された深みのある文化になっています。
現在の日本の住宅建築の原型となった書院造や禅宗の影響を受けた庭園が造られるようになりました。禅宗の修行にも取り入れられた水墨画は北山文化で発展し、雪舟が登場した東山文化で大成します。
銀閣
東山文化を代表する建築物として銀閣があります。足利義政が
正式名称は慈照寺で、2層作りの下層は書院造、上層は禅宗様と呼ばれる寺院造りの様式となっています。
この書院造には床の間や畳、ふすま、障子などが用いられ、現代の日本建築の基になりました。
枯山水
禅宗の寺院や書院造の建物には、禅宗の影響を受けた静かで趣のある庭園が造られました。その中でも異彩を放っているのが枯山水です。
水を一滴も使わずに白い砂で水を岩で滝を表現した庭園で、龍安寺や大徳寺大仙院の枯山水が有名です。この庭園造りに活躍したのも河原者と呼ばれる身分の低い者たちでした。
慈照寺庭園を手掛けた善阿弥は庭園造りの名人としても有名です。
水墨画と大和絵
墨一色で書かれる水墨画は、禅宗の僧が修行にも用いられました。
京都五山の相国寺の僧・雪舟は明に渡り様々な絵画技法を習得しました。この雪舟の誕生が日本の水墨画の今の形にしたと言われています。この完成があったのも、北山文化時代の発展があったからこそだと言われています。
雪舟の主な作品は、『四季山水図巻』『秋冬山水図』『天の橋立図』。
また、狩野正信と元信の父子は水墨画に大和絵の技法を取り入れた画風を確立しました。
これを狩野派といい江戸時代末期までの400年にわたり、日本絵画史上最大の画派として君臨しました。
茶の湯と生け花
日本の臨済宗の祖・栄西が鎌倉時代に中国から伝えたのが茶を飲む習慣は、室町時代に入り公家や武家、民衆にも広まりました。
義政の頃には、四畳半の茶室が作られ公家や武家が茶をたてて、茶をふるまう茶の湯が流行しました。
また、書院造の普及と共に床の間に花を飾る生け花も広まっていきました。