豊臣秀吉は天下統一のためにどのような事をしたのか??
天下統一に向けて安土城を築き、楽市楽座で自由な商売をできるようにしたり新しい考え方の政治を打ち出した織田信長ですが、全国統一目前に家臣・明智光秀に裏切られて本能寺の変にて命を落とします。
その後、信長の意思を継ぎ天下統治を目指したのが、豊臣秀吉※でした。
今回の記事では信長の死後、豊臣秀吉が天下統一のためにどう活躍したか?どんな政治を行ったのか?を中心に紹介してきます。
豊臣秀吉年表チェック!!
- 1582年 本能寺の変で信長が討たれる
- 1582年 太閤検地が行われる(1598年まで)
- 1583年 大阪城の築城を開始する
- 1586年 秀吉が太政大臣になり、「豊臣」の姓を受ける
- 1588年 刀狩令が出される。
- 1592年 朝鮮への出兵(1回目)
- 1597年 朝鮮への出兵(2回目)
- 1598年 秀吉が亡くなる。朝鮮から日本軍が引き上げる。
大阪城と豊臣秀吉
豊臣秀吉は、尾張の身分の低い武士の子供として生まれ、織田信長に仕え有力な武将となりました。秀吉は、信長を裏切った明智光秀を倒し、やがて朝廷から関白に命じられます。そして、四国や九州・関東・東北の大名や一向宗などの仏教勢力を抑え、天下統一を成し遂げました。
東京書籍 新しい社会6 一部引用
身分の低い武士の秀吉が信長に仕える
秀吉は幼いころから、気が利く人だったようです。
信長に仕え初めの頃、ある寒い日の冬に信長が外に出ようと草履をはこうとすると秀吉が信長の足元に持っていた草履を差し出しました。
その草履が温かい事に気が付いた信長。
なんと秀吉は、信長が足が冷たくならないように草履を懐に入れて温めていました。また、ある時は皆が嫌がる危険な仕事も引き受け、一夜にして城を築いた話も残っています。
こうした、秀吉の気が利く所やひらめき、行動力を認めた信長は、次第に重要な仕事を秀吉に任せるようになっていったのです。
こうした任務をこなしていくうちに秀吉は、身分の低い武士から武将までに出世を果たし、城持ちの大名まで成り上がりました。
本能寺の変での秀吉の行動
本能寺の変が起きた時に秀吉は、中国地方の毛利輝元の家臣・清水宗治が守る備中高松城を包囲していました。ちなみに高松城攻略には秀吉も苦戦をしており、信長に手伝ってもらおうと備中に信長を呼ぶことに。
応援要請を受けた信長は備中に向かう途中の本能寺で信長は明智光秀の軍全に襲われ命を落としたとされています。一説には、自分から秀吉を助けに行った、朝廷との揉め事を解決するために本能寺に行っていたとも言われています。
本能寺の変をその翌日に知った秀吉は、ショックを受けながらもすぐに明智光秀を討って信長様の仇を取らなくてはと行動を起こします。
まずは、信長の死を隠したまま高松城の清水宗治の説得を開始。宗治の命と引き換えに城の者の命を助け、城を明け渡すと言う交渉を進めました。
これで城の者が助かるならと、宗治は武士らしく自害しました。
こうして、備中高松城の戦いは終了しました。
次に、秀吉の本拠地・姫路城に戻り戦の準備をしてすぐに明智光秀の元へ向かいました。
その戻るスピードがすごく、思い甲冑を着て大雨の中、大軍が10日で230㌔を移動しました。この驚異のスピードに【中国大返し】と呼ばれるほどでした。
明智光秀は、備中にいると思っていた秀吉が予想より早く戻ってきたことで、事前の準備が整わないまま秀吉と戦う事になります。この山崎の合戦に敗れた明智光秀は、退却途中に農民の落ち武者狩りに合い殺されてしまいます。
当時は【戦に負けた武士を見つけたら何をしてもいい】と言う暗黙のルールがあったようです。そこで戦に負けた武士を見つけては、農民が集団で襲いみぐるみを剥いで金品・甲冑を奪い取っていました。
こうして、秀吉は中国地方から素早く近畿地方に戻り、織田信長の仇を討つことが出来た事で、信長の後継者として天下統一事業を引き継ぐことが出来たのでした。
一方で、密かに天下統一を狙っていた徳川家康も本能寺の変の知らせを受け、光秀打倒を考えましたが、知らせを受けた時は堺に視察をしてたので、一回地元に戻り戦争の準備をしなくてはいけませんでした。
家康が地元に戻り、準備を始める間もなく秀吉が光秀を倒してしまったのです。
豊臣秀吉の政策と大阪城
かつて、一向宗の本山だった石山本願寺のあった場所は、琵琶湖の水源とする淀川が大阪湾にそそぐ水運の要所でした。また、その地形的に攻めるのも難しい地域でもありました。
豊臣秀吉は、この大坂の地に城を築いて政治の拠点を作り、大阪を中心とした物流の流れを作ったり、金や銀山を支配する事で莫大な財力を確保しました。
安定した土地で検地をおこない、田畑の広さ良し悪し、耕作している人物を調べ、収入を確かなものにしました。その一方で刀狩令を出し、百姓たちから刀や鉄砲などの武器を取り上げ、反抗出来ないようにしました。
こうした検地や刀狩によって、武士と百姓と町人と言う身分が区別され、武士と町民は城下町に住み、百姓は農村や山村、漁村で農林漁業に専念するようになりました。
東京書籍 新しい社会6 一部引用
大阪城の築城
秀吉が築いた大阪城は、金箔の瓦を使った豪華な天守閣があり、当時の秀吉の権力を見せつけました。
現在の大阪城は、徳川時代に再建されたものです。桜門や大手門、千貫櫓などが重要文化財に指定され、多くの観光客が訪れています。
当時は、現在の4倍の規模があったようです。
太閤検地の実施
また、支配した全国の土地に家臣を派遣し、村ごとに検地をおこないました。
検地とは、田畑の面積を測り、土地の良しあしを記録し、収穫量や耕作している人の名前も記録しました。これにより、耕作する権利を認められる一方で、決められた年貢を納める義務も追うようになりました。
日本初の検地は北条早雲が行ったとされていますが、秀吉が行った検地の事を太閤検地と呼ばれています。
その検査方法も、土地の大きさをものさしで測り、その土地でどれくらいの米がとれるかチェックしました。では、いままではどうだったと言うと、差出と言い土地の持ち主が、自己申告で米を出していたようで、ごまかそうと思えばできる状況だったのです。
「ものさし」や「ます」も統一!
さらに、大きさを測るものさしも全国バラバラだったのを統一した【ものさし】を作りました。また、コメを測るための【ます】も一緒にしました。
こうして、公平な田畑の大きさを測れるものさしや米を測る事が切るようになりました。
検地結果は、きちんと検地帳に記録し、そこには土地を耕した人の名前も記録されています。
太閤検地の目的
これまでの自己申告による年貢の取り立て方法だと、不正を行う人も出てくることから、きちんと決まった量の年貢を集めるようにキチンと検地をおこないました。
さらに、耕す人を記録する事によって農民が集中して農業に従事できるようにしました。こうする事で、土地が自分のモノになる事が認められる代わりに、その土地にふさわしい年貢を納める義務が農民に課せられました。
年貢の義務を背負う事によって、農民がコメ造りに集中しなければいけなくなり、結果的に一揆の減少につながりました。
刀狩令の目的
豊臣秀吉は、刀狩令を出し農民が刀などの武器を持つことを禁止し、刀などを持つことが出来るのは武士とだけと言う事になりました。
刀狩りの最大の目的は、農民に一揆をおこさせないために付きます。
信長が一向一揆などに苦しめられたのを知っている秀吉は、武器を持たせなければ一揆がおきないのではないかと考えたのです。
こうした秀吉の政策の結果、刀を持つのは武士だけ、百姓はコメを作り年貢を納めると言う身分と役割がはっきりするようになりました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵
国内統一を果たした豊臣秀吉は、中国の明を征服しようと2度に渡り朝鮮に大軍を送りました。しかし、朝鮮半島の人々の激しい抵抗や中国からの援軍に秀吉軍は生き詰まり、その途中で秀吉が死去した事で日本軍は引き上げていきました。
東京書籍 新しい社会6 一部引用
日本国内を統一した秀吉は、外国にも目を向けて明国を征服しようと考えました。
その手始めに、まずは朝鮮の国々を従わせようと考えました。そして、1592年に16万人の大軍を率いて朝鮮半島に侵略戦争を仕掛けました。
朝鮮側の準備がままならなかったので、日本軍はあっという間に朝鮮の首都・ハンソン(現ソウル)を占領しました。しかし、日が経つにつれ朝鮮側の抵抗も激しくなり、さらに明国からの援軍が日本軍を苦しめます。
結局、日本軍は明と和平交渉を進めこの時は和睦しました。
しかし、和平交渉の内容が秀吉の納得のいくものではなかったので、すぐまた朝鮮へ出兵を命じます。
こうして、1597年に12万の兵を朝鮮半島に送りました。
しかし、今回は朝鮮側も準備万端だったので、日本軍と朝鮮・明軍は激しい戦いになりました。そんな中、秀吉が病気で亡くなってしまいました。
秀吉死去の報を受けた朝鮮の日本軍は、すぐに和平交渉をしようとしますが、秀吉の死が朝鮮側にばれてしまい追い打ちがかけられます。
こうして、命からがら退却できた日本軍でしたが、この戦いを通して得るものが何もなく、ただ豊臣政権が疲弊しただけでした。
豊臣秀吉のチェックポイント
- 豊臣秀吉は、尾張国の農民の子どもだった
- 信長の死後すぐに明智光秀を倒す
- 拠点に大阪城を築いた
- 信長の政治を引きついで全国統一をする
- 太閤検地を行い、決められた年貢を納めることを義務とした
- 刀狩令を出して百姓が武器を持たないようにした
- 中国(明)を征服しようと、2度にわたって大軍を送る
- 秀吉が病気で亡くなると、軍は朝鮮から引き上げた
今回は、信長の意思を継いで天下統一を果たすために豊臣秀吉の行った政策などを中心に紹介していきました。
信長の士官時代や一生を知りたい方はこちらの記事にまとめていますので、良かったら参考にしてください。