織田信長は天下統一のためにどのような事をしたのか??
室町幕府での将軍の後継者争いをしているうちに、各国で守護大名が力をつけ始めたり、その家臣たちが主人を倒し、その国を支配する下剋上の機運が高まりました。
このように国を支配する大名の事を戦国大名と呼ばれています。
その中でも、尾張国の織田信長が周りの大名を次々と倒し、京都を中心とする機内を手中に収めるまでになりました。そして、ついに室町幕府の将軍を京都から追放します。
こうして織田信長は、機内を足掛かりに天下統一に向かうために琵琶湖畔の安土に安土城を築きました。
この記事では、織田信長が天下統一のためにどのような事をしてきたのかを書いて行きたいと思います。
安土桃山時代とは??
織田信長が登場し、室町幕府の将軍が追放された頃から信長が統一を目指し、その跡を継いだ秀吉が天下を統一を果たし日本を治めた時代を安土・桃山時代と呼んでいます。
安土は信長が安土城を築いたことからその名前が付けられたことは割と知られていますが、桃山の方も織田信長の後に天下統一を果たした豊臣秀吉の城があった所が桃山だったために付けられました。
織田信長は天下統一を目指しますが、その志半ばで家臣である明智光秀に殺されてしまいます【本能寺の変】。
その天下統一事業を引き継いだのが、豊臣秀吉でした。
当時は羽柴秀吉と名乗っていました。
織田信長はどのようにして勢力を伸ばしたのか??
尾張の小さな大名だった織田信長は、桶狭間の戦いで大軍の今川義元を破り、武力による天下統一に向けて動き出しました。堺(大阪)などの商業都市を支配したことで、豊富な資金が手に入るようになった信長は、大量の鉄砲や軍船を整えました。
そして、有力な大名や将軍・足利氏を京都から追放する事で室町幕府を滅ぼし、その支配力を拡大していきました。武田氏との長篠の戦いの後、信長に対抗していた比叡山延暦寺や一向宗などの仏教勢力を武力で従えさせました。
※東京書籍 新しい社会6年を引用
上記の文章は、実際の教科書の織田信長に関する記載です。
これだけでは、具体的に何をしたのかわからないので、詳しく説明します。
尾張の小さな大名から尾張国の大名になった信長
室町幕府では、各国に守護を置いたのは他の記事で書きました。
ところが、室町将軍の後継ぎ問題で11年間も応仁の乱で争っていた事で、各国の守護達は巻き込まれていくことになります。その守護達は、自分の国を治めるどころではなくなり、守護代にその統治を任せていました。
その尾張国の守護代の一族が織田氏だったのです。
守護代が変わりに国を治めていくうちに、守護の力が次第に弱くなり、尾張では守護・斯波氏を押しのけて織田氏が尾張国を支配※していくようになります。
この時の織田家では、信長のお父さん・織田信秀が治めています。
時がたち信長が成長し、織田一族の間での権力争いも制し、織田氏のトップになった事で尾張の大名・織田信長が誕生しました。
織田家は守護代が守護を下剋上してのし上がった大名だったのです。
今川義元を破った桶狭間の戦い
駿河国守護の今川義元は、1560年に京都を目指すために尾張に侵攻してきました。
尾張に侵攻した今川軍の大軍は、桶狭間で休息をしていた所を織田信長が奇襲攻撃を仕掛けました。この奇襲攻撃の成功で、25000の今川軍を2000の兵士で破ることが出来ました。
岐阜城と天下布武
今川義元を破った信長は、次々と有力な大名を倒し支配力を広げていきます。
次に信長が侵攻したのが、美濃国(現在の岐阜)でした。1567年に美濃を支配すると、街と城の名前を岐阜と付けました。
中国の故事を参考に岐阜という名前には天下のもとになる町という意味があるよ。
この頃を境に織田信長は、このまま天下統一をしていこうと考えるようになり『天下布武』のキャッチフレーズを掲げていきます。
天下布武を掲げ織田信長は、1570年には越前国の朝倉氏・浅井氏を攻めました。織田・徳川連合軍 VS 浅井・朝倉連合軍 で戦った姉川の戦いです。
桶狭間の戦い以降に同盟を組んだ徳川家康と一緒に戦ったのですね。
室町幕府の滅亡
破竹の勢いで勢力を伸ばしていた信長の強さを聞きつけた足利義昭は、信長の力で自分を将軍にしてもらおうと頼みます。
この時、将軍家では13代将軍・義輝が暗殺され14代将軍・義栄がなっていました。本当は14代将軍を決める時に義昭がなりたかったが、自分をサポートしてくれる大名が居なくて断念してていたのです。
そこで、強力なサポート大名に織田信長に白羽の矢が立ちました。
こうして織田信長のサポートの元、1568年に足利義昭を連れて上洛を果たし、京都や周りの勢力も抑えることに成功しています。
当時の大名たちは、自分の権力維持に【天皇】や【将軍】の力を借りて京都を目指していました。信長にとって足利義昭のお願いは、権力掌握のチャンスだったという事になります。
念願の将軍になった足利義昭は、信長を【管領】や【副将軍】になるように勧めますが、あくまでも目標は天下統一で幕府内での出世ではなかったので信長は断っていました。
そんな二人の間に不穏な空気が流れるのは自然な流れでした。
将軍になれた義昭でしたが、実際の政治の実権は信長が握っていた事で義昭は次第に不満を持つようになります。義昭は、信長がサポートしつつ幕府の権力を取り戻す、信長は天下を統治し自分の政権を作るなのだからかみ合うわけがありません。
将軍として自分の思うままにできない不満から足利義昭は、自分に味方してくれる大名や仏教団体を使い信長包囲網を作り信長を倒そうと持ちかけました。
その中でも一番の強敵は甲斐国の武田信玄でした。
3万を超える大軍で同盟国の徳川家康を攻撃し、よいよ織田信長と対峙するのか?と言う所まで迫っていました。しかし、最強の武田信玄も病には勝てず急死した事で、信長包囲網はあっという間に崩れてしまいました。
包囲網が崩れた足利義昭は、丸裸当然になりついに信長は、義昭を京都から追い出し、1336年から237年続いた室町幕府は滅亡する事になりました。
長篠の戦いでついに武田氏を滅ぼす
信玄亡き後も武田家は勢いを衰えることなく、勝頼が跡を就いてもその勢力は最大になりって行きました。そして、1575年に織田・徳川VS武田の戦いが始まります。
この戦いが長篠の戦いで、めっぽう強い武田軍を撃退するのに信長は工夫を凝らして戦いに挑みました。
それは、新兵器・鉄砲をいくつかのグループに分けて順番に討つようにし、また、騎馬戦が得意な武田氏対策に馬防柵や堀を作り騎馬隊の侵攻を防ぐ措置も施しました。
この戦い以降、戦の在り方が様変わりして鉄砲を中心とした戦いに変化します。
こうして、長篠の戦いでも勝利を収めた織田信長は、その勢力を広げ機内一体と信濃国周辺まで支配圏を伸ばしていきました。
比叡山延暦寺の焼き討ちと一向宗
比叡山延暦寺は、天台宗の最澄が開きました。
平安時代当時は、貴族に支持されており『日本仏教の母山とまで呼ばれていた由緒あるお寺でした。そのため、たくさんの偉い僧が延暦寺で修行をしていたと言います。
現在では、世界遺産にも認定されています。
そんな延暦寺も、足利義昭の命で信長討伐に協力をしました。
安土桃山時代には、僧兵と呼ばれる戦う僧が居ました。その僧兵たち倒し、延暦寺を抑え込むために織田信長は、比叡山を焼き討ちにしました。
焼き討ちによって、比叡山延暦寺の仏像・仏典・お堂などが全て焼き払われました。僧・住民を含めて犠牲者は3000人以上とも言われています。しかし、比叡山を発掘してみると、焼けた木材も犠牲者の骨もあまり出てこなかった事から、実際には焼き討ちでもボヤ程度だったと言う説もあります。
あと、織田信長を苦しめた宗教団体が一向宗です。親鸞が開いた浄土真宗の門徒たちでした。その寺院は石山本願寺と呼ばれています。
この頃、苦しい生活を強いられていた民衆は、集まって一揆をおこしていました。
一向宗の門徒たちは生活が苦しい民衆たちや武士と協力して度々一揆をおこしていました。これを一向一揆と呼んでいます。
この一向一揆がなかなか手ごわく、一揆によって守護が滅ぼされる事態もあり、また一揆が繰り返されるうちに戦国大名顔負けの勢力までに成長していました。
天下統一を目指していた織田信長は、必然的にこうした一向一揆に対抗する事になっていくのですが、その戦いは何度も繰り広げられていました。
- 長島一向一揆…1573年に三度の遠征でやっとを制圧
- 加賀一向一揆…越前を支配していた一向宗を平定
- 石山合戦 …1570年~80年まで10年かかり決着
こうして織田信長は、天下統一事業を着々と進めていくのですが、1582年に本能寺の変で明智光秀の裏切りに合いその生涯を閉じることになります。
織田信長のまとめ
- 1560年 桶狭間の戦い(信長vs今川義元)
- 1562年 信長と徳川家康が同盟を結ぶ
- 1567年 信長が美濃国を制覇する
- 1568年 信長が足利義昭と京都へ入る
- 1570年 姉川の戦い(信長&家康vs浅井・朝倉軍)
- 1571年 信長が比叡山延暦寺を焼き払う
- 1572年 武田信玄が徳川家康を破る
- 1573年 信長が足利義昭を京都から追放する(室町幕府滅亡)
- 1575年 長篠の戦い(信長&家康vs武田勝頼)
- 1576年 信長が安土城の築城を開始する
- 1582年 本能寺の変が起こる(信長が亡くなる)
織田信長の重要な出来事
- 駿河の今川義元を桶狭間の戦いで破る
- 岐阜城を拠点に周辺大名を倒して勢力を広げる
- 将軍・足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼした
- 比叡山延暦寺を焼き討ちしその勢力を抑え込む
- 石山本願寺を含む一向宗も抑え込む
- 安土城を築城
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